ありおかじょう

有岡城

兵庫県伊丹市

別名 : 伊丹城
旧国名 : 摂津

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城跡(主郭)入口
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智を構え 多勢を凌ぐ 黒の城 彼の堅牢さ 面影もなし (2026/05/05 訪問)

約2年ぶりの登城でした。


名の通っている「有岡城」は、信長から摂津三十八万石の守護に任命された荒木村重が城名を改めたことに始まります。

鎌倉時代末期に当地近辺を支配していた伊丹氏が小さな居館を築いたのが伊丹城の始まりとされます。具体的な時期は不明ですが、楠木正儀ら南朝方と、北朝方の赤松光範を助けた森本基長との間で伊丹川原合戦が起こり、一ヶ月後に伊丹城が南朝方の攻撃を受けたと綴る史料が残っていることから、南北朝期には城が既に存在していたようです。

戦国期の畿内政治史を描いた『細川両家記』には、細川高国と澄元の対立において伊丹氏は高国方であったことが記されており、澄元方で播磨守護の赤松義村が摂津に攻め入って伊丹城を包囲しますが、落とすことができず播磨に逃げ帰ったとあります。しかし数年後に澄元方の総攻撃を受けついに落城、城を守っていた伊丹但馬守、野間豊前守が"天守"で切腹しました。

ここで、敢えて天守を強調しました。
これまでは、伊丹城の天守が文献上の初見とされていました。しかしこれは現在否定されており、文献の写本段階で「主殿」が「殿主」に誤写され、その後も「殿守」→「天守」と転化したことが明確になっています。

伊丹城はその後も細川晴元、三好長慶らの攻撃を受けますが、『細川両家記』には「伊丹城計(ばかり)堅固也」とあり、城の堅固さを繰り返し記しています。

荒木村重の謀反の噂が流れ、籠城戦の火蓋が切って落とされたのは天正6年(1578)のことです。もとは池田城主の池田勝正に仕えていましたが、勝正が信長に降伏したのをきっかけに信長に仕え、尼崎城・芥川城・高槻城・茨木城などを攻略、池田城も手中にしました。石山合戦の際に村重の部下に内通者がいたことや、一族が明智光秀の丹波攻略の際に波多野氏と手を組み抗ったことで、光秀の恨みを買ったなどの噂をきっかけに村重は籠城戦を決意したといいます。10ヶ月ほど続いた籠城の末、村重は援軍を要請するため城を一度抜け出しますが、そのまま帰ってくることはありませんでした。戦後、信長は一族郎党すべてを惨殺したと伝わりますが、村重だけが生き延び、秀吉に仕えています。本能寺の変で信長が没した後、伊丹は秀吉の直轄領となり、城は荒廃の一途を辿りました。


伊丹城はいわゆる総構の城です。主郭の東側に猪名川が流れ、西側の内郭に侍屋敷、外郭に町屋が建っていました。主郭と内郭の間および内郭と外郭の間に堀を設けて区画しており、現在主郭から西に200mほどの場所に「大溝筋跡」が保存されています。また、城域の南端に「鵯塚砦」、西に「上臈(女郎)塚砦」、北は台地続きを掘り切って「岸砦」を築いていました。上臈(女郎)塚砦は現在の墨染寺の辺りとされ、お寺の入口左手に伊丹の俳人である鬼貫の碑が建っています。


伊丹城のように、城郭を鉄道路線が貫いている例が他にもいくつかあります。色々思うところはありますが、地域の方々の善意によってほんの一部だけでも遺構が保存・復元されるのは大変喜ばしいことです。ぽつんと建っている石碑、局地的に盛り上がっている土地、不自然な位置に設けられたクランクなど、毎日通っていて見向きもしないあの場所が実は、形を変えつつも往時の名残を留めている城郭遺構だったりして。

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赤い城

街なか遺構ハント (2026/04/11 訪問)

この日は相方が三宮で友達とランチ、運転手の役割を仰せつかります。
三宮駅で降ろし伊丹へ向かいました。

JR伊丹駅前にある主郭部は公園になっていて人通りも多いです。
土塁や石垣、堀跡があります。
文献によると日本最古の天守があったとされますが詳細は不明です。

この城、ここだけでなく皆さんのレポートにあるように総構を持っています。
市街地化され、遺構はほぼ残りませんが歩かないわけにもいきません。
久しぶりの街なか遺構ハントへ。

まずは北側を守る岸の砦へ。
猪名野神社が建っています。
周囲には土塁が残っていました。
少し東に歩き、北ノ口砦へ。
ここは住宅地となり、高低差にその名残を想像するのみです。

西に進み、次は昆陽口砦、ここも遺構はありません。
伊丹小学校の前の道が西側防御線となります。
南下し、上臈塚砦。
墨染寺が建つあたりになります。
遺構はありませんが高低差が楽しめます。

さらに南下、県道沿いの堀跡を見学して鵯塚砦へ向かいます。
城の南側を守る砦です。
堀跡も残っていました。

ここから北上、有岡小学校前の道が東側の総構跡でここも高低差が楽しめます。
さらに大溝跡を見学して戻りました。

少し暑い1日、良い散歩日和を楽しみ相方を迎えに戻りました。

【見どころ】
 ・転用石もある石垣
 ・岸の砦の土塁
 ・総構を歩く街なか遺構ハント

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しんちゃん

惣構北端・岸の砦跡 (2014/07/22 訪問)

岸の砦跡は有岡城惣構の北端に位地し、織田信長の有岡城攻めの際には荒木村重の重臣・渡辺勘大夫が守っていました。城址は現在は猪名野神社の境内になっており、周囲との高低差から惣構の雰囲気を感じ取ることが出来ます。境内には土塁が残っています。

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しんちゃん

主郭部 (2014/07/22 訪問)

有岡城は元々は伊丹氏の城であったとされています。天正2年(1574)荒木村重が伊丹氏を破って入り大改修を行い、主郭部や町屋・侍町を土塁や石垣で囲った惣構の城として完成しました。
その後、荒木村重の謀反により織田信長の大軍に囲まれ10ヶ月のう攻防戦の末に落城しました。かつての主郭部は古城山と呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが明治以降開発が進み、土塁や石垣、礎石建物跡(展示名まんま)などが残っています。

かつて黒田官兵衛が村重の説得に向かい土牢に閉じ込められたという伝承が有りますが、土牢の件に関しては真偽は定かではないようです。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 伊丹氏
築城年 南北朝時代
主な改修者 荒木村重
主な城主 伊丹氏、荒木村重、池田之助
廃城年 天正11年(1583)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀跡
指定文化財 国史跡(有岡城跡)
再建造物 礎石建物跡、井戸跡、石碑、説明板
住所 兵庫県伊丹市伊丹1他
問い合わせ先 伊丹市教育委員会事務局生涯学習部社会教育課
問い合わせ先電話番号 072-784-8090