足羽川洪水に由来する波着寺(金沢に移転済)の裏山にあるが波着寺城ではなく成願寺城で、成願寺の名の由来がわからんとか。東郷槙山城とともに一乗谷の前面を守る城と位置付けられるが普請は緩めなのがむしろ特徴なのかも。
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2025/03/20 12:04
2022/12/02 20:30
成願寺城 (2022/11/05 訪問)
【成願寺城】
<駐車場他>成願寺ふれあい会館
<交通手段>車
<見所>堀切・切岸・畝状竪堀
<案内>城びと実質登城者初投稿いただきます。昌官忠さんが登山口が見つけられず断念したとのことなので詳細に。私の前投稿の波着寺跡にも投稿していますが、まず波着寺跡を目指します。<36.030677, 136.280050>のポイント岐路に波着寺跡方向の板がありますので北方向に曲がり150m程直進(途中から土の道の民家の間を通る)すると公衆電話BOXを再有効利用した波着寺記帳所と鳥居がありますのでそこが登山口になります。参道はつづら折りを登りますが真ん中を割くように1つづつに竪堀があり見応えあります。この竪堀は波着寺の遺構か焼失後に成願寺城の補強の為に造られたものかは分かりませんが明確に残るいい遺構ですので一見です。25分程度登ると波着寺跡にたどりつきます。ここで先に波着寺跡を一巡り見ておく方がお勧めです。それは波着寺の方が古くからあり、波着寺が一向宗に焼き討ちにあった後に成願寺城が出来たかあるいは時代が重複し相関関係にあったかもしれないので自分の中で考察できると思うからです。
波着寺跡から山頂の成願寺城跡を目指します。私は本堂跡から直登し連続堀切の尾根上まで出ましたが、鐘楼堂跡の奥に山頂方向へ登る階段があります(階段は途中で無くなると思います)のでそこから成願寺城跡へ向かうことができると思います。帰路で迷ったので尾根の途中で出たら目印を付けておくのが良いと思います。尾根上に出たら左手西方向に尾根(連続堀切になっている)を進んだら主郭切岸下に着きます。波着寺跡から城跡まで15分くらいです。
<感想>成願寺城の詳細はよく分かっていませんが、戦国時代に築城され、主な城主に朝倉氏の重臣で信長に内応した前波吉継(のちの桂田 長俊)がいます。城跡は東西に伸びる細尾根を利用した縄張りで前述の東側の連続堀切を過ぎ主郭の手前に2重堀切があります。主郭とその先に各々ある曲輪の切岸は高く攻略しがいがあります。主郭は狭く土塁囲みで南側のゆるやかな傾斜に畝状竪堀がありますが少し薄くなっています。城跡の西側は南に伸びる尾根とそのまま西へ下っていく尾根が分岐して曲輪になっています。西端には巨石があり城はここまでかなといった感じです。
山地の西麓付近に城びと未登録の成願寺城下の城があるのですが山頂から少しトライしましたがだいぶ距離があるようなので断念しました。波着寺跡の御清水跡から西方向へ向かうと比較的楽に行けるようです。
戻り道が尾根から適当に直降りしたものだからロストして迷いまして最後波着寺の鐘楼堂跡に出ることができました。途中ぬかるみにブヒブヒの足跡が無数にあったので確実に居ます(怖)。
<満足度>◆◆◇
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2022/08/25 06:23
2022夏の青春18キップ10日目:成願寺城と波着寺 (2022/07/29 訪問)
東郷槇山城からの転戦です。成願寺ふれあい会館駐車場(36.030524、136.278888)に駐車しました。その道路向かいに「波着寺縁起」の案内説明板が建てられています。
そこから歩いて、波着寺参道入口(36.030748、136.280040)に向かいました。
詳細は不明のようですが、戦国時代、成願寺の地は一乗谷朝倉氏の重臣・前波九朗兵衛が治めており、朝倉方の要衝として城が築かれていました。
前波吉継は織田信長に内通して朝倉氏の滅亡に加担し、その後は信長に越前一国を任され桂田長俊と名乗りましたが、富田長繁と対立して滅亡しています。
登山道入口の鳥居付近から道を間違えて迷子になってしまい、波着寺さえ辿り着けませんでした。
波着寺縁起の案内説明板に地図まであったのに、方向音痴の自分が本当になさけないです。登城断念です。
攻城時間の30分は迷子でさまよった時間です。次の攻城先=伊自良氏館に向かいます。
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分類・構造 | 山城 |
---|---|
築城主 | 前波吉継(桂田長俊) |
築城年 | 戦国時代 |
主な城主 | 前波氏 |
遺構 | 曲輪、横堀(空堀)、畝状竪堀 |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 福井県福井市成願寺町 |