約2年ぶりの登城でした。
名の通っている「有岡城」は、信長から摂津三十八万石の守護に任命された荒木村重が城名を改めたことに始まります。
鎌倉時代末期に当地近辺を支配していた伊丹氏が小さな居館を築いたのが伊丹城の始まりとされます。具体的な時期は不明ですが、楠木正儀ら南朝方と、北朝方の赤松光範を助けた森本基長との間で伊丹川原合戦が起こり、一ヶ月後に伊丹城が南朝方の攻撃を受けたと綴る史料が残っていることから、南北朝期には城が既に存在していたようです。
戦国期の畿内政治史を描いた『細川両家記』には、細川高国と澄元の対立において伊丹氏は高国方であったことが記されており、澄元方で播磨守護の赤松義村が摂津に攻め入って伊丹城を包囲しますが、落とすことができず播磨に逃げ帰ったとあります。しかし数年後に澄元方の総攻撃を受けついに落城、城を守っていた伊丹但馬守、野間豊前守が"天守"で切腹しました。
ここで、敢えて天守を強調しました。
これまでは、伊丹城の天守が文献上の初見とされていました。しかしこれは現在否定されており、文献の写本段階で「主殿」が「殿主」に誤写され、その後も「殿守」→「天守」と転化したことが明確になっています。
伊丹城はその後も細川晴元、三好長慶らの攻撃を受けますが、『細川両家記』には「伊丹城計(ばかり)堅固也」とあり、城の堅固さを繰り返し記しています。
荒木村重の謀反の噂が流れ、籠城戦の火蓋が切って落とされたのは天正6年(1578)のことです。もとは池田城主の池田勝正に仕えていましたが、勝正が信長に降伏したのをきっかけに信長に仕え、尼崎城・芥川城・高槻城・茨木城などを攻略、池田城も手中にしました。石山合戦の際に村重の部下に内通者がいたことや、一族が明智光秀の丹波攻略の際に波多野氏と手を組み抗ったことで、光秀の恨みを買ったなどの噂をきっかけに村重は籠城戦を決意したといいます。10ヶ月ほど続いた籠城の末、村重は援軍を要請するため城を一度抜け出しますが、そのまま帰ってくることはありませんでした。戦後、信長は一族郎党すべてを惨殺したと伝わりますが、村重だけが生き延び、秀吉に仕えています。本能寺の変で信長が没した後、伊丹は秀吉の直轄領となり、城は荒廃の一途を辿りました。
伊丹城はいわゆる総構の城です。主郭の東側に猪名川が流れ、西側の内郭に侍屋敷、外郭に町屋が建っていました。主郭と内郭の間および内郭と外郭の間に堀を設けて区画しており、現在主郭から西に200mほどの場所に「大溝筋跡」が保存されています。また、城域の南端に「鵯塚砦」、西に「上臈(女郎)塚砦」、北は台地続きを掘り切って「岸砦」を築いていました。上臈(女郎)塚砦は現在の墨染寺の辺りとされ、お寺の入口左手に伊丹の俳人である鬼貫の碑が建っています。
伊丹城のように、城郭を鉄道路線が貫いている例が他にもいくつかあります。色々思うところはありますが、地域の方々の善意によってほんの一部だけでも遺構が保存・復元されるのは大変喜ばしいことです。ぽつんと建っている石碑、局地的に盛り上がっている土地、不自然な位置に設けられたクランクなど、毎日通っていて見向きもしないあの場所が実は、形を変えつつも往時の名残を留めている城郭遺構だったりして。
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