小諸城は慶長年間(1596~1615)仙石氏によって近世城郭に改修されました。長享元年(1487)に大井光忠によって鍋蓋城が築かれ、天文23年(1554)に武田信玄の命により、鍋蓋城を取り込んで大城郭が築かれたとされています。この時の縄張を担当したのが山本勘介だという伝承もあるようです。
本丸・二の丸・三の丸が真っ直ぐ並ぶ、基本的な縄張りは、この時代に出来ていたようです。主要部が城下町より標高の低い珍しい城で、本丸・二の丸周辺が小諸城址懐古園として整備され、有料で公開されています。
本能寺の変の後、滝川一益が伊勢にトンズラすると小諸城は北条氏の手に落ちますが、依田信蕃が春日の穴小屋(春日城・三澤小屋の説も)に籠って北条軍の補給路を断ったため、北条勢は徳川と和議を結んで関東に退いていきました。信蕃が岩尾城攻めで戦死すると、家康は信蕃の子・康国に松平姓を名乗らせ、遺領を与えて小諸城主としました。小田原攻めの際に康国は石倉城攻めで戦死し、弟康勝が家督を継いで家康と一緒に関東に移り、上野藤岡城3万石を賜りました。
なんとなく所領が減っているような気がしますが、気のせいでしょうか。
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