日本100名城

やまがたじょう

山形城

山形県山形市

別名 : 霞城、霞ヶ城、吉字城
旧国名 : 出羽

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山形城
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にのまる

最上義光歴史館/三の丸土塁 (2023/09/08 訪問)

霞城公園をじっくり楽しんだあとは二の丸東大手門から退場し、最上義光歴史館へ向かいました。
三度目なので100名城スタンプは押しませんが、つい習性で、入口にあった「城下町山形七福神」や「霞城公園来園記念」のスタンプをペタペタと。これも現地訪問のよき思い出です。
瀟洒な外観の歴史館は入館無料。最上義光・駒姫像に迎えられ、常設展示を見て第2展示室へ。古文書コーナーには若き頃の伊達政宗の書状。そして中央に鎮座する「三八間総覆輪筋兜」。義光が織田信長より拝領したと伝わる、弾痕も生々しい兜です。実物を見ることで慶長出羽合戦もよりリアルなものとして迫ってきます。

ここから駅に向かいながら(といっても通り道ではないのですが)、最後に築城当初から残っているという三の丸土塁に行ってみました。城内(三の丸)を歩いていると思えば、そしてこの先にお楽しみが待っていると思えば、町なかの移動も楽しいものです。
徐々に見えてきた緑の小山。最初に外側(町人地側)にまわってみました。長大な土塁を想像するに十分な高さがあります。周辺は寺社地でもあったようで、現在も稲荷神社に隣接しています。取り壊されなかった要因はそのあたりにあったのかなぁなど思いながら見上げました。
内側(武家地側)にまわってみるとより見やすく整備されており、解説板などを読みつつ暫しの間眺め、満たされた思いで探訪の締めとしました。

当初の見積もりを1時間オーバーする3時間の滞在となりましたが、今回で見尽くしたわけではなく、三の丸土塁は見学可能な場所がまだあるようですし、ほかにも駒姫の菩提寺の専称寺ほか、光禅寺、光明寺、宝光院など訪れてみたいところがあります。三の丸の外郭をレンタサイクルでまわって東北随一の広いお城を実感するのもやりがいがありそうです。今回歩いたところをもう一度なぞってみたいという気持ちもあります。

新幹線の駅に近いということで、これまではほかのお城に行った帰りに寄っていたのですが、そういう見方はもったいなかったと気づきました。
<おわり>

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にのまる

屏風折れ土塀礎石 (2023/09/08 訪問)

二の丸土塁北東部の肴町向櫓を過ぎ艮櫓に向かって歩いていると「屏風折れ土塀」の説明が目に入りました。
え?どこどこ??と慌てて足元をさがすと鋭角に折れ曲がった礎石が!
すごーい✨感動っ!!

屏風折れ土塀といえば2年前に見に行った西尾城(愛知県西尾市)が思い出されます。西尾城は絵図からの復元でしたが、ここにあるのは「現存遺構として全国で初めて検出された」屏風折れ土塀の礎石。
発掘調査では北門から艮櫓にかけて(北東部)検出されたそうです。ほかのところと同様、2時期の礎石が確認され、古い時期のものは内折れで、新しく構築されたものが外折れとのこと。また、江戸時代後期の秋元氏の時代の城絵図には北側~西側には土塀は描かれていないそうで、再構築しなかった理由など、興味がつきません。(※)

そしてついに二の丸土塁最後の艮櫓に到着しました。大きい上に天端石まで残存していたのだと!発掘された瓦は5.5tと肴町向櫓をさらに上まわっています。
二の丸土塁には全部で6基の櫓。(三重櫓跡は写真⑨、乾天狗櫓跡は⑩)
南門からスタートして2時間たっぷり楽しみながら1周半しました。
3回目の訪問でやっと二の丸(霞城公園)の全体像が掴め、楽しみ方がわかってきた感じです。公園散歩から城跡探索にレベルを上げられて、見える世界ががらりと変わって、行ってよかったなぁと思いました。時間をかけて可能な限り隅々まで歩く。城を理解するにはやはりこれがいちばんです。駅近の公園整備された平城なので味わい深い遺構は多くないと勝手に決めつけていた過去の自分を、見る目がなかっただけじゃないかと叱ってやりたいです。
<つづく>

(※)「史跡山形城 発掘調査現地説明会資料(山形市教育委員会 社会教育青少年課)」を参照しました。

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天守無しがアツい

最上義光歴史館 (2017/06/02 訪問)

秀次事件(豊臣秀次が切腹し、その妻子たちが処刑された出来事)を知ってから私は、そのうち関連場所を見学したいと考えるようになり、その1つ目として山形にある最上義光歴史館に行きました。

最上義光(もがみよしあき)とは戦国の一大名。並外れた腕力の持ち主で、時には謀略を用いて領土を広げてきた山形の武将で、伊達政宗の叔父でもあります。

駒姫は義光の次女として生まれ、東国一と称されたその美貌から大事に育てられてきました。

1591年に秀次が山形を訪れた際、駒姫の噂を聞きつけ「我が側室に」と義光に願い出ます。豊臣家に逆らうとどうなるか分からない世であったため、「15になったら」と義光は返事します。

そして1595年、(数え年)15になった駒姫は京都に上り秀次のいる聚楽第に入ったのですが、会う前に秀次は高野山で切腹。

駒姫は秀次妻子と丹波亀山城に幽閉された後、三条河原にて斬首された…というわけです。

画像1枚目にある像の左が駒姫、右が義光。駒姫が処刑される際、武士の娘として動じず最期を迎える様子を表現していると思われます。

この博物館には義光に関わる品が多く展示されており、駒姫のはこの木彫像と打ち掛けのみ…。

個人的には義光よりも駒姫および秀次事件に興味があるので、「思ったより駒姫に関する展示が少なかった」「ミュージアムショップに駒姫グッズも置いてほしい」と思いました。

ガイドの解説をもとに館内を見学。ガイドは新たな史料が発見される度に勉強し直さなくてはならないそうで、私がスマホで秀次事件および駒姫を(暇な時間に)検索しまくったことを告げると、「便利ですよねすぐに情報が集められるから…」とコメント。

解説付きだと話を聞く分、一人で巡るよりも時間がかかることが分かった今回。展示物はあまり多くなく、いつも通り見学すれば一時間くらいで全て見れたと思いますが、今回は二時間かかりました(笑)

でもただ展示物を見るだけでは分からなかったことが、ガイドの解説で知れるわけだから、そこはメリットにも思えました。

義光の肖像画は明治、つまり後世に描かれた。最上家の家系図もその頃に作られたもの。最上家は義光の二代後に改易(お取り潰し)になっているが、同時期に他の外様大名も結構同じ目にあっている。つまり粛清の嵐だった…という具合に。

入館者アンケートを渡されたので、最後の自由記入欄にこう書いておきました。

最上義光と駒姫を大河ドラマに(^o^)

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にのまる

肴町向櫓 (2023/09/08 訪問)

東大手門から水堀の外周をまわって西不明門に戻ったところで霞城公園をほぼ一周したことになりますが、ここから今度は土塁の上を櫓台跡を確認しながら東大手門までUターンして戻りました。
何かあるぞという気配は外周を歩きながらも感じていたのですが、外から見上げた北門を土塁の上から見下ろすとお城体験をしている実感が湧いてうれしくなってくるし、土塁の上を歩けるのもほんとうにありがたいし楽しいです。
 やがて見えてきた櫓台。『肴町向櫓(さかなまちむかいやぐら)』です。
ストレートなネーミングも印象的ですが、ここは外側から見てめちゃくちゃかっこよかった横矢枡形の西の角部分にあたります。葉陰にチラッと見えた櫓台にやっとたどり着きました。櫓台は補った石がわかるように復元が施され、遺構を保護しつつ現代によみがえらせていることがうかがえて、風来の旅人も楽しませてもらえるのがありがたいなあとしみじみ思います。
この周辺からは4トンもの瓦が発掘されたのだそうです。どんだけでっかい櫓だったんだよ!?と思ってしまった私はまだまだ初心者で、江戸時代を通じで補修や建て替えを繰り返しながら存続していたのだそうです。発掘によってさまざまなことがわかるのはすごいなーと思うと同時に、やっぱりこの場所の<映え>は放置すること能わずだったのだろうなと感じました。
<つづく>

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概要

斯波氏の居城を江戸時代初期に最上義光が拡張。本丸を二の丸・三の丸が同心円状に囲む、輪郭式の城へと整備された。土塁と水堀によって城の守りが固められ、藩政期から残る二の丸の堀と土塁、さらに4つの内桝形の虎口からその構造がよく分かる。近世城郭の桝形門の典型である二の丸東大手門は復元されたもの。

城郭情報

城地種類 輪郭式平城
築城年代 正平11年〔北朝〕/延文元年〔南朝〕(1356)
築城者 斯波兼頼
主要城主 最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏
文化財史跡区分 国史跡(山形城跡)
近年の主な復元・整備 最上義光、鳥居忠政
天守の現況・形態 御三階櫓[3重3層/1622年築?/破却]
主な関連施設 二の丸東大手門、大手橋、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、移築門、移築御殿
住所 山形県山形市霞城町1(霞城公園)
問い合わせ先 山形市観光協会
問い合わせ先電話番号 023-647-2266