ありおかじょう

有岡城

兵庫県伊丹市

別名 : 伊丹城
旧国名 : 摂津

投稿する
①虎口石垣と城跡碑
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:有岡城 (2024/10/04 訪問)

今日は移動距離が長く&攻城予定の城跡も多いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。(十三駅から伊丹(阪急)駅に向かいました。)
伊丹(阪急)駅から徒歩10分ちょっとで、有岡城跡緑道公園入口(34.780997、135.420993)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代には伊丹氏の居城であったそうです。 南北朝時代には数々の戦が摂津国で行われ、伊丹城でも数々の功城戦が行われ、時には落城しているようです。
1574年(天正2年)織田信長は茨木城主荒木村重に命じて、池田城主池田氏と伊丹城主伊丹氏を攻め滅ぼし、荒木村重を摂津国守護として伊丹城へ置きました。 村重は伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行いました。
1578年(天正6年)播磨国三木城主の別所長治が織田信長に叛くと、つづいて村重も織田信長に叛き有岡城に籠城しました。この時、黒田孝高が村重を説得するために赴いたが、そのまま捕えられて幽閉されました。
信長は池田・塚口・食満・加茂・倉橋・原田・刀根山に軍勢を配して有岡城を包囲し、長期戦に入りました。
1579年(天正7年)村重は近習を連れて夜陰に紛れて有岡城を脱し、尼崎城へ逃れました。城主が存在しないまま籠城を続けていたが遂に裏切り者が出て、周囲を固める砦が破られ1579年(天正7年)末に落城しました。
その後、信長は池田之助を城主に置きましたが、1583年(天正11年)美濃国へ転封となり羽柴秀吉の直轄領となって廃城となりました。

有岡城はJR伊丹駅の辺りに主郭が築かれていました。駅の西側に公園として整備されているのが主郭の一部で、土塁や石垣がありました。空堀跡を確認するのを忘れてました。
伊丹(阪急)駅から有岡城に向かう途中に、大溝跡と説明板を見つけました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=池田城を目指す為、JR伊丹駅から電車で川西池田駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

刀根山城 大阪府豊中市 (2024/05/17 訪問)

城びと未登録の城です。
未登録城をレポートする際には「お城選択」で最寄りの城を選んでいますがここは関連する有岡城を選択しました。
織田信長が有岡城の荒木村重を攻めた際に築いた砦の一つです。

モノレールの柴原阪大前駅から道路を横断し、坂を登った先の住宅地に位置します。
高低差があり、当時は要害であったことも伺えますが遺構はありません。
常楽寺の境内に鬼瓦風の説明板が立っているのみでした。

こんな住宅地でも信長関連の地があることは感慨深いです。

+ 続きを読む

イオ

惣構めぐり(惣構中部~南部) (2023/12/23 訪問)

(続き)

岸の砦から惣構の西縁を南にたどると、伊丹小学校の東側が一段高くなっていて石垣が続いています。遺構ではなさそうですが、惣構の雰囲気は感じました。伊丹小学校前交差点が昆陽口で、砦があったとも考えられるようですが、それらしい痕跡は見付けられませんでした(南側の道祖神のあたり?)。道祖神脇から狭い路地に入ると右手が一段下がっていて惣構の縁を歩いていることがわかります。路地沿いのところどころに石垣が見られますが、これも遺構ではなさそうです(たぶん)。路地を抜けると三軒寺前広場があり、その名の通り三軒の立派な寺院が並んでいます。往時に寺町として設けられたんでしょうか。

三軒寺前広場から南に4分ほど歩くと、中西新八郎と宮脇平四郎らが守った上臈塚砦に至ります。古墳を利用した砦で、伊丹シティホテル跡地から墨染寺にかけて築かれていましたが、遺構はもとより石碑も説明板もありません。墨染寺には砦の名のもとになった女郎塚と荒木村重の墓があるようですが、どちらも見落としてしまいました…。

上臈塚砦から県道に出て南下すると、県道東側のマンション西辺(南本町一丁目バス停付近)に石垣と水路が続き、説明板が立てられています。これこそ惣構の遺構なのでは!? と勇んで発掘調査の説明板を読んでみると、現在見られる石垣と水路のラインは江戸後期に伊丹郷町を拡張した時のもので、有岡城の惣構はマンション敷地の中央部で確認されたんだとか。伊丹郷町の遺構だとしても有岡城の遺構ではないんですね。残念…。県道を少し戻って今度は東へ。有岡公園を抜けた先の水路が大溝跡で、遺構かどうかはわかりませんが高さのある石垣が続いていました。大溝を南にたどると惣構の南東縁に出ます。有岡小学校付近の高低差もなかなかのものがありました。

有岡小学校からさらに南に進んで、野村丹後らが守った惣構南端の鵯塚砦跡に到着。鵯塚と呼ばれる古墳を利用した砦で、鵯塚がある民家と隣のマンション敷地にかけて築かれていたようですが、石碑も説明板も見当たらず敷地内は立入不可のため、ひよどり広場から写真を撮り砦跡西辺の堀の名残と思しき水路の石垣を確認して、惣構めぐり完了です。

織豊期に廃城になっているだけに惣構の遺構はほとんど見られませんでしたが、惣構をほぼ一周してみて、規模の大きさと高低差を上手く活用した堅固な造りを体感できたのは収穫でした。伊丹郷町としての見どころはいろいろとありましたし、街歩きとして楽しませてもらいました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

惣構めぐり(伊丹郷町~惣構北部) (2023/12/23 訪問)

(続き)

有岡城の惣構は河岸段丘の高低差を利用して築かれ、南北1.7km・東西0.8kmと南北に細長い形状です。有岡城が廃城となった後、城下町の大半は江戸前期に五摂家筆頭・近衛家の領地となり、主に酒造業により繁栄しました(伊丹郷町)。

JR・伊丹駅から西にのびる伊丹酒蔵通り沿いには、発掘調査で検出した伊丹郷町の大溝と呼ばれる石組みの水路が再現されています。在見られる大溝は城郭遺構ではありませんが、有岡城の内郭と外郭を区画する堀跡に築かれているようです。伊丹酒蔵通りをもう少し西に進んだ有馬道東側でも有岡城の堀跡が確認されていて、説明板が立てられていました。

伊丹酒蔵通りの一筋北には江戸前期築の旧岡田家住宅(国重文)があり、店舗や酒蔵、釜屋・洗い場などが公開されています(無料)。隣の旧石橋家住宅(県文化財)はクラフトショップとして営業していますが、こちらも立派な町屋でした。両町屋に北接する市立伊丹ミュージアムには有岡城についての常設展示(無料)もあるようなので見学する予定でいましたが、当日はすっかり忘れて素通りしてしまいました。またの機会があれば今度こそは…。

町屋を離れると惣構の外縁部に向かいます。有馬道は北部の北之口から池田や有馬へと続き、北之口には砦が設けられていたとも云われます。北之口砦跡は児童遊園地になっていて砦跡を示すものはありませんが、脇の小道(有馬道?)を下りて行くとなかなかの高低差があり、ここが惣構の縁であることを実感しました。

惣構の縁を西にたどって渡辺勘大夫が守ったとされる岸の砦へ。猪名野神社が砦跡と推定され、参道に岸の砦跡の説明板があり、境内の北西辺には土塁が遺っています。説明板によれば堀跡もあるようですが、見付けられませんでした。岸の砦からは惣構の西縁をたどって南に向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 伊丹氏
築城年 南北朝時代
主な改修者 荒木村重
主な城主 伊丹氏、荒木村重、池田之助
廃城年 天正11年(1583)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀跡
指定文化財 国史跡(有岡城跡)
再建造物 礎石建物跡、井戸跡、石碑、説明板
住所 兵庫県伊丹市伊丹1他
問い合わせ先 伊丹市教育委員会事務局生涯学習部社会教育課
問い合わせ先電話番号 072-784-8090