横浜市11城巡り③:青木城
(2022/05/06 訪問)
権現山城からの転戦です。横浜市11城巡り3城目は青木城です。
6月の九州遠征前の、なまった足腰のリハビリを兼ねた攻城(PART4)です。
権現山城より徒歩6~7分くらいで本覚寺駐車場入口(35.471448、139.626154)に着きました。
京急本線神奈川駅北側に位置する「高島台」の丘陵は、かつては東側の「権現山」と尾根伝いに繋がっており、権現山側に権現山城、高島台側に青木城があったとされています。
1510年(永正7年)に起きた「権現山の戦い(権現山合戦)」で権現山城に立て籠もる上田蔵人政盛の援軍に駆けつけた伊勢(後北条)側の援軍が「本覚寺の地蔵堂」を根城(本城)として立て籠ったとされており、現在青木城と呼ばれている本覚寺付近も既に城郭の一部として使われ始めていたようです。
戦いは上杉方の勝利に終わったが、その後も伊勢氏(後北条氏)の進出は止まらず、権現山はやがて後北条氏が掌握して対上杉氏の前線となり、大永年間(1521年-1528年)に多米元興(周防守)が青木城主として配置されました。
以上の経緯から、青木城の正確な築城年代は不明だが『日本城郭大系』では権現山城が先に築城され、大永年間ごろに発展・拡大的に青木城が成立したと考えられているようです。
その後も青木城は多米氏の管轄下にあり、1559年(永禄2年)成立の『小田原衆所領役帳』によると、当時は「多米新左衛門」(多米周防守と同一人物かは不明)が領有していたとされます。
1569年(永禄12年)に武田信玄が小田原を攻撃した際、多米周防守は青木城を捨て、北条氏綱の娘婿である吉良頼康の居城蒔田城(横浜市南区蒔田町)の守備にあたったといいいます。
廃城年代も不明だが、多米氏は1590年(天正18年)の小田原征伐の際に討たれ後に廃城となったようです。
現在城址にある本覚寺は幕末、日米修好通商条約を結んだタウンゼント・ハリスが滞在したアメリカ領事館が置かれていました。
本覚寺が城跡ですが、アメリカ領事館跡碑や岩瀬肥後守顕彰碑など幕末に関するものがありました。
近くの京急の神奈川駅に神奈川宿歴史の説明がありました。
攻城時間は10分くらいでした。
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