続日本100名城

やまとこおりやまじょう

大和郡山城

奈良県大和郡山市

別名 : 郡山城、冠山城、犬伏城、雁陣之城
旧国名 : 大和

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大和郡山城
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トク

31(最終回)【秀長の晩年をたどる⑥】大和郡山城(3/3)春岳院と大納言塚 (2026/03/26 訪問)

最後に、秀長を祀る「春岳院」と秀長の墓(供養搭)である「大納言塚」を訪れ、そこで手を合わせてきました。春岳院には秀長の肖像画・木像・位牌も安置されていて、今年1月から見学できるようになっています。特に「秀長の木像」と「秀長の位牌(実物)」は一見の価値があると思いますので、是非ここは訪れるべき場所だと思いました。写真撮影はできなかったので、パンフレットを御覧下さい(写真①②)。

1590年9月、馬にも乗れずやっとの思いで京都から郡山へ戻った秀長ですが、もう病の悪化が激しくなり、床に臥せたまま動けなくなってしまいます。「積(しゃく)」という腹部にしこりができ激しい痛みをともなう病気だったと興福寺の多聞日記には書かれており、今で言う「大腸がん」のような病気だったのではないかと推測されます。

1582年山崎の戦いの時に嫡男の与一郎を亡くした秀長には、後継ぎがいませんでした。よって側室の子でまだ幼い娘の「みや」に婿養子として秀保(秀吉・秀長の姉「とも」の三男で秀次・秀勝の弟)を急ぎ迎えて婚礼を済ませ、家督を継がせます。秀吉は小田原征伐が終わり、秀長危篤の知らせを受けると、郡山城へ急ぎ見舞いに行きます。やつれた秀長を見て驚き、1000人もの僧侶を集め祈祷させたとか。また慶(ちか)は、秀長が没収した土地を全て寺社へ返上し、その代わりに祈祷するように頼んだそうです。しかしそれらの甲斐もなく1591年(天正19年)1月22日、豊臣秀長はついにこの世を去りました(享年52歳)。雪が深々と降る寒い日だったそうです。

秀長死後、秀吉により郡山城下に「大光院」が建てられ、秀長はそこに葬られました。葬儀には20万人もの人が集まったとか。これは当時の京都の人口に匹敵する程の数で、その参列は永遠と続いていたそうです。いかに秀長が慕われていたかが想像できます。

しかし1595年に娘婿養子(嗣子)の秀保もわずか17才で亡くなると郡山豊臣家は断絶してしまいます。1598年に兄の秀吉までも亡くなると、1599年秀長の家老だった藤堂高虎は、大光院が家康から処分されてしまう事を恐れたのか、「春岳院」に位牌を預け、大光院を墓ごと京都の大徳寺境内に移築したようです。しかし江戸中期の1777年、春岳院の和尚たちにより荒廃した大光院跡地にこの供養塔が建てられ、京都の大光院から分骨したと伝わっています(写真③④⑤⑥)。

あの偉大な秀長が、今はここ(大光院跡地の荒地)にひっそりと眠っている姿を見て、私は何かやりきれない気持ちになりました。秀長があと10年長生きしていれば、秀吉の無謀な朝鮮出兵も止める事ができ、関ケ原も起きる事はなく、豊臣の世が続いて行ったのではないかと、誰もがここで思った事でしょう。

ここで最後にふと疑問が🤔? なぜ秀長は重い病であったにもかかわらず、京都の聚楽第からこの大和郡山まで、命をかけて戻ってきたのでしょうか? 京都からそれが不思議で、その事をずっと考えていました。

それはもしかして、死期を悟った秀長は、やはり愛する妻の「慶」(ちか=慈雲院)に会いたい、そして「慶」と「みや、きく」の二人の娘に囲まれて最期の時を迎えたい・・・その思いが、そうさせたのではないでしょうか? となぜか墓の前でそんな事を、ふと考えてしまいました。

以上で、私の【豊臣秀長をたどる旅】を終わります。この後は、イオさんの【月影の男紀行】にバトンタッチしたいと思います。全31回長々と読んで頂き、ありがとうございました(完😊!)。
 

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トク

30【秀長の晩年をたどる⑤】大和郡山城(2/3)天守台 (2026/03/24 訪問)

天守台の登り口には、有名な「さかさ地蔵」や「平城京羅生門の礎石」もありました(写真③④⑤)。天守台にはこのような転用石が、発掘調査では表面だけでも1000基発見されたそうです(城びと特集より)。この転用石も、石が取れないため強引に奪ってきたのかと思いきや、全てがそうではなく、領民に1人1個ずつ大きな石(またはバケツ1杯の小石)を持ってこいと御触れを出すと、自分たちの祖先の墓石などを自ら提供した者も多かったそうです。

大和郡山城は豊臣秀長の最後の居城で、晩年を過ごし亡くなった場所である事は、皆さんもよく御存知と思います。秀長は四国平定が終わった1585年、妻の慶(ちか)とともに郡山城に入ります。大和の地は寺社勢力が強く、治めるには難しい土地でした。そこで秀長は、寺社に対しまず検地と刀狩りを行います。寺社から土地や武器を奪い、商人を奈良から郡山へ移動させ経済基盤をも奪います。その代わり紀州の材木で得た利益で、寺社に寄進や貸付を行い仏教に専念させる環境を作る事で、最初はいざこざや対立もかなりあったようですが、何とか良好な関係を築けていったようです。また郡山へ移住した商人たちには「箱元制度」と呼ばれる商人町ごとに特権や独占権を与えて、経済を活性化させて行きました。

秀長は「大坂→四国→大坂→九州→京都」と遠征が続き郡山へはなかなか戻れなかったので、慶(ちか)が寺社や商人との交渉やもめごとの仲裁や領国経営も行うなど、郡山城で女城主として秀長の留守を支え、その存在はかなり大きかったのではないでしょうか? 寺社の日誌などにも度々彼女の存在が記述されているようなので、あくまで推測ですが、何故かそんな気がしてなりませんでした。和歌山城の築城も並行して行われ、桑山重晴が城代として治めたようです。大河ドラマでは頼りない存在でしたが、実際は任される程なので、立派な武将だったのではないでしょうか?

私は天守台から奈良盆地を見渡してみました。かすかに東大寺や興福寺や平城京が見えました(写真⑨)。当時は高い建物や樹木もなかったので、もっとよく見えたと思います。この景色が、秀長が最期に見た景色かと思うと、感慨深かったです。秀長はここで死の直前まで、兄と過ごした信長時代からの日々を、静かに振り返っていたのでしょうね。

この天守台には、秀長が築いた望楼型で三重or五重の金箔瓦で輝く天守が建っていたと推測されていますが、天守の絵図は残っておらず詳細は分かっていないようです(写真⑥)。正保の絵図には天守は描かれていないので、その時には間違えなく無かったようです。天守台では金箔瓦と天守の礎石が発掘調査で発見され、また天守には付櫓があったようです(写真②)。そこで私は、同じく付櫓のある望楼型の松江城が、金箔瓦で光輝くようなイメージを想像してみました。家康により大和郡山城の天守は二条城に、その他は伏見城に移築されたと大工の記録にあるようですが、詳細は不明なようです。できればいつかは詳細が解明され、再建されたらいいなと思いました。

次は(最終回)、秀長の菩提寺と墓所を訪れます。
 

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トク

29【秀長の晩年をたどる④】大和郡山城(1/3)追手門と大河ドラマ館 (2026/03/24 訪問)

念願の大和郡山城を訪れました。近鉄奈良駅から大和西大寺駅で乗り換えて近鉄郡山駅まで20分。駅から郡山城までは徒歩10分程でした。駅を降り線路沿いを歩く途中の、東隅櫓と近鉄電車のアングルには感動し、思わずシャッターを押してしまいました!(写真④)。

まずは大河ドラマ館に入りました(写真⑧)。ドラマ館には唯一ここだけではないかと思われる秀長の銅像を見つけました!(写真⑨)。そして出口でちょっと休憩。おみやげコーナーで大和茶だんご(写真⑩)を買って、ドラマ館前のベンチに座って、(写真②)の郡山城を眺めながら食べました(わ!これ美味しい😊!)。

それから鉄筋門の歓迎アーチをくぐり、追手門と追手向櫓前に立ちました。郡山城はこのアングルが最高ですね!(写真①)。追手門に刻まれた金色に輝く豊臣の「桐紋」を見ると思わず身震いがします(写真③)。追手門の先には城址会館があります。明治期の図書館のようです。そこから極楽橋を渡り本丸へ入ります。橋の手前に柳沢文庫(続100名城スタンプ場所)がありました(写真⑤)。スタンプを押し、橋を渡ってふと振り返ると、枝垂れ桜がとてもきれいに咲いていました(写真⑥)。ちょうど桜祭り初日で、ソメイヨシノはまだつぼみでしたが、人はとても多かったです。左側に目をやると柳沢吉保を祀る柳沢神社もありました。郡山は金魚で有名な町ですが、柳沢氏が甲府から持ち込んだのが始まりだそうです(写真⑦)。

そして次は、いよいよ天守台に登ります(続く)。
 

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トク

28【秀長の晩年をたどる③】奈良観光(豊臣秀長と毛利輝元) (2026/03/23 訪問)

京都から近鉄線に乗り、近鉄奈良駅へ着きました。「おお😯ここが奈良の都か~!」恥かしながら奈良県に来たのは初めてです。ここではやる気持ちを抑え、郡山城へ行く前に、せっかくなので先に奈良市内を観光する事にしました(すいません)。

話を少し戻します。豊臣秀長は1588年9月、秀吉に招かれ京に上洛し聚楽第を訪れた毛利輝元を、広島へ帰る前に奈良にも立ち寄るよう誘います。そして自ら馬で出迎え歓迎したとか。「輝元殿~! ようこそおいで下されたー!」。そして「猿沢池→興福寺→東大寺→春日大社」と観光案内をしてもてなしたそうです。夜には深夜まで酒宴を開き、輝元とはとても昵懇の仲になったようです。

実はその背景には、四国や九州平定において、(小早川・吉川軍)を中心とした毛利軍の強さをまざまざと見せつけられた秀吉は、もし朝鮮へ出兵することになれば、西国の毛利の協力が不可欠、逆に毛利を絶対に敵に回してはならぬと考えたようです。そこで秀吉は秀長に、「何とかして毛利が今後も味方となってくれるよう、輝元の機嫌をとってちょ!」と密かに命を下していたのではないでしょうか? 相変わらずの無茶な要求に見事に応える秀長も、本当にすごいですよね。しかしこれが、秀長にとって兄を支える最後の仕事となってしまいました。私もそれに習い、同じルートで奈良を観光してみました。

まずは有名な東大寺へ行きました。これが教科書で見た奈良の大仏か~(写真①②③)、何と😱でかい! もう修学旅行生の気分です。それから奈良公園を散策しました。鹿に囲まれ歩きにくかったです(いったい何百頭いるのだろう?🤔写真④)。そして猿沢池に立ち、ここから興福寺や若草山を眺めてみました。秀長と輝元もここから同じ景色を眺めていたと記録にあります。その時彼らは、どんな話をしていたのでしょうか?🤔 ちょうど五重塔が工事中で素屋根におおわれていたので、奈良で一番と言われる絶景が見られず残念でしたが、秀長はあの塔の上に曲芸師を呼ぶ余興も見せ、輝元を笑わせたりしてもてなしたそうです(写真⑤⑥⑦⑧)。

そして駅前の居酒屋に入ると、メニューに郡山名物「焼き厚揚げと抹茶チュ-イ」と書いてあるのを見つけたので、それを注文して食べてみました(写真⑨)いや~美味しかったです😊。夜は、東横イン近鉄奈良駅前に宿泊しました(写真⑩)。

次は、大和郡山城に登城します。
 

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城郭情報

城地種類 輪郭式平山城
築城年代 応保2年(1162)[雁陣之城]、天正8年(1580)[郡山城]
築城者 郡山衆[雁陣之城]、筒井順慶[郡山城]
主要城主 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏
文化財史跡区分 県史跡(郡山城跡)
近年の主な復元・整備 筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛
天守の現況・形態 型式不明[5重6階?/1583年築/焼失(火災)?]
主な関連施設 追手向櫓、追手門、東隅櫓、多聞櫓、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)
住所 奈良県大和郡山市城内町2-18
問い合わせ先 大和郡山市地域振興課
問い合わせ先電話番号 0743-53-1151