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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:賤ヶ岳砦 (2025/05/18 訪問)

木ノ本駅の観光案内所で電動自転車を借り、15分くらい走って、賤ヶ岳リフト駐車場(35.502248、136.197647)に向かい、山麓から賤ヶ岳リフトを使い登城しました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(天正元年)に浅井・朝倉軍が賎ヶ岳に布陣していた記録が残されているそうです。
1583年(天正11年)賤ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として利用され、 城将は但馬国竹田城主桑山重晴、羽田長門守、浅野弥兵衛であったそうです。

賤ヶ岳砦は賎ヶ岳山頂に築かれており、 現在は展望公園として整備され、リフトもあって観光スポットになっています。

現在城址は展望公園として整備されており、山頂からは余呉湖と琵琶湖、また小谷山や虎御前山を一望できる絶景ポイントとなっています。
リフト往復チケット(900円)を買いました(降りる時に回収された為、残ってません)。時間と体力のことを考えるとリフト使用は安いかも。
山頂部は観光化され明確な遺構らしきものはないような?。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=岩崎山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:田上山城 (2025/05/18 訪問)

木ノ本バスターミナルから徒歩10分くらいで、意富布良神社(おほふら)鳥居前(35.507227、136.226697)に着き、意富布良神社の境内奥の碑「田上山登り口」から登りました。
下城は林道をそのまま下り、小溜池方面に出ました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(元亀4年)浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱で、朝倉氏の軍勢が田上山に布陣したそうです。
1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として秀吉の弟羽柴秀長が布陣し、秀吉方の本陣的な役目を果たしましたが、合戦の勝利にともない利用されなくなりました。

意富布良神社境内横から登城すると、すぐに林道と合流し、林道終点から整備された登山道です。
城址は予想以上に規模が大きく、遺構は土塁や空堀のほか、虎口と竪堀など技巧的な土の城が楽しめます。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=賤ヶ岳砦へ行く為、木ノ本駅の観光案内所へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:塩津城 (2025/05/18 訪問)

応昌寺城(城びと未登録 滋賀県長浜市)から徒歩15分くらいで、道路西側登り口(35.523790、136.166083)に着きました。

築城者ははっきりしないようですが、地頭としてこの地に入った熊谷兵庫直高の居城と云われています。

道路西側登り口のフェンス越え場所を捜しました。前日の雨で滑る状態で、丘陵は注意しながら上り下りしました。
上りきると堀切、空堀、土塁が見えてきます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=田上山城に向かう為、塩津北口バス停からバスで木ノ本バスターミナルに向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:応昌寺城(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

米原駅から近江塩津駅に向かい、そこから徒歩15分弱で、散策道入口付近(35.530354、136.156995)に着きました。
塩津小学校の校門を入った右手に公園へ通じる散策道があり、それを登ると城跡に着きます。

山の西麓の”応昌寺”には「元亀年間の昔、信長が越前の浅倉氏を攻めるために、軍勢を率いて当の応昌寺の門前を通行の折、突然事もあろうに落馬したが、それは門前の古木のもとに鎮守の荒神が祭られ、古伝では何人たりともその神前を乗馬等の乗り物のままで通行すれば、おとがめ・たたりがあると聞いて、信長は立腹のあまり荒神(木像)の頭部を切り落としたという。
即座に激しい腹痛をおぼえ、さすがの信長もざんげせざるお得なかった云々・・・」の伝承があるが、このあたりは往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所に該当する遺構が有ったのでは。
また、応昌寺はその昔「高源庵」と呼ばれ”とんちの一休”で知られた一休和尚の師の華叟宗雲禅師が京都より堅田の称名寺祥瑞寺を経てここ高源庵に住まわれたとの古伝もあり、堅田とこの高源庵の深いかかわりも考えられ、その墓塔が応昌寺に祀られているそうです。

城跡は塩津小学校の南に面した小山で、頂部一面公園施設になっています。
堀切状の深い窪地と低土塁を確認しましたが、ある程度進むと金網が邪魔をして、それ以上は進めませんでした。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=塩津城へ徒歩で向かいました。

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todo94

万博翌日の攻城④【城びと未登録・難波宮】(大阪市中央区) (2025/05/11 訪問)

宇利和利城からの転戦です。大阪メトロ谷町線を出戸駅から谷町4丁目駅まで利用してのアプローチです。難波宮は大阪城の南に隣接していて城びとの登録物件にはなっていませんが、古代三大政庁の平城宮、太宰府、多賀城はすべて城びと登録物件になっているので、都であった時代がある難波宮も城の範疇に入るかと考え投稿させていただきました。読了したばかりの阿部龍太郎の「平城京」にも登場していてちょっと思い入れが生じていたのです。阪神高速の南側に位置する大極殿跡は訪れたことがあります。阪神高速の北側の内裏北側が「なノにわ」としてきれいな公園、商業施設として整備されていてびっくりしました。内裏正殿の基壇が復元されていてちょっとした展望スポットになっています。

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北条氏繁 (2025/06/12 訪問)

 戦国時代、後北条氏の北関東進出拠点としていた城ですが、1590年豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を滅ぼし逆井城も廃城になりました。現在も堀と土塁が残り二層櫓、井桜櫓、櫓門、橋、塀、主殿などが復元され、逆井城跡公園として整備されています。戦国時代の雰囲気を感じることができる城址です。二層櫓は上がることができます。予想していたより空堀など残っていて楽しむことができました。この日は曇っていて、それほど気温も上がらずあまり汗をかくこともなく散策ができました。

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小貝川の畔 (2025/06/12 訪問)

 豊田氏の城と伝わっています。小貝川堤防上に石碑と説明板がありました。

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渡辺氏の居城 (2025/06/12 訪問)

 渡辺氏の居城とされています。渡辺食品株式会社という会社の入り口に石碑などがあります。

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多賀谷城跡公園 (2025/06/12 訪問)

 多賀谷氏の居城で当時は沼に浮かぶ水城であったようです。本丸跡は現在、多賀谷城跡公園となっています。多賀谷城跡公園には石碑と説明板がありました。城山稲荷神社の土塁を確認して撤退しました。

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chiroru

見応えありました (2025/06/06 訪問)

生い茂る植林で、城東地区から見る津山城は魅力の石垣が見え隠れしていましたが、近くに来ている感は嬉しいものです。

石垣が大きくて高くて整っていて、櫓の位置を確認しながら目指すは備中櫓。道中の紫陽花の花も風情があり、時折吹いてくる
風がなんとも心地よくて。
備中櫓を見学した後に、藤棚になっている長局で一休み。こういう場所でこんな時間の過ごし方贅沢だなあとおもいました。

津山市のソウルフード「干し肉」を市内の商店街の精肉店で購入。津山城に思いを馳せいただきました。

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しんちゃん

畝状空堀を見て帰る。 (2025/05/11 訪問)

主郭を散策したあとは南西部の石段を下って下まで降ります。かなり急な角度だけど、上り下りがしやすいように石で固めてあるようだ。ちょっと気を付ける必要があるけど、なんとか降りれた。遺構はひとしきり散策したと思うので、引き返すことに。
主郭腰郭の東側の大きな堀切を渡って東に進むと、来る途中には気が付かなかった畝状の空堀が横たわっている。マイナーだけど、いろいろと遺構が残っていて面白い城です。ただ、周囲をフェンスで囲まれているので、民家の人に声をかけて入る必要は有るので、タイミングの良し悪しは有る。入るときに開いたフェンスを縛り直して下山。
これでGWに回った城は最後になります。総延長で3480kmほど、けっこう走った! なんとか無事に帰ってこれましただ。

最後の写真は、以前スルーした若狭野陣屋の門です。帰るついでに寄って撮影。

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しんちゃん

高岡城 (2025/03/10 訪問)

初代加賀藩主・前田利長は慶長10年(1605)富山城に隠居しますが、4年後の火災によって城内の大半を焼失したため、一時 魚津城に移り高岡城を築いて移りました。縄張りは高山右近とされています。慶長19年(1614)に利長が没し、翌年の一国一城令によって廃城となりますが、その後も藩の米蔵や塩蔵を置くという名目で温存されたようです。
本丸の周囲に水堀が巡らしてあり、堀の幅や規模はかなりの物です。南西に二の丸が配され、反時計回りに鍛冶丸(百名城スタンプ)・明丸・三の丸(民部丸)・馬出らしき曲輪・小竹藪と続き、馬出らしき曲輪と本丸は橋で直接行き来することが出来ます。

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しんちゃん

菊池十八外城 (2025/05/09 訪問)

古池城は菊池十八外城の一つとされています。当初は菊池氏三代経頼の孫、経信からはじまる出田氏が城主として在し、その後は菊池氏の重臣である城氏の居城となりました。
主郭と見られる郭の中に古墳らしき土盛りがあり、祠が祀られています。それ以外、特に城址らしい遺構はありませんでした。周囲の道は狭く、近くには車を留めるスペースも無いので、どこか離れた場所に車を留めて歩いて来る必要があります。

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朝田 辰兵衛

現在も居住されています🏡 (2025/05/04 訪問)

屋代駅から北廻りルートで徒歩約50分で到着。バリバリ現在も居住されています。自宅をジロジロ見られるのに抵抗はないのだろうか…と思いましたが,そのへんは地域の観光資源として割り切っているのかな…と。

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トク

黒田六端城を行く:(6城目)麻底良城 (2025/02/18 訪問)

黒田六端城を行く、最後6城目は「麻底良城」です。筑後川沿い豊後へ通じる日田街道を見渡せる地に、黒田長政は家老筆頭の「栗山備後守利安」に18,000石で与えます。大河ドラマ軍師官兵衛では、「濱田岳」さんが演じられていましたね。

西鉄朝倉街道駅から[41]杷木行のバスに乗り50分、国道386号沿いの「志波」で下車(写真②)、そこから左の円清院の標識に従い10分程歩くと、左側に(写真①)の景色が見えてきます。そこから50分程登った麻底良山(295m)の山頂に麻底良城はありました。車の方は、麻底良神社下宮(写真④の裏)に3台程の駐車場がありますが、途中の普門院から先は道がとても狭く、おそらく軽でギリギリ幅、普通車はやめた方が無難です。途中の円清院には栗山利安の位牌と子の栗山大膳の墓碑がありました(写真③)。

下宮から先は、1m幅の土なので歩きやすかったですが、傾斜が急なので意外と足にきました(写真⑥⑦)。最後に階段があり、そこを登った山頂が城跡で現在は麻底良神社上宮が建っていました(写真⑧⑨)。江戸元禄時代(1700年頃)に政所(藩政の中心)は麓の円清院周辺に移され、跡地にこの神社(上宮)が建てられたようです。杉に囲まれて山頂からの眺望がなかったのがちょっと残念でしたが、登山道の途中に眺望がありました(写真⑩)。眼下には筑後川と原鶴温泉、中央の大分自動車道の下に志波のバス停があります。

【注意】ナビを信じるな!
下宮から先の道が、案内標識が何もなく分からなかったので、スマホのナビを使用して登ると、ナビは写真④の下宮の先の分岐から右へ行けと出ます(写真⑤)。信じて15分程登った所で道は行き止まり(あれ~🤔?)。果樹園農家のおじさんがいたので訪ねると、戻って下宮の杉の木の間にある細い道を登れと言われました(写真⑤)。皆さんもナビに騙されないよう気をつけて下さいね! 30分もロス、地図か案内標識くらい付けてくれよ~!😩

【後書き】黒田六端城を行くはこれで終了です。全7回読んでいただき有難うございました。「みんなの投稿」から「黒田六端城を行く」で検索していただければ、私の六端城7回分のバックナンバーを見ていただく事ができますので、登城される方の参考にして頂ければ幸いです。
 

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todo94

万博翌日の攻城③ (2025/05/11 訪問)

河内小山城からの転戦です。八尾南駅に徒歩でアプローチし大阪メトロ谷町線で出戸駅にアクセスしました。古墳を利用した城という訳ではなく城域に古墳があるだけなのだと思うのですが、グーグルマップでは花塚山古墳に()付きで瓜破城と記されています。期せずして、古墳3連発となりました。じゅんじんさんの投稿を拝見して、真田幸村休憩所跡にも立ち寄っていきました。そして出戸駅に向かう途中で志紀長吉神社にも立ち寄っていきました。そして、真田の六連銭(むつれんせん)がデザインされている勝守1000円を衝動買いしてしまいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:トトロの森レトロ看板ミュージアム(滋賀県米原市) (2025/05/17 訪問)

米原駅徒歩15分くらいで、トトロの森レトロ看板ミュージアム付近(35.321102、136.295809)に着きました。

トトロの森レトロ看板ミュージアムというよりは、バス停で古い看板が側面一杯に飾ってあります。
攻城時間は5分くらいでした。米原駅に向かい、コインロッカーより荷物を取り出した後、ホテルに向かいました。
歩行歩数=27030歩、歩行距離=18.9Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征3日目:徳昌寺(城びと未登録 滋賀県東近江市) (2025/05/17 訪問)

仙台藩羽田陣屋(城びと未登録 滋賀県東近江市)から徒歩10分くらいで、徳昌寺参道入口(35.089089、136.157029)に着きました。

築城年代や築城者など詳細ことは定かではないようです。

徳昌寺境内の土塁と堀を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストですが、ちょっと時間があったので、トトロの森レトロ看板ミュージアムに行く為、羽田西バスから米原駅に向かいました。

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昌官忠

仙台藩羽田陣屋(城びと未登録 滋賀県東近江市) (2025/05/17 訪問)

後藤館から徒歩10分ちょっとで、長屋門前(35.085741、136.156994)に着きました。

羽田陣屋は、1664年(寛文4年)に伊達綱村によって築かれました。
仙台伊達氏は、近江蒲生郡・野洲郡内で1万石の飛び地領があり、その采地陣屋として設けられたそうです。

陣屋は、円通寺北側の長屋門がある民家敷地一帯に築かれていたそうです。
その脇にある鹽竃神社は、陸奥国一宮・鹽竃神社から陣屋の鎮守として勧請されたそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=徳昌寺(城びと未登録 滋賀県東近江市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征3日目:後藤館 (2025/05/17 訪問)

羽田西バス停から徒歩5分くらいで、説明板前空スペース(35.087355、136.149288)に着きました。

築城時期は定かでないようですが 鎌倉期にはすでにあったようです。
後藤氏は進藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれる重臣で、後藤賢豊が六角義粥に殺害された(観音寺騒動)1563年(永禄6年)頃まで存在したと考えられており、六角氏が織田信長に滅ぼされた後は蒲生氏に仕えたようです。

周囲は水田および畑ですが、大きな土塁が北と東側に残り、西側には立派な石垣があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=仙台藩羽田陣屋(城びと未登録 滋賀県東近江市)へ徒歩で向かいました。

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