かりやすかじょう

苅安賀城

愛知県一宮市


旧国名 : 尾張

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苅安賀城址碑と河津桜
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カズサン

尾張国西部北部未踏の城探訪3/17苅安賀城 (2025/03/29 訪問)

 愛知県尾張国西部と北部未踏の城17城の内3城目苅安賀城へ一宮城跡から南西に約2.6km程に在りグーグルマップ史跡マークの苅安賀自動車学校南西角を目指して走行。

 駐車場:無し、交通量は少なく石碑南側に路駐。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 苅安賀城址の石碑の在る苅安賀自動車学校の南西角へ学校の南西ゲートは開いている、白く塗られたブロック塀の傍に「苅安賀城址愛知県碑文」の石碑がポツンと立っている、脇には丁度河津桜が満開で色を添えている。
 碑文は良く判明できない、浅井政高城を築くと読めるが?
 数分写真撮影し探訪終了。

 グーグルマップを見ると北約300m程の正福寺に史跡マーク「名古屋城移築城門」と有り寄りました。
 【正福寺「名古屋城移築城門」】
 住所:愛知県一宮市苅安賀西北出3017
 駐車場:正福寺南側に路地参拝者駐車場が有ります。
 正福寺は浄土真宗大谷派の寺院、南向きの山門が名古屋城移築城門と成って居ます、門前に山門の案内解説板が有ります、四脚門で主柱が円柱、脚柱が面取りの在る角柱、一宮市の文化財指定を受けている。
 本堂を参拝して移築門、鐘突き堂、本堂横の桜はちらほら咲き状態もう直ぐです、その間お寺の犬に吠えられ状態、綱に繋がっていましたので安心して急ぎ足で見学。
 山門前の東参道前の門柱横に正福寺掲示板が有り「明日死ぬかのように生きよ 永遠に生きるかのように学べ」マハトマーガンジー と黒々と墨書。・・肝に銘じます。ありがたい。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:苅安賀城 (2024/09/23 訪問)

中島城から徒歩30分ちょっとで、城址石碑前(35.288499、136.778307)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、浅井新八郎政高によって築かれたようです。
政高(信広)の子は浅井田宮丸長時で、織田信雄の家老でしたが、1584年(天正12年)伊勢国長島城において津川義冬・岡田重孝とともに羽柴秀吉の計略に掛かった信雄に謀殺されました。
その後、苅安賀城は田宮丸を討った森久三郎が城主となりました。

苅安賀城は苅安賀自動車学校の辺りに築かれていたそうです。現在は石碑が建っているのみです。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=野府城へ行く為、名鉄電車で苅安賀駅から開明駅に向かいました。

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しんちゃん

あたたた (2024/03/10 訪問)

苅安賀城は苅安賀自動車学校のあたりに築かれていたようです。現状は車校、城址碑がぽつんとたっていますが、気づかず素通りしてしまいました。この日は、こんな城址ばかり廻っていて、なんとなくお墓詣りのハシゴをしているような気になってきました。お墓かあ‥‥‥(このお城は〇んでいる?)  あたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた! 苅安賀城 おまえはすでに〇んでいる! 失礼しました。いかんな、こういう悪いノリは。気を取り直して、
苅安賀城は近江浅井氏の一族・浅井高政がこの地に移って築いたとされています。東西約76m、南北約58mの平城だったようです。高政の子・田宮丸は織田信雄に仕え、三家老の一人として要職にありましたが小牧・長久手の戦いの際に伊勢長島城で羽柴秀吉に謀殺されたそうです。苅安賀城はその後、廃城になったそうです。

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ぴーかる

苅安賀城 (2023/07/22 訪問)

【苅安賀城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑前の道路は広いので僅かなら停車できます。
<交通手段>名鉄苅安賀駅から徒歩

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾10城目。苅安賀城は1561年に浅井氏庶流の浅井政貞によって築城したとされます。浅井政貞は織田信長に仕え赤母衣衆となります。後に織田信忠付の武将となりますが本能寺の前に亡くなったようで子の長時が継いでいたようです。本能寺の変ののちは織田信雄に仕えますが秀吉との内通を疑われ殺害されます。信雄は殺害を命じた森久三郎に苅安賀城を与えます。現在城跡は石碑があるのみで説明板も遺構も残っていません。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 浅井政貞
築城年 永禄4年(1561)
主な城主 浅井氏、森久三郎
遺構 消滅
再建造物 石碑
住所 愛知県一宮市大和町苅安賀字火口止外