あおきじょう

青木城

神奈川県横浜市


旧国名 : 武蔵

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青木橋からの本覚寺
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イタさん

かつての海側の眺めはよい (2022/12/27 訪問)

 城跡は京浜急行神奈川駅から国道1号線(第二京浜)青木橋交差点先の高台にある。線路を挟んで権現山城跡が見える。台場築造の前は尾根続きの急峻な場所だったようだが、台場以外に明治期、鉄道を海に通すため埋め立てように大きく削られたとも。
 城跡は本覚寺の境内で山門脇にはアメリカ領事館跡の石碑がある。鎌倉時代1226年の開山とある。本堂の北から西一帯は墓地となり、大部分は本堂より20mほど高く、城(砦)の中心部かと思わせるが、墓地・住宅地になり遺構は遺っていない。権現山合戦後、北条氏領となり家臣の多米氏が大永年間(1521~1528)頃に城主になったと、他の説明書に載っている。

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赤い城

アメリカ領事館が置かれていた (2022/07/03 訪問)

東神奈川駅から国道1号線を渡ると本覺寺。
そこが青木城跡となります。
遺構はありませんが幕末にはアメリカ領事館が置かれていました。
その石碑はあります。
権現山合戦の後に築かれたとされます。
かつては権現山城とも尾根続きだった僧ですが今では見る影もありません。
ただ、本覺寺からは線路越しに権現山城を望め、往時のイメージはできるかもです。

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本覚寺 (2022/05/12 訪問)

 京急神奈川駅の北側に見える本覚寺が城址です。遺構はありません。

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昌官忠

横浜市11城巡り③:青木城 (2022/05/06 訪問)

権現山城からの転戦です。横浜市11城巡り3城目は青木城です。
6月の九州遠征前の、なまった足腰のリハビリを兼ねた攻城(PART4)です。
権現山城より徒歩6~7分くらいで本覚寺駐車場入口(35.471448、139.626154)に着きました。

京急本線神奈川駅北側に位置する「高島台」の丘陵は、かつては東側の「権現山」と尾根伝いに繋がっており、権現山側に権現山城、高島台側に青木城があったとされています。
1510年(永正7年)に起きた「権現山の戦い(権現山合戦)」で権現山城に立て籠もる上田蔵人政盛の援軍に駆けつけた伊勢(後北条)側の援軍が「本覚寺の地蔵堂」を根城(本城)として立て籠ったとされており、現在青木城と呼ばれている本覚寺付近も既に城郭の一部として使われ始めていたようです。
戦いは上杉方の勝利に終わったが、その後も伊勢氏(後北条氏)の進出は止まらず、権現山はやがて後北条氏が掌握して対上杉氏の前線となり、大永年間(1521年-1528年)に多米元興(周防守)が青木城主として配置されました。
以上の経緯から、青木城の正確な築城年代は不明だが『日本城郭大系』では権現山城が先に築城され、大永年間ごろに発展・拡大的に青木城が成立したと考えられているようです。
その後も青木城は多米氏の管轄下にあり、1559年(永禄2年)成立の『小田原衆所領役帳』によると、当時は「多米新左衛門」(多米周防守と同一人物かは不明)が領有していたとされます。
1569年(永禄12年)に武田信玄が小田原を攻撃した際、多米周防守は青木城を捨て、北条氏綱の娘婿である吉良頼康の居城蒔田城(横浜市南区蒔田町)の守備にあたったといいいます。
廃城年代も不明だが、多米氏は1590年(天正18年)の小田原征伐の際に討たれ後に廃城となったようです。
現在城址にある本覚寺は幕末、日米修好通商条約を結んだタウンゼント・ハリスが滞在したアメリカ領事館が置かれていました。

本覚寺が城跡ですが、アメリカ領事館跡碑や岩瀬肥後守顕彰碑など幕末に関するものがありました。
近くの京急の神奈川駅に神奈川宿歴史の説明がありました。
攻城時間は10分くらいでした。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 多米周防守
築城年 戦国時代
主な城主 多米氏
遺構 消滅
住所 神奈川県横浜市神奈川区高島台他(本覚寺)