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しんちゃん

石碑見てない‥ (2024/02/24 訪問)

龍泉寺城は別名「嶽山城」といい元弘2年(1332)に楠木正成によって築城された楠木七城の一つとされています。畠山氏の家督争いの際には畠山義就が籠城しています。かんぽの宿の北側に石碑が有るようですが、情報が足りておらず見損ねています。
歴史的に意義のある城だとは思いますが遺構らしいものは見当たりませんでした。ログハウスのあるあたりからの眺望はなかなか良かったです。ちょっと消化不良気味ですね。

せっかくですので奈良県大和郡山市の慈光院に移築されている大阪・茨木城の楼門を載せておきます。

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零汰

数少ない石垣 (2019/10/22 訪問)

城廻りを始めて半年くらいの時期に訪問しました。

1年半振りに城訪問を再開してからしばらく経ち、少々心境の変化があったらしく時間を見つけては城を訪問したりはたまた再訪問したり、訪問済の城跡を振り返りするようになりました。その中で文章にする事で再確認も兼ねて過去訪問の投稿をしています。

こちらは島津系の城跡です。島津氏は薩州家、豊州家やら書き出すと10家を超えるんじゃ無いかと言う位に本家や分家が多くあり、調べる事さえ億劫でどの島津氏の城なのかは置いておきます。島津系の城跡でも珍しく当時のままの石垣を施している珍しく貴重な城跡だと思っています。城域に入るとすぐに目当ての石垣は現れますが過ぎると直ぐに本来の荒々しい様相に変わります。そこが私が好ましく思える鹿児島の城なのですが。主郭はオーソドックスでお決まりの切り裂くほどの堀切は気持ちを高ぶらせてくれます。が、私の中では島津系の城跡は全体的に大人しく感じています。とある国人衆関連の城跡は荒々しい上に危険を感じます。

鹿児島では珍しい石垣有りの城跡、中学校のプールの横が進入口なので、授業中にカメラを持って登って行くと怪しく見られるのが難点ですが良い城跡です。

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ぴーかる

坂手村砲台 (2024/06/08 訪問)

【坂手村砲台】
<駐車場他>佐田浜マリンターミナル前の停車区間に一時停車して撮影しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅4城目。先達の方々と同じように砲台跡に建設されたホテルが廃業となり立入禁止なので上記停車ポイントから撮影のみとしました。
 坂手村砲台は文久年間(1861~1864年)に志摩鳥羽藩主の命により、伊勢湾口・鳥羽港という要衝に位置する坂手島に2か所砲台を築造しました。北西に位置する田ノ崎が明治になって「坂手村砲台跡」として県の史跡になったそうです。その後ホテルの建設により遺構が消滅したようです。

<満足度>◆◇◇

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零汰

行きましたケド。 (2024/05/23 訪問)

松前城を見た後は北側に位置するこちらに行きました。別名は徳山館です。

相も変わらずロクに調べず到着しました。そこには神社が建っていました。平地で神社の良くあるパターンです。
何か土産になるようなものは無いかと物色、寺院と違い神社の多くは無人なので探索は楽ですね。
一通り見て廻りましたが予想通りでした。とその時は思っていました。

自宅に帰って復習の時間に昌官忠さんの投稿を見て驚きました。神社とは別に遺構の場所があるそうです。
実は昌官忠さんの投稿はいつも的を得ていて改めて驚いています。
この北シリーズの復習時間に投稿を読み再確認が出来たのは一度や二度ではありません。
気になる方は昌官忠さんの投稿も読み返して頂くとよりこちらの城跡の訪問に役に立ちますよ。

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しんちゃん

源氏物語 宇治十帖「浮舟」 みむろどう (2018/03/31 訪問)

京都府宇治市の名刹・明星山 三室戸寺は紫陽花やツツジが有名ですが春の季節の境内もなかなか良かったです。宇治には古来より「宇治十帖の古跡」が設けられ、多くの人がゆかりの地として巡ったとされています。三室戸寺鐘楼脇には「浮舟古跡」と刻まれた古い石碑が有り、案内板が立てられています。
宇治十帖は源氏物語五十四帖の最終の部分の、45帖「橋姫」~54「夢浮橋」にあたります。若紫や光源氏が退場してからの次の世代の物語で、薫・匂宮・浮舟の三角関係から、最後ははっきりとした結末を示さないまま物語は終結し、少しモヤモヤした終わり方で、ある意味 読み手の想像力に任せる部分があるようです。大河ドラマの方は「合戦」とか「首実検」とかないからツマンないな~と思いながらダラダラ見てますが、来年も平和な江戸の時代が舞台なんですな。ちょっとストレスたまるかな~。

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しんちゃん

一番槍と二番槍 (2024/08/09 訪問)

お盆の連休は諸般の事情で城めぐりができそうもないです。あまりの暑さとショックでアタマがおかしくなって、こんなモノを作ってしまいました。カーマで売っている溝のついた棒にスイカバーBIGを装着すると「一番槍」用の「赤いヤリ」が完成です。
といっても、周辺県には一番槍をつけれそうな城びとの城は無いですね。ノリで作っただけで、そんなに一番槍にこだわっているわけではないけど、ゆっくり東北を周りたいなあ。限定の白いスイカバーBIGを装着すると「白いヤリ」になりますぞ。

追加‥スーパーで売ってるやつを装着しました。「二番槍」用の「緑のヤリ」です(メロン味ですぞ)。箱売りなのでちょっと小さいです。プリンスメロンやマクワウリなどの「黄色いヤリ」もできるといいですね。むしろ「黄金のヤリ」でいけるかも。

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トク

松山城営業再開と直後の昨日の地震(2024.08.09)

松山城が営業を再開したようです。最初は少なくとも一カ月はかかると見られていましたが、ボーリング調査などにより安全性が確認されたため、前倒しして再開したとの事です。中では、立ち入り禁止エリアが設けられているなど、規制箇所があるようなので登城される方は十分に注意されてほしいと思います(ニュース映像より抜粋①②)。しかし背景には、観光客がSTOPした事により地元経済が相当落ち込んだようで、松山市はお盆休みを前に無理やり再開を急いだのでは?とちょっと個人的に懸念しています。

そう思っていた矢先の昨日、福岡も緊急地震速報が鳴り響き少し揺れを感じました。松山城も今の所は被害の報告はないようですが、あの斜面の状態から、もし今地震が起きたら・・・と私は最もそれを恐れていたので、とりあえずは今は何もなくホッとしています。南海トラフとの関連や、今後余震が無い事を祈ります。また被害のあった宮崎の方々にはお見舞い申し上げます。

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赤い城

トリーデなると (2024/08/03 訪問)

蜂須賀氏の阿波九城のひとつです。
妙見山公園の駐車場に車を置き登城しました。
石段を登り曲輪の跡っぽい部分からさらに登ります。
妙見神社が建っていて背後に石垣が残っていました。
わかりやすい遺構はこれのみかと思います。

山頂部には模擬天守が聳えます。
トリーデなるとという多目的ホールだそうですがこの日は閉館、中に入ることはできませんでした。

模擬天守から西側の石段を少し降りてみます。
明確では無いですが堀切跡?と思える部分もありましたが定かではないです。

この日はチームラボが鳴門に来ていたので予約時間前に立ち寄りました。
チームラボですが、豊洲のものとは違い内容はお子様向け、ちょっと物足りない感じ。
童心に戻ることはできたのかな?

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小城小次郎

石垣の増築痕 (2024/02/10 訪問)

2月の説明会から半年が経ち石垣の保存も決まり大津市と開発業者様が日本城郭協会から表彰された。めでたいばかりの話の中で改めて石垣の増設痕について考えてみた。そういえば坂本城には明智以降の歴史もあるんだな。

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村正屋敷と矢田城 (2024/08/08 訪問)

 村正といえば徳川家に災いをもたらす妖刀として知られていますが、三重県桑名市の矢田城のある走井山山麓に伝「村正屋敷」跡の説明板がありました。中世末期、桑名の刀工・千子村正の屋敷があったとされています。開祖とされる千子村正は出生の折、母親が矢田走井山に祀られている千手観音に祈願し村正を産んだことから、千手観音の申し子だとして「千子」の姓を名乗ったと伝わっています。走井山には刀鍛冶に必要な豊富な地下水があったようで、かつては桑名城の城主の飲料水として毎日城まで運ばれていました。

 矢田城は先にも記載しましたように三重県桑名市にある城びとには未登録の城址です。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城であったと伝わっています。織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城し、その後は長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。遺構はないと思われますが、何となく雰囲気は少し伝わります。
 三岐鉄道北勢線馬道駅の北側にある山が城址で、マンションのあたりが村正屋敷の跡といわれています。

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しんちゃん

釜原(かまっぱら)城 遠州ちょっとイイネの城 (2021/02/13 訪問)

静岡県御前崎氏にある釜原城は城人の城でもないし、特に有名な城主もいませんが、なかなかに良い城です。この周辺には、ちょっとイイネ的な城が幾つか点在しております。城郭大系にも載っておりますぞ。
城址の東側に殿之谷と呼ばれる地名があり、そこから城址に道が続いています。茶畑として開墾される際に土塁は取り払われていますが、いくつも堀切を残しています。二の丸から大堀切を経て本丸に至ります。本丸の北側は三方向に尾根が伸びており、尾根上を堀切で区切って有ります。本丸の西側は「仏念」と呼ばれ、急峻な谷になっています。本丸から細い尾根道を行った先には出曲輪が配され見晴台も配されています。
麓にあった聖道寺に伝わる「聖道寺縁由記」によると城主は聖道寺の前身である真言宗の大旦那で南北朝の戦で落城したと伝えられています。戦国期に改修を受けており、高天神城争奪戦に伴い武徳いずれかの勢力によって使用されているようです。

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しんちゃん

笠置山 (2018/03/31 訪問)

京都府相楽郡笠置町の笠置山は後醍醐天皇が挙兵した際に御在所(笠置山城)として使用されましたが、今回は城郭とされる場所以外の投稿をさせていただきます。
笠置寺から南に道沿いに進んで行くと、様々な奇岩や磨崖仏などが出迎えてくれます。
この山の名の由来となっているであろう笠置石を越えて行くと、懸造の正月堂があり、その先には高さ9mの岩肌に刻まれた伝虚空蔵磨崖仏があります。弥勒磨崖仏は元弘の大火で焼け崩れてしまっているのですが、こちらの磨崖仏は往時の姿を良く留めてくれています。
千手窟→胎内くぐり→太鼓石と続いて、かつての戦で投石に使われた岩のなごりが「ゆるぎ石」として残っています。バランスが微妙で、端を押すとゴトゴト動くことから、その名がついたとされています。
この時期は桜がキレイでしたが、紅葉の季節から早春にかけ、風が穏やかな朝に放射冷却で発生する木津川の川霧が雲海となり、周囲の山々を包み込むようです。秋の笠置山はまた格別だと思います。

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ぴーかる

斎宮城 (2024/06/08 訪問)

【斎宮城】
<駐車場他>竹神社駐車場8台分程あり
<交通手段>車

<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅3城目。以前に標柱の横に説明板があったようなのですが今は無くなっていました。先達方の撮影された説明板には室町時代齋宮の住人野呂三郎が城塞を築き勝手に徳政を敷き狼藉を働いた。国司北畠材親はこれを討伐した。とあります。どうも野呂三郎という者がここに城を築いて徳政一揆を起こしたということだろうか。
 現地には遺構は残っておらず、竹神社となっています。史跡齋宮跡を見たかったがプランが詰まっていたので、やむなく素通りしました。辛口にはなりますが、北畠氏でも伊勢氏でもない築城者の遺構の残っていない城跡がなんで城びとポイント選ばれているのであろうか。やはり歴史的にみて徳政一揆が発生し城を築いて立て籠もった場所として押さえておきたかったのかも。

<満足度>◆◇◇

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城壁、移築門などなど (2024/08/08 訪問)

 九華公園周囲も少し散策しましたので追加で投稿させていただきます。三の丸堀の城壁はよく残っています。野面積み、打ち込みはぎの2方法によっていると説明板にありました。係留されている船で見にくい所もありますが、それなりに楽しめます。
 移築門はいくつかあるようですが、今回は比較的近くにある了順寺の移築門を見学してきました。

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本多忠勝 (2024/08/08 訪問)

 久しぶりの桑名城です。揖斐川河口近くに築かれ、近くには七里の渡しもあり東海道の要衝を抑える場所にある城でした。関ケ原の戦いの後、この城に入った本多忠勝は桑名城の改修の他にも東海道宿場の整備も行い、「慶長の町割り」といわれる城下町の整備を行いました。城址は九華公園として整備され堀と石垣がすべてではありませんが、残っていています。三の丸の堀の石垣が川口樋門から南大手橋まで500mにわたって現存しています。当時は櫓51あったと伝わっていますが、今は一基もありません。七里の渡し近くに蟠龍櫓が国土交通省水門統合管理所として外観復元されています。

 以前に行ったときは急いで散策した記憶しかなかったので、今回再登城しました。桑名駅から徒歩15分くらいです。

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トク

平和について考える旅(岩国徳山3/4)―徳山城 (2024/08/04 訪問)

平和について考える旅(3/4)です。徳山城を訪れてきました。徳山駅北口から下松行のバスに乗り5分、「動物園文化会館入口」で下車すると、目の前の現在は文化会館になっている場所が徳山城跡です(写真①②)。駅から徒歩でも20分くらいと思います。

築城者は、長州藩から3万石で徳山藩として分離独立した毛利輝元の二男、「毛利就隆」です。駅からなだらかに坂を登った先の一段高くなっている場所にあるので、ここに城(天守はなく御館その後は陣屋)であった事がわかります。しんちゃんの彼女も、相変わらず風呂上りの姿で立っていましたよ(笑)(写真③)。

大坂城の普請のため、近くの大津島から採取したという石もありました(写真④⑤)。また横には就隆を祀る祐綏神社もありました。萩城でもそうでしたが、何故か私は? 毛利の家紋(一文字三ツ星)を見ると自然と武者震いをしてしまいます(笑)(写真⑥⑦)。

徳山駅のホームからは、その石切場であった大津島がよく見えました(写真⑧)。そして写真中央の桟橋からは、大津島行きの船が出ています。

では次は、その駅前の桟橋から船に乗り、毛利家の石切場でもあった大津島へ渡ってきます。そしてその大津島で、平和についてまた前回の続きを考えてみたいと思います。


【余談】毛利就隆(輝元二男)
毛利輝元に二男がいたとはビックリです😲!
私は以前、豊後岡城主の「志賀親次」の晩年と墓を探して宇部の山中を歩き回った時、偶然そこで「毛利秀就生誕の地」の看板と碑を見つけビックリした事をお伝えしました(その時の写真⑨⑩)。輝元には正室との間になかなか子ができず、おじいちゃん元就の子「秀元」を養子にもらい、その秀元が関ケ原では大坂城にいた輝元に代わって、毛利の総大将として出陣し、南宮山に陣を敷きました。しかし関ケ原後、輝元に落とし種(=秀就)があった事が発覚。輝元は殺すよう命じましたが、宇部の山中でその秀就が実は匿われていた事を知った秀元は、家督争いで毛利家が割れる事を避けるため、実子である秀就に家督を譲って自らは身を引き、その秀就が完成したばかりの萩城に入り、初代長州藩主となりました。しかし実は輝元には、さらにもう一人落とし種があったという事ですね🤔。それを知った秀就は、弟である就隆に、長州藩の領地から下松徳山3万石を分地し、就隆は徳山藩を立藩したそうです。そして秀元の娘を正室に迎えましたが、結局は仲が悪く最後は離婚騒動になったとか? その後、その孫(三代藩主)が松の木を巡る本家との領地の境界問題でまたもや騒動を起こし、それで徳山藩は廃藩となり、館は陣屋になったそうです。
(ここで平和への教訓)
身近な家族や親戚とは、できるだけもめ事をしないように、気をつけましょうね😊!
 

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イオ

0×2=0 (2024/06/21 訪問)

室町中期に太田道灌が江戸城の出城として高台に築いた城で、江戸期には出石藩・仙石氏の屋敷があったことから仙石山の名が今に伝わります。市街化により遺構は消滅していますが、地下鉄・神谷町駅から北西に坂道を登って行くと、分岐の港区掲示板の下に先達の皆さまが投稿しておられる仙石山町會防護團の石碑がありました。分岐を北に進んだ突き当りの仙石山アネックスあたりが位置情報の地点ですが、こちらは特に何も見当たりませんでした。…なるほど、この石碑くらいしか写真のネタがないことがよくわかりました(笑)

あまりにも見るところがないので、ついでに神谷町駅から北にすぐの西久保城(東京都港区虎ノ門・城びと未登録)にも。詳細は不明ながら、西久保城は熊谷直実が築いた城で、現在の東京ワールドゲートあたりが城跡とされますが、遺構は消滅しており、歩道の石積や水辺テラスに無理矢理お城っぽさを感じることができる…かなぁ、という程度です。…うん、こっちも見るところがありませんね。結局、遺構の無い城を2つ見たところで、0×2=0ということですか(笑)
 

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yasu

五島列島の江戸時代最後の城「福江城」 (2024/07/20 訪問)

福江城(石田浜に築城されたので別名石田城)横町口蹴出門(けだしもん)。長崎の西約100km沖にある五島列島の福江島に江戸時代の最後(1864年=大政奉還の3年前)に築城された3方が海に面した海城(今は周囲が埋め立てられたため内陸の城)。幕末に海岸防衛の為に東シナ海に面して築城されたとの事。行ってみると石垣、枡形、大名庭園も残り風格がありました 。

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小城小次郎

朝倉浅井の陣城というが (2024/02/10 訪問)

宇佐山城周辺で激戦を展開した朝倉・浅井連合軍が陣取ったと「信長公記」が記す山城の中で場所がほぼ特定されているのがここ。でも陣城にしては石積みが多いので明智氏の頃に何らかの補強がなされたのかも。歩くと結構遠い。

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しんちゃん

銀液丹、万病円 テリブリー毒薬の世界 (2024/06/22 訪問)

田中城から南に程なく行くと田中城下屋敷があり、敷地内には本丸櫓が移築されており、無料で中を見学することができます。田中城は家康の趣味の鷹狩の際の宿泊所としてよく利用されましたが、元和2年(1616)正月21日、家康公は鯛の天ぷらを食した後に腹痛を起こし、駿府城に戻って静養しましたが、4月17日に亡くなったとのことです。
藤枝市のマイ広報紙によると腹痛の後、万病円30粒と銀液丹10粒を飲んで気分が良くなったと側近に語ったとのこと。銀液丹というのは名前からしてヤバいですが、間違いなく水銀が調合されています。
元々、健康オタクの家康公ですが、中国の医学書「和剤局方」や薬草辞典「本草綱目」を愛読していて、自ら薬研で薬を調合していて、側近らにも分け与えていたようです。家康公は不調の原因を寄生虫によるものと考えていたらしく、水銀の副作用である下痢が効果的と考えていたのかもしれません。万病円と万病丹がごっちゃになっている感がありますが、加賀藩の秘伝の薬剤にも万病円があり、一部の業者に調合と販売を許可したようです。外貨獲得が目的と思われますが、この万病円は中国の丹薬や金丹液(雄黄を含む)の影響を受けているようです。銀液丹の名称から伺えるように、家康公も影響を受けているようですね。

万病円の成分として、牛黄(ごおう)・麝香(じゃこう)・犀角(さいかく)などの強壮剤
マメハンミョウ・ムカデ・トカゲなどの動物薬
朱砂や雄黄といった水銀やヒ素の化合物も含まれているようです。全部だめですね、家康さんの調合した薬。
家康公の死因は胃がんとされていますが、毒物の影響があるのではないかと言われているのは、これらの薬が原因のようです。
ヒ素というのは無味・無色・無臭で暗殺にはもってこいと言われています。ヒ素で殺害されたのではないかと思われている、武将や人物はけっこう多いみたいですね。
個人的には 豊臣秀吉(!)・小早川秀秋が怪しいと思います。後の時代の松平忠長も怪しいですね。彼はなかなか死なないので、結局自害に追い込まれてしまったようですが。そんな気がします‥。

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