(続き)
岸の砦から惣構の西縁を南にたどると、伊丹小学校の東側が一段高くなっていて石垣が続いています。遺構ではなさそうですが、惣構の雰囲気は感じました。伊丹小学校前交差点が昆陽口で、砦があったとも考えられるようですが、それらしい痕跡は見付けられませんでした(南側の道祖神のあたり?)。道祖神脇から狭い路地に入ると右手が一段下がっていて惣構の縁を歩いていることがわかります。路地沿いのところどころに石垣が見られますが、これも遺構ではなさそうです(たぶん)。路地を抜けると三軒寺前広場があり、その名の通り三軒の立派な寺院が並んでいます。往時に寺町として設けられたんでしょうか。
三軒寺前広場から南に4分ほど歩くと、中西新八郎と宮脇平四郎らが守った上臈塚砦に至ります。古墳を利用した砦で、伊丹シティホテル跡地から墨染寺にかけて築かれていましたが、遺構はもとより石碑も説明板もありません。墨染寺には砦の名のもとになった女郎塚と荒木村重の墓があるようですが、どちらも見落としてしまいました…。
上臈塚砦から県道に出て南下すると、県道東側のマンション西辺(南本町一丁目バス停付近)に石垣と水路が続き、説明板が立てられています。これこそ惣構の遺構なのでは!? と勇んで発掘調査の説明板を読んでみると、現在見られる石垣と水路のラインは江戸後期に伊丹郷町を拡張した時のもので、有岡城の惣構はマンション敷地の中央部で確認されたんだとか。伊丹郷町の遺構だとしても有岡城の遺構ではないんですね。残念…。県道を少し戻って今度は東へ。有岡公園を抜けた先の水路が大溝跡で、遺構かどうかはわかりませんが高さのある石垣が続いていました。大溝を南にたどると惣構の南東縁に出ます。有岡小学校付近の高低差もなかなかのものがありました。
有岡小学校からさらに南に進んで、野村丹後らが守った惣構南端の鵯塚砦跡に到着。鵯塚と呼ばれる古墳を利用した砦で、鵯塚がある民家と隣のマンション敷地にかけて築かれていたようですが、石碑も説明板も見当たらず敷地内は立入不可のため、ひよどり広場から写真を撮り砦跡西辺の堀の名残と思しき水路の石垣を確認して、惣構めぐり完了です。
織豊期に廃城になっているだけに惣構の遺構はほとんど見られませんでしたが、惣構をほぼ一周してみて、規模の大きさと高低差を上手く活用した堅固な造りを体感できたのは収穫でした。伊丹郷町としての見どころはいろいろとありましたし、街歩きとして楽しませてもらいました。
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