にしたかぎけじんや

西高木家陣屋

岐阜県大垣市

別名 : 高木陣屋、(多羅城、多良城)
旧国名 : 美濃

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小城小次郎

三家とも独立した交代寄合なのだ(仲良しだったみたい) (2023/04/15 訪問)

西・東・北の高木家はもともとひとつの高木家だが三兄弟(一人は甥っ子だが養子縁組で弟になった)それぞれに武功を上げたので三家とも独立した交代寄合の扱いを受けた。三家のうち二家ずつで仲良く参勤交代してたそうだ。

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イオ

樫原城(岐阜県大垣市上石津町上多良樫原) (2022/09/17 訪問)

※ 西高木家陣屋の前身とも云われる多羅城の候補地(のひとつ)ですので、西高木家陣屋で投稿します。

樫原城(城びと未登録)は、築城者など詳細は不明ながら、令和2年の調査で戦国期後半のものと確認された単郭方形の山城で、明智光秀生誕地と伝わる進士家の居城・多羅城の候補地のひとつとされます。

津島神社手前の樫原公民館の駐車場に車を駐めて登城開始。津島神社社殿の北側に樫原城の説明板があり、その脇の登城口から奥に進んで分岐で脇道に逸れると、神社の背後から続く尾根を断ち切る巨大な堀切がありました。幅も深さもなかなかのものです。分岐に戻って進むと主郭の東側に虎口があり、虎口の脇から主郭南辺にかけて分厚く高い土塁が続いています。土塁に登ってみると堀切の底まではかなりの高さがあり、そう簡単には乗り越えられそうにありませんでした。主郭の西辺は急峻な切岸になっていますが、滑落の危険ありとして注意が呼びかけられています。北辺は斜面中腹の横堀(堀切)によって尾根筋を遮断し、横堀には折れも施されています。また東辺の中腹には帯曲輪がめぐり、北東隅部の横堀を見下ろす位置には土塁が設けられていました。30分かからずにひとめぐりできる小さな城ながら、堀切も土塁も横堀も大いに見応えがありました。

さて、これでこの日の山城はおしまいなので、車に戻ってスニーカーに履き替えようとトレッキングシューズを脱ぐと…靴下が血まみれ!? もしやと思って脱いだ靴をはたくと案の定 中からヤマビルが落ちてきました…。ヤマビルを警戒して肌を露出せず、靴下も厚手のものを履いていたんですが、まさか靴下越しにやられるとは……ヤマビルおそるべし。麻酔成分のため痛みはなく、血液凝固を阻害する成分のため本当に血が止まらないんだなぁ、などと妙な感心をしながらとりあえずの止血をして、次からは靴下にヤマビル除けスプレーをするか登山用スパッツで靴の中に入られないようにしないと…などと対策を考えつつ、樫原城を後にしました。
城ケ平城と樫原城のどちらでやられたかはわかりませんが、注意が呼びかけられているとおり本当に出ますので、暑い頃や雨の後などは特に注意して(この日は蒸し暑く小雨まじりという最悪の条件)、充分に対策した上での登城をおすすめします。それぞれヤマビルを警戒しながらでも訪れる価値のある山城だと思いますので。
 

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イオ

城ケ平城(岐阜県大垣市上石津町宮城ケ平) (2022/09/17 訪問)

※ 西高木家陣屋の前身とも云われる多羅城の候補地(のひとつ)ですので、西高木家陣屋で投稿します。

城ケ平城(城びと未登録)は、築城者など詳細は不明ながら、平成31年の調査で戦国期後半のものと確認された単郭方形の山城で、明智光秀生誕地と伝わる進士家の居城・多羅城の候補地のひとつとされます。

登城口は羽ヶ原側と馬瀬側の2箇所ありますが、羽ヶ原側のほうが主郭に近いようなので、晴明神社付近の駐車スペースに車を駐めて羽ヶ原側からの登城です。入口にはマムシ、ヤマビル、スズメバチ注意の掲示があり、この日は時おり小雨のパラつく蒸し暑い日でもあったので、顔以外は肌を露出しない完全防備(だと思っていたんですが…)で登城開始。

登城口から整備された登城道を3分ほど進むとのぼり旗と説明板が建てられています。右手の丘陵地が城ケ平城のようです。上石津郷土資料館でもらったリーフレット(縄張図)を片手に麓に向かうと、いきなり南北にのびる横堀に行き当たります。横堀を越えて登城道を上って行くと中腹の南側に竪堀があり、その奥は横堀が南東隅から南辺まで続いていました。まだ主郭にも着かないうちから横堀、竪堀、横堀の連続で嬉しくなってしまいますね。
さらに上って行くと、主郭の東側には浅くなった虎口(枡形虎口?)があり、その南脇には櫓台と思しき土壇がありました。方形をした主郭には井戸跡が3か所ほど見られ、虎口の北部から北辺、西辺にかけて土塁がめぐっています。主郭の北西下は堀切により西側尾根を遮断しています。また北辺の中腹には腰曲輪や帯曲輪が設けられ、切岸の案内表示が建てられていました。

リーフレットの城ケ平城の紹介文では「多羅城との関係性は不明」と慎重な書きぶりですが、現地では桔梗紋に「明智光秀生誕の地 多羅城」と記されたのぼり旗が堂々と翻っていました(笑) ともあれ、光秀生誕地云々をさて置いたとしても、30分ほどで手軽に充実した遺構を見て回れますし、登城道も城内もよく整備されていて、地元の熱意が感じられる良いお城でした。
 

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イオ

交代寄合美濃衆 (2022/09/17 訪問)

関ケ原の戦いの後、旧領に復した高木貞利が築いた陣屋で、牧田川の段丘上に位置し、東下に東高木家、北東下に北高木家の陣屋と隣接しています。西高木家は東家、北家とともに交代寄合美濃衆として、明治まで木曽三川の治水行政にあたる水行奉行を務めました。

陣屋跡に建つ上石津郷土資料館の駐車場に車を駐めて登城開始。資料館の奥には下屋敷の長屋門が移築され、説明板が建てられています。東下に下りていくと東辺斜面には高石垣が施され、石垣の下には井戸跡も見られました。高石垣から東に続く見事な石垣は埋門跡で、時季的に草が茂っていたものの状態良く遺っており、一番の見どころです。北側に回り込むと、北辺斜面上部にも石垣が遺っているのが見えました。また、西側には西高木家の墓所が設けられ、歴代領主と一族の墓石群が祀られています。

東下の東高木家陣屋跡にはなまこ壁が施された白壁造りの土蔵が現存しています。土蔵の北側、北高木家陣屋との間の切通道(伊勢街道)には石垣が遺っていますが、北高木家陣屋跡は住宅地や農地になっていて、遺構らしきものは見当たりませんでした。

なお、上石津郷土資料館には上石津地域の考古遺物や民俗資料、動植物の剥製や標本などが展示されているほか、高木三家に関する史料はもとより、明智光秀生誕地と伝わる多羅城の候補地とされる城ケ平城や樫原城についての解説(縄張図付きリーフレットあり)、島津の退き口についての史料など、入館料100円とはとても思えないほどの充実ぶりでした。
 

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城郭情報

分類・構造 (平城)、陣屋
天守構造 なし
築城主 関一政(多羅城)、高木氏(西高木家陣屋)
築城年 天正年間(1573〜1592)?(多羅城)、慶長6年(1601)(西高木家陣屋)
主な城主 関氏(多羅城)、高木氏(西高木家陣屋)
遺構 長屋門、母屋、石垣(西高木家陣屋)
指定文化財 国史跡(西高木家陣屋跡)
再建造物 石碑、説明板(西高木家陣屋)
住所 岐阜県大垣市上石津町宮237
問い合わせ先 上石津郷土資料館
問い合わせ先電話番号 0584-45-3639