にしたかぎけじんや

西高木家陣屋

岐阜県大垣市

別名 : 高木陣屋、(多羅城、多良城)
旧国名 : 美濃

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

しんちゃん

ラブリー砂岩の世界。 (2024/03/10 訪問)

先日、西高木家陣屋の石垣の95%が養老山系の硬質砂岩と書きましたが、自分で数えたわけではありません。そこまで変態じゃないです。岩石の比率は某サイトを参考にさせていただきましたが、河戸石は見ればすぐにわかります。基本的に石垣の石というのは、天下普請でも無い限りは現地調達が鉄則ですので、地理的に見て河戸石が使用されているというのは想定できます。
私の好きな和泉砂岩は白亜紀の地層から採取される砂岩で和泉山脈から讃岐山脈、高縄半島に至るまでの広範囲に分布しています。特に和泉で採取される砂岩は綺麗な緑灰色で土木や墓石など幅広い用途に使われています。ちなみに和泉砂岩でつくられた古い墓石はみんな崩れてしまっているようです。諸行無常ですね。
淡路島の洲本城の石垣も和泉砂岩で場内に石切り場があります。叶堂城の石垣は移転に伴い撤去されてしまいましたが、付近で採取される和泉砂岩を使用しているとみて間違いないでしょう。他に有名なのは和歌山城と岸和田城に使用されている和泉砂岩です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

大名格の交代寄合の陣屋跡 (2024/03/10 訪問)

西高木家陣屋は河岸段丘上に築かれた西高木家の陣屋跡で、前身は関一政の築いた多羅城とされています。高木家は西家・2300石、北家1000石、東家1000石の三家で交代寄合美濃州として交代で参勤交代を行い、大名と同等の格式を与えられていたようです。天保3年(1832)に北高木家が火事にあい、西高木家も屋敷を焼失したそうです。
嘉永5年(1852)に表門が、明治29年(1896)に屋敷が再建され、敷地内には大垣市上石津郷土資料館が建てられています。また当時の石垣が残り、見たところ河戸石が使われているように見受けられます。どうやら95%が養老山系の硬質砂岩(河戸石)、4%が花崗岩、1%が結晶片岩のようです。河戸石はジュラ紀の地層から採取される、硬い砂岩で、名古屋城の二の丸外周や加納城(推測)にも使われています。劣化して崩れてくるというよりは、端が割れたり欠けたりしています。苔むして変色してくると、もはや花崗岩などと見分けがつきません。立派な石垣になっています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

三家とも独立した交代寄合なのだ(仲良しだったみたい) (2023/04/15 訪問)

西・東・北の高木家はもともとひとつの高木家だが三兄弟(一人は甥っ子だが養子縁組で弟になった)それぞれに武功を上げたので三家とも独立した交代寄合の扱いを受けた。三家のうち二家ずつで仲良く参勤交代してたそうだ。

+ 続きを読む

イオ

樫原城(岐阜県大垣市上石津町上多良樫原) (2022/09/17 訪問)

※ 西高木家陣屋の前身とも云われる多羅城の候補地(のひとつ)ですので、西高木家陣屋で投稿します。

樫原城(城びと未登録)は、築城者など詳細は不明ながら、令和2年の調査で戦国期後半のものと確認された単郭方形の山城で、明智光秀生誕地と伝わる進士家の居城・多羅城の候補地のひとつとされます。

津島神社手前の樫原公民館の駐車場に車を駐めて登城開始。津島神社社殿の北側に樫原城の説明板があり、その脇の登城口から奥に進んで分岐で脇道に逸れると、神社の背後から続く尾根を断ち切る巨大な堀切がありました。幅も深さもなかなかのものです。分岐に戻って進むと主郭の東側に虎口があり、虎口の脇から主郭南辺にかけて分厚く高い土塁が続いています。土塁に登ってみると堀切の底まではかなりの高さがあり、そう簡単には乗り越えられそうにありませんでした。主郭の西辺は急峻な切岸になっていますが、滑落の危険ありとして注意が呼びかけられています。北辺は斜面中腹の横堀(堀切)によって尾根筋を遮断し、横堀には折れも施されています。また東辺の中腹には帯曲輪がめぐり、北東隅部の横堀を見下ろす位置には土塁が設けられていました。30分かからずにひとめぐりできる小さな城ながら、堀切も土塁も横堀も大いに見応えがありました。

さて、これでこの日の山城はおしまいなので、車に戻ってスニーカーに履き替えようとトレッキングシューズを脱ぐと…靴下が血まみれ!? もしやと思って脱いだ靴をはたくと案の定 中からヤマビルが落ちてきました…。ヤマビルを警戒して肌を露出せず、靴下も厚手のものを履いていたんですが、まさか靴下越しにやられるとは……ヤマビルおそるべし。麻酔成分のため痛みはなく、血液凝固を阻害する成分のため本当に血が止まらないんだなぁ、などと妙な感心をしながらとりあえずの止血をして、次からは靴下にヤマビル除けスプレーをするか登山用スパッツで靴の中に入られないようにしないと…などと対策を考えつつ、樫原城を後にしました。
城ケ平城と樫原城のどちらでやられたかはわかりませんが、注意が呼びかけられているとおり本当に出ますので、暑い頃や雨の後などは特に注意して(この日は蒸し暑く小雨まじりという最悪の条件)、充分に対策した上での登城をおすすめします。それぞれヤマビルを警戒しながらでも訪れる価値のある山城だと思いますので。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 (平城)、陣屋
天守構造 なし
築城主 関一政(多羅城)、高木氏(西高木家陣屋)
築城年 天正年間(1573〜1592)?(多羅城)、慶長6年(1601)(西高木家陣屋)
主な城主 関氏(多羅城)、高木氏(西高木家陣屋)
遺構 長屋門、母屋、石垣(西高木家陣屋)
指定文化財 国史跡(西高木家陣屋跡)
再建造物 石碑、説明板(西高木家陣屋)
住所 岐阜県大垣市上石津町宮237
問い合わせ先 上石津郷土資料館
問い合わせ先電話番号 0584-45-3639