仏生寺城は現在は舟橋村役場となり、城址東側の高低差に名残がありますが、遺構は残っていない様子。戦国時代に斯波氏家臣・細川曾(宗)十郎により築かれ、付近の竹内館はその出城とされています。後に佐々成政に攻められた際に自刃し廃城になりました。
佐々軍団の皆さん、頑張りましょう!! 全力を尽くして戦えば勝利は必ず訪れますぞ!!
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2025/06/22 11:14
2025/06/22 10:58
がんばれ佐々軍団!! (2025/04/12 訪問)
日中城は白岩川の左岸の段級の上に築かれています。単郭のシンプルな平城(平山城?)ですが周囲を土塁と空堀で囲まれていて、城址をそのまま墓地に転用しているので破壊されることも無く、状態を良く残しています。良い墓地であり、良い城址です。
天正11年(1583)4月に佐々成政が弓庄城の城主・土肥政繁を責める際に築いた4つの砦の一つで、攻撃用の付城とされています。付城を使った戦術は織田信長配下の頃から豊臣秀吉が得意とした戦術で、福岡県の大三岳城の周辺には周辺の山を覆い尽くすほどに吉川・小早川の付城が築かれています。
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2025/06/22 07:07
上泉城 群馬県前橋市上泉 (2025/06/19 訪問)
大胡城の大胡氏一族が支城として築き、上泉氏を名乗ったと載る。城址より新陰流の祖、上泉伊勢守の生誕の地として宣伝している。また本丸に飢饉など非常時に備えた郷蔵が建っている。寛政8年(1796)から明治42年(1909)まで続いたようだ。
城址としての遺構は多く無さそうであった。資料の本丸半分・二の丸は自治会館の敷地になり、本丸北側・東側も民家が建つ。一の郭とある西林寺の東西境の道は堀跡を想像させるがどうだろう。西端の出丸とある玉泉寺は地続きとなる北側に立派な土塁の一部が見られる。
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2025/06/22 05:35
(東海&関西)遠征11日目:横倉城(城びと未登録 兵庫県加古川市) (2025/05/24 訪問)
野口城から徒歩15分くらいで、横倉城址(34.751065、134.869232)に着きました。
詳細は不明のようですが、別所氏の一族である野口新十郎厚躬の居城と伝わっています。野口新十郎厚躬は別所頼清の後裔だそうです。
駐車場付近にある加古川市遺跡標(城址碑)と土塁を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
当初の予定はここからライトアップされた明石城を見に行く予定でしたが、疲れてしまいパスしました。
本日の宿泊先に戻る為、東加古川駅から電車で加古川駅に向かいました。
歩行歩数=42895歩、歩行距離=30.0Kmです。
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2025/06/22 05:32
(東海&関西)遠征11日目:野口城 (2025/05/24 訪問)
野口バス停から徒歩5分ちょっとで、教信寺参拝者駐車場(34.752642、134.855511)に着きました。
その後、大洋化成㈱付近(34.752093、134.856870)入って右側➡野口神社鳥居前(34.751911、134.859315)の順番に巡りました。
築城年代は定かではないようですが、三木城の支城で、別所長治の家臣である長井四郎左衛門長重の居城でした。
「播州一の名城」とも謳われた城で、別所氏が離反したことにより、1578年(天正6年)にはじまった「三木合戦」では最初の攻撃目標となり、織田信忠と羽柴秀吉の軍勢が三日三晩攻め立てて落城させました。
城址の正確な位置は不明のようですが、現在の野口神社や教信寺の一帯だと推定されているそうで、遺構はないようなので説明板巡りをしました。
驚きました、大洋化成㈱がなくなって更地になっていました。グーグルマップでは存在してましたが、写真が古いのでしょう。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=横倉城(城びと未登録 兵庫県加古川市)に徒歩で向かいました。
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2025/06/22 05:25
(東海&関西)遠征10日目:大塚城(高木大塚城) (2025/05/24 訪問)
鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市)から徒歩40分で、説明板前(34.786635、134.971187)に着きました。
羽柴秀吉を大将とする織田信長軍が別所長治の籠もる三木城を攻めた三木合戦(1578年(天正6年)~1580年(天正8年)で築かれた織田方の陣城の一つです。
マンション住宅地内にも関わらず、迷路のように巡っている小さな土塁がきれいに残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=野口城を目指す為、三木駅から電車➡バスを乗り継いで野口バス停へ向かいました。
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2025/06/22 05:19
(東海&関西)遠征10日目:鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市) (2025/05/24 訪問)
三木城(別所長治公首塚)から徒歩2~3分で、鷹尾山城入口(34.796526、134.989677)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、1492年(明応元年)に別所則治が釜山城(三木城)を修築して以来、別所氏代々の居城となったようです。
鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市)は三木城の支城の一つで、三木合戦では別所長治の弟彦乃進友之が守っていました。
1580年(天正8年)織田軍の攻撃によって落城しました。その後、秀吉自身がこの鷹尾山城に入って三木城の別所長治と対峙し、三木城開城交渉が行われたそうです。
城は三木氏滅亡後も存続しましたが、1617年(元和3年)に明石城が築城されたときに廃城となったそうです。
三木勤労者体育センターの駐車場裏手に説明板と登城口あります。
三木勤労者体育センター西側に主郭部があり、東に堀切、南から東側に土塁が巡り、南西下に浅い堀、西は帯曲輪などが残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大塚城へ徒歩で向かいました。
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2025/06/22 05:15
(東海&関西)遠征10日目:三木城 (2025/05/24 訪問)
三木上の丸駅から徒歩2~3分で、三木城址入口(34.800629、134.987592)に着きました。
かんかん井戸跡や天守跡、別所氏長治公の辞世の碑、別所長治公像を見学した後、三木市立みき歴史資料館(34.798818、134.987753)➡別所長治公首塚(34.796636、134.986989)の順番で巡りました。
築城年代は定かではないようですが、別所氏によって築かれたと云われています。
三木城は1578年~1580年(天正6年~天正8年)羽柴秀吉による兵糧攻め、三木合戦(三木の干殺し)で、別所長治以下一族が自害し落城しました。
その後、1585年(天正13年)摂津国茨木より中川秀政が入城しますが、朝鮮の役で没しました。
弟秀成が継いだものの禄高は半減となり、1594年(文禄3年)豊後国岡に転封となりました。
1600年(慶長5年)池田輝政が姫路に入部した際、三木城には伊木忠次が30,000石で在城しましたが、元和の一国一城令によって廃城となりました。
本丸跡周辺が上の丸公園として残っており、公園内には長治の騎馬像や城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」があります。
二の丸は南に隣接した部分でみき歴史資料館などがあり、三木城に関する展示となど常設展は無料で見学できます。
三木城には新城、鷹尾山城、宮ノ上要害などの支城があったそうですが、現在遺構を残すのは鷹尾山城のみだそうで、この後、攻城しました。
近隣に、三木城攻防戦の最中に陣中で没した竹中半兵衛の墓があるそうですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市)へ徒歩で向かいました。
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2025/06/22 05:08
(東海&関西)遠征10日目:小野陣屋 (2025/05/24 訪問)
小野駅から徒歩2~3分で、石碑前(34.843330、134.932747)に着きました。
小野陣屋は1653年(承応2年)一柳直次によって築かれました。
一柳直盛が68,000石に加増され伊勢国神戸から伊予国西条へ赴く途中死去しました。
嗣子直重が30,000石で伊予国西条を継ぎ、次子直家が伊予国宇摩郡、周布郡と播磨加東郡小野で28,000石で伊予国川之江、第三子直頼が伊予国小松で10,000石を継ぎました。
直次は園部藩主・小出吉親の次男でしたが、一柳直家の養子となり跡を継ぎました。
ただし末期養子であったことから伊予川之江の領地を没収され、播磨小野10,000石となりました。
当初は敷地(現在の大部小学校付近)に陣屋を置いていましたが、のちにこの地に陣屋を移しています。
以後10代にわたって一柳氏が支配して明治維新を迎えました。
小野陣屋の側に小野市立好古館があったので、覗いてみました。
その後、小野藩主一柳家墓所を確認する為、光明禅寺入口(34.840699、134.934646)に向かいました。
標柱の説明文は次のとおり。
「当 墓所は光明寺本堂西側に所在し、向かって正面には九代末延(すえのぶ)公[左]、十代末彦(すえよし)公[右]の墓、手前には十一代末徳(すえのり)公の 次女、喜久子女子の墓があります。
他の藩主は、江戸在勤時に亡くなったため、東京の祥雲寺に葬られています。
光明寺は、鎌倉時代後期に建立された臨済宗の 寺で、釈迦如来を本尊としています。
江戸時代に小野藩主一柳家の菩提寺(ぼだいじ)となり、位牌堂には藩主十一代とその奥方の位牌がまつられているそうです。
攻城時間は35分(小野市立好古館の見学、移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=三木城を目指す為、三木駅から電車で三木上の丸駅に向かいました。
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2025/06/22 01:51
大天守 (2025/02/23 訪問)
大天守の前にはスロープがこれでもかとばかりに張り出しています。バリアフリーに力を入れていることを主張したいのは解りますが、これはいささか「下品」ですね。正直、車椅子の障碍者と健常者が必ずしも同じルートで登城する必要は無いと思います。
ルートは別々に設けて車椅子の人を優先で案内するべきではなかろうか。この日、大勢の人が熊本城を訪れていましたが、車椅子の人は「一人」もいなかったというのが事実です。本来、障碍者の人専用のエレベータを親子連れが「いいのかな」という表情で使用していました。私はバリアフリーを否定しているわけでは無いし、それなりに気遣いもありますが、やはり大切なのはバランス感覚だと思います。
天守の最上階は2月の下旬でもかなり熱気がこもっていました。夏場だとどうなるのかな?
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2025/06/22 01:22
この先、どのように復興していくのか。 (2025/02/23 訪問)
熊本城の宇土櫓の修復は2032年完了予定、主要区域と重文建造物の修復は2042年完了の予定、この時点であと17年です。
地震前の姿に復旧するのは2052年度になる予定、長いですね。でも本当に以前の姿を完全に取り戻すことが出来るでしょうか。バリアフリー化を謳っている以上、今後様々な問題が発生すると思います。重要文化財は元の姿に戻すことを念頭に置いていても、本丸御殿や飯田丸五階櫓の修復はすんなり進むでしょうか? 現在は空中回廊が設置されて、エレベータも整備されているので車椅子の障碍者でも天守閣まで問題なく行くことが出来ます。ただ、回廊と昇降機がセットになっているので、回廊を撤去した後の状態が不明瞭です。
また本丸下の「闇り通路」からは、かつての「雰囲気」を感じることは出来ません。本丸前の広場もコンクリートですっかり覆われていて、人工的な感じが強くなりました。バリアフリーの為に仕方がないとはいえ、いささか過剰に感じる部分があるのも事実です。
復興した天守閣は小型のエレベータを組み込んであるという話ですが、実際には大きな容積を占めていて、健常者用の階段を減少せざるを得なかった為、さほど広くない階段に無理やり間仕切りをつけている状況です。登る人と降りる人が狭い空間で大量にすれ違うので転倒などのリスクが生じると思います。
岡山城の天守もエレベーターを設置していますが、三階までの限定で歩行者の移動も比較的スムーズです。熊本城に関しては、正直バリアフリーを取り入れた復興の方法が少し性急だったのではないかとも思いました。
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2025/06/22 00:33
本丸 (2024/12/31 訪問)
変形武者走りを楽しんだ後は五郭に沿って本丸に入ります。本丸の手前には土橋がかかっており、周囲には土塁が残っています。
小幡城は江戸氏の支配下に置かれますが、江戸重通は豊臣秀吉の小田原攻めの際に周囲を警戒して秀吉の元に参陣することが出来ず、常陸21万石の所領を安堵された佐竹義重によって常陸国を追われ、結城晴朝の下へ落ち延びて行きました。
一説には大掾氏とともに佐竹氏に、秀吉へのとりなしを依頼したが無視されたとのことです。
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2025/06/21 21:54
荻窪城 群馬県前橋市荻窪町 (2025/06/19 訪問)
見えにくい説明板には、荻窪城は大胡城の出城であったと言われています。荻窪地区に伝わる古文書には、文和2年(1353)足利尊氏の末派、赤荻主馬之介智宜・同弾正智則が居城。これにより同村の向山に城之守り本尊として、大日如来っを祀り・・・、築城は文書より古いく、赤荻一族と推定される。その他立地・縄張が載っている。
城址の西下の入口を利用。城址の西は谷戸を利用した公園になる。時季なのか篠・草が多いく歩きづらい。すぐに藪中に横堀が現れる。郭の北側に劣化した説明板、ベンチもあるが、藪っぽさは否めない。東に城址碑があり、主郭と分かる。さらに東の郭内には、土塁・堀が遺っている。南に下れば民家の敷地は郭に思え、先に南入口の標示がある。
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2025/06/21 21:06
小坂子城(西新井城) 群馬県前橋市小坂子町 (2025/06/19 訪問)
入口の説明板に、戦国時代に田中城(嶺城)の支城として造られました。その他、立地・縄張が簡単に説明されている。
八幡神社西沿いの道路脇に、斜面に上がる農作業道がある。これが堀切らしいが、横に説明板が立つ。当初、堀の右の森が主郭と思い、畑奥まで行くが全く藪中への道がない。縄張図を再度見ると、左側が主郭にも思える。この場所は民家・畑、重機ブルで整地もしていた。神社に居た散歩の方の話では、神社から北に直接城跡へは行けず、神社周辺には何も残っていないと。
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2025/06/21 17:46
田中城(嶺城) 群馬県前橋市嶺町 (2025/06/19 訪問)
入口の先に散策者の注意事項が立っている。
その中に、前橋城代の北条高広が1563年頃築城し、家臣の田中大弐が城代として居城したとある。
4,5年以上前の情報(主に駐車場など)を頼りに寄ってみました。道路脇に似た形の空き地があるが、画像では見学者用Pと標柱が無かった。一旦駐めさせてもらい、途中の民家前に標柱らしき物と3・40㎝四方の白い板があった。標柱は市指定・・とあるが読めない、板を眺める前に、民家の人に会った。城跡の入口を聞くと、先の場所を教えてくれ、また駐車場もこの家の所有との事。この方の敷地を通り行けると言っていたが、全体が私有地なので・・とも、また草が生い茂っているとも。
全体像の把握なく教えて貰った入口へ。標柱はなく草が少々うるさい。すぐに隠れるように案内兼注意書きがある。縄張が分からず、場所が確認出来ないが、入口からも堀底を歩く。右の郭跡は鉄パイプを組んだものが見える。左は登らせてもらうと、奥行きがなく先はまた堀状になっている。左に向きを変えた先で、正面に城塁、堀がわかれる。笹・草が多く、縄張も分からず、本丸は断念。機会があれば再挑戦してみたい。。
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2025/06/21 17:45
2025/06/21 15:12
2025/06/21 14:48
田舎館城 (2025/04/28 訪問)
【田舎館城】
<駐車場他>田舎館村役場に駐車しました。
<交通手段>車
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目5城目。現地説明板によると田舎館城は文明年間(1469~1486年)に初代貞武(政実)が築城し、田舎館千徳を名乗った。1585年、5代政武の時に津軽統一を目指していた津軽為信軍1700騎に攻められて討死して滅亡したとあります。当時は城館の南北に隠し水門があり、水門を閉じると周囲が沼地の要害になったといわれています。
田んぼアートが有名なところで、村役場の入り口が城門、建物がお城風になっています。残存する土塁の一部に行きました。
<満足度>◆◇◇
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2025/06/21 10:59
今譜頼安酢 (2025/04/07 訪問)
ようやく季節外れの風邪(コロナ?)が直って来たら、オカン(80)が体調崩して城攻め中断。急に暑くなってきましたからね~。
皆さんも体調にはお気をつけ下され。ここから涼しくなるまでが長いですな~。
三重堀切の先に主要部がそそり立っていますが、けっこうな高低差があります。踏み代に釣られて西側から登ろうとするけど、なかなか急です。鹿じゃねえぞ~とか思いながら、登っちゃったけど、東(左手)の方がお勧めです。
主要部には一応土塁が残っているけど、それほど凝った仕掛けは無いです。周囲が切り立った切岸になっていて、なだらかな段差を以て尾根上に郭が続いています。
主郭らしき箇所に三角点がありますが、せめて城址碑を~・・。
合戦・・ヤバいです。いくら総攻撃が二回あるからって、戦力差2700は大杉でしょう。う~ん、やれることをやり切るしかない。今回は攻城側なので、城主のワイフをぶんどって来たら まさしく「乱取り」ですな。イオさんみたいだ・・いやいや、寺子屋建立を目指すものとして、そんな心がけでは・・でも、このコンプライアンス全盛の時代に「乱取り」とは甘美な誘惑ですな。
コンプらといえば「山口城」「松本城」「中居城」「国分城」と全部、城びとの城にあるのが微妙に笑える。あとはナカイだけか・・
コンプら城制覇までもうちょっと(ボカッ!!)
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2025/06/21 09:18
北東の堀切群 (2025/04/07 訪問)
下土井城は文永4年(1267)に岡豊前守によって築かれたとされ、関ヶ原の合戦の頃まで岡氏の城として使用されていたようです。
マイナーな城ですが、北東の三重堀切などの見どころがある城です。一応登城道が付いていますが、いささか解りづらく直登に近い登り方をしています。入り口付近に赤いテープが巻いてあったので、それを目印にすればなんとか登れるかも知れません。
道を見失ったら、南西の尾根を目指して登って行けばたどり着けるはずです。尾根上に城址を目指して進んで行くと、途中に三重堀切が待ち構えています。この堀切がなかなか良く残っていて見ごたえがあります。城址に登って行く際に北側(右手)の岩がゴツゴツした場所を登って行くと、けっこう危ないです。南側に安全に登れる箇所が有ったと記憶しているので「危ない」と感じた場合は、一度戻って安全なルートを探したほうが良いと思います。
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