日本100名城

わかやまじょう

和歌山城

和歌山県和歌山市

別名 : 虎伏城、伏虎城、竹垣城
旧国名 : 紀伊

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和歌山城
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イオ

「扇の芝」定点観測 (2026/08/29 訪問)

和歌山城南西部の砂の丸は、その名の通り砂丘に造成された曲輪であることから外周には水堀に代えて高石垣をめぐらせ、見通しをきかせるために南西隅部には芝を植えた三角地を設けていました。三角地は扇に見立てて「扇の芝」と呼ばれ、城下の人々にとって馬場(西側)や射場(南側)での武術練習を見物できる憩いの地だったようですが、廃城により扇の芝が払い下げられると建物が建ち並び往時の姿は失われていました。和歌山市では10年前に整備計画を改訂し、扇の芝の復元に向けて土地の公有化を進めてきましたが、昨年度に建物の撤去が完了し、今年7月4日には市民参加で芝張りイベントが開催され、127年ぶりに扇の芝が往時の姿を取り戻しました。

扇の芝の復元の話は以前から耳にしていましたが、和歌山ローカルのニュースでついに芝が張られたことを知り、他の用事のついでに見に行ってきました。まず県庁前交差点の歩道橋から扇の芝の全景を。建ち並んでいた建物が撤去され、植栽された芝の奥には砂の丸高石垣、そして木々の上には連立式天守群がそびえています。電柱と電線がちょっと邪魔ですが、天守群がよく見えるように木々を刈り揃えれば和歌山城の新たなビュースポットになる予感! 歩道橋を北に渡り、さらに北側の歩道橋を東に渡って扇の芝へ。芝は養生中のためまだ立ち入りできませんが、芝の向こうに屏風折れの高石垣、木々の合間には天守が覗いています。芝だけでなく建物に隠れていた砂の丸高石垣も草木が刈られて綺麗になっていました。扇の芝北西角部の歩道沿いには扇の芝の標柱が立てられています。かつては扇の芝の存在を示すものがこの標柱しかなかったことを思うと感慨深いものがありますね。

そういえば、以前に復元整備途中の扇の芝あたりを撮った写真があったはず、と思って探してみていくつか見付けましたので、ついでに載せておきます。3年ほど前(2023/10/28)に撮影したもので、更地になっているところもあれば建物も残っている状態の扇の芝(写真8)と、建物が無くなって道から見えるようになっているけれど、草木が茂った状態の石垣(写真9)です。これも定点観測といえるでしょうか。扇の芝が公開されたら(令和9年度予定)またレポートしたいと思います。


> トクさん

【豊臣秀長をたどる旅】、興味深く拝見しました。大河ドラマに先行して晩年までたどってしまわれる行動力(あるいは計画性)はさすがですね。及ばずながら確かにバトンタッチされました…と言いたいところですが、私のほうは年内どころか来年中には何とか…という体たらくなので、気長にお待ちいただければ(笑)
 

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姫街道

野面積みに親近感 (2026/08/13 訪問)

天守と大手から天守に続くつずら折りの城道の石垣が、野面積みが多く、地元の浜松城に似ていて親近感を感じた。
堀幅が広く、城がより大きく見えた。

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ボン

和歌山城:2024年7月14日:100名城ー41 (2024/07/14 訪問)

別名:虎伏城、竹垣城
城内の有料駐車場を利用して登城。
復元天守だが、外観はオリジナルを再現できている。
御橋廊下、歴史館もあり。

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イオ

御殿跡めぐり (2025/08/31 訪問)

養翠園(と湊御殿奥御殿)に続いては、和歌山城の御殿跡と移築建物をめぐります。

湊御殿(和歌山市湊御殿)
紀州藩二代藩主・徳川光貞が造営した別邸で、歴代藩主の隠居所となりました。十一代藩主・徳川斉順は江戸城本丸御殿に倣った壮麗な御殿を新たに造営し、隠居所にとどまらない藩の政庁として機能しましたが、十三代藩主・徳川慶福(後の十四代将軍・家茂)の命により政庁機能は二ノ丸御殿に戻され、湊御殿は廃されたようです。現在、湊御殿跡は宅地化されて正確な位置も不明ですが、大浦街道西側・舟津町バス停のすぐ北に湊御殿跡の標柱が立てられています。また、養翠園に奥御殿が、感応寺(和歌山市鷹匠町)に女中部屋が移築(非公開)されています。

湊御隠殿(和歌山市有田屋町)
初代藩主・徳川頼宣が造営した隠居所で、頼宣はこの地で亡くなりました。頼宣の没後、湊御隠殿は廃されて遺構は見られませんが、跡地には光明寺が入って現在に至ります。

西浜御殿(和歌山市西小二里・和歌山市西浜)
二代藩主・徳川光貞が造営した別邸(西浜中学校西側)と、十代藩主・徳川治宝が造営した隠居所(現・和歌山工業高校)の2か所が西浜御殿と呼ばれています。治宝の西浜御殿は図面が遺っているものの、いずれも遺構は消滅しており、和歌山工業高校の西門脇に西浜御殿跡の標柱が立っているくらいです(その標柱も樹木に隠れて文字も消えかかっていますが…)。

巌出御殿(和歌山県岩出市清水)
初代藩主・徳川頼宣が造営した御殿で、参勤交代の際の宿所とされ、五代藩主・徳川吉宗が幼少期の大半を過ごしたと伝わります。巌出御殿は江戸中期に廃され、御殿跡の御殿山も昭和の河川改修で失われましたが、御殿の一部が横浜市の三渓園に「臨春閣」として移築されています。お城EXPOのついでに見に行きたいと思ってはいるんですが、未だ果たせずです。なお、御殿跡近くにはいわで御殿の名を冠した健康施設があり、敷地内にいわで御殿の由来と沿革の説明板が立てられています。

あわせて和歌山城の移築建物にも。

光恩寺(和歌山市大垣内)
本丸御殿の台所が庫裡として移築されています。棟瓦には三葉葵紋が用いられ、庫裡内には虎や鵞鳥の杉戸絵もあるようですが、内部は非公開のため未確認です。本丸御殿も本堂として移築されるはずでしたが、移築工事中の暴風雨で倒壊してしまったんだとか。何とも惜しいことです…。

宗善寺(和歌山市和歌浦中)
女中門が山門として移築されたと伝わります。鬼瓦に三葉葵紋、屋根の四隅には桃型の留蓋瓦が用いられています。
 

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概要

羽柴秀吉の命令で弟の秀長が築城を始め、その後、桑山重晴、浅野幸長によって拡張され、さらに徳川家康の十男・頼宣が御三家の格式にふさわしい大城郭へと拡張した。復元された連立式天守群も目を引くが、注目したいのは石垣。豊臣期・浅野期・徳川期で石の種類が異なり、工法も野面積・打込接・切込接へ変化している。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 天正13年(1585)
築城者 豊臣秀長
主要城主 豊臣氏、浅野氏、徳川氏
文化財史跡区分 国重要文化財(岡口門・続塀)、国史跡(和歌山城)、国名勝(西の丸庭園)、市文化財(追廻門)
近年の主な復元・整備 浅野幸長、徳川頼宣
天守の現況・形態 連立式層塔型[3重3階/1605年築/焼失(落雷)]、連立式層塔型[3重3階/1850年再/焼失(空襲)]、連立式層塔型[3重3階/1958年再/RC造外観復元]
主な関連施設 天守、櫓、門、橋、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)、門、塀、庭園
住所 和歌山県和歌山市一番丁
問い合わせ先 和歌山城管理事務所
問い合わせ先電話番号 073-435-1044