関ヶ原の前哨戦 白石合戦の舞台
(2020/11/08 訪問)
立冬も過ぎた8日、「古文書を読む会」の仲間たちと白石城に登城しました。この城は元和の一国一城令の後も仙台城以外に仙台藩の城として認められ、幕末まで片倉小十郎家(御一家18,000石)の居城として続きます。城は明治7年に解体され、野づら積みの石垣までも売りに出されたということです。平成7年に三階櫓(天守)と大手一ノ門、二ノ門、土塀、石垣が復元され往時の面影を残す。初冬のこの日も多くの人々が訪れていました。現状を見るだけで十分楽しめるのですが、今回私の関心は、現在学習中の文書「記録抜書」(高祖父輝宗曾祖父政宗祖父忠宗記録抜書)に記載された、白石合戦です。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の前哨戦として、政宗は当時上杉景勝方の白石城を攻めます。文書には「・・・七月廿一日政宗人数を引連北目を出陣、名取郡岩沼江陣を構、廿三日柴田郡四保ニ着陣、翌朝刈田郡白石之川向平山ニ致着陣候処・・・」とあります。家康の命により上杉対策として京より戻され、現在の仙台市外れに有った北目城(当時未だ仙台城は無く、岩出山城が本拠地)から、岩沼、四保(現柴田町船岡)を経て白石川を挟んだ対岸、現在の陣場山に陳をしき激戦の末に白石城を落城させます。
私のこの日の目的は白石城と陣場山との距離や方角を確認することでした。それぞれの地点からの画像も投稿していますが、その距離わずか1.5kmといったところです。当時と片倉氏改修後では縄張も大手の位置も違い、三階櫓も無かったのかも知れません。
この時政宗33歳、秀吉亡き後家康に組みしてはいたが、刈田・伊達・信夫郡などの旧領回復はもちろん、天下びとへの野望を捨ててしまっていたとは思えない。
車での訪問の場合、白石城は市役所隣の城下広場駐車場に、陣場山は南蔵王白石線の路側帯への駐車となります。
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