きよすじょう

清洲城

愛知県清須市

別名 : 清須城
旧国名 : 尾張

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ペイントでモザイクをかけました
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しんしんちゃん

なんだかんだで人が多い (2024/03/30 訪問)

清州城の写真が残っていたので掲載させていただきます。この時期は清洲城公園の桜も咲いてきていたので多くの人で賑わっていました。二の丸跡にどこかで見たような模擬天守が建っていますが、そこに向かう橋の灯りが提灯を模したような造りでなかなか趣があります。しかし、どうしても人が入ってしまうので失礼ですが写真を加工させていただきました。
編集ソフトを使わなくもパソコンに普通に入っているアクセサリのペイントでモザイクをかけることが出来ます。ホームのタグ内に含まれている「選択」で修正したい箇所を矩形で選択し「サイズ変更」で数値を水平方向に20で入力します。その際に「縦横比を維持する」にチェックが入っていることを確認します。
再度サイズ変更で数値を500で入力すれば解像度が1/5になりモザイクがかかっているような状態になります。もっとモザイクを荒くしたい場合は最初に10で入力し、そのあと500、200と二回入力してやれば荒めのモザイクがかかっているような状態になります。
やっぱり、ある物を使ってタダですませるのが一番です。

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しんしんちゃん

信長伝説はここから始まる。 (2024/03/30 訪問)

清洲城は五条川の西岸に築かれていました。応永12年(1405)に尾張・越前・遠江に三国の守護である管領・斯波義重によって築かれたとされています。尾張守護所である下津城が焼失した後は正式に尾張守護所となり、かつてはここが尾張の中心でした。尾張下四郡を支配する守護代・織田大和家の居城であり、織田大和家は織田信秀・信長親子の主筋にも当たりました。尾張守護・斯波義統が織田大和家・信友に殺される事件が起き、義統の子義銀に頼られた信長が大義名分を得て主筋である信友を討ちました。清洲城はこの時点で信長の城となり、大改修を受けたようです。今の縄張り(といってもだいぶ改変されてしまってはいる)は天正10年(1582)に入った織田信雄によるものと見られ、本丸には天守と馬出しを備えていたようです。
現在の本丸跡は東海道新幹線と東海道本線により分断され南側は清洲公園になっており、北側は清洲古城跡公園と清洲総合福祉センターになっています。福祉センター駐車場の手前に本丸の石垣が一部残っており、ほとんど遺構が残っていない清洲城で、この石垣は大変貴重なものです。二の丸跡(推測)には模擬天守が建っていて大手橋を渡って訪れることが出来ます。本格的な城郭遺構とはほど遠いですが、入場料も300円と安く、清洲を代表する観光地でもありますので、気楽に訪れると良いと思います。

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🏯🐈おーちゃん

門の中には (2023/11/19 訪問)

入れなかったでしゅよ

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HARU

清洲城 (2022/11/02 訪問)

清洲城は織田信長とその父信秀の居城として知られ、信長亡きあと織田家の継嗣問題などを会議した「清洲会議」が行われた場所としても有名です。当時の城は現在ある天守とは別の場所の「清洲古城跡公園」にあり、現在ある天守は平成元年に建設された模擬天守です。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 型式不明[階層不明/1586年築/解体]、複合式望楼型[3重4階/1989年築/RC造模擬]
築城主 斯波義重
築城年 応永12年(1405)
主な改修者 織田信長、織田信雄
主な城主 斯波氏、織田氏、福島氏、徳川氏
廃城年 慶長15年(1610)
遺構 移築櫓(名古屋城)、土塁
再建造物 模擬天守、石碑、説明板
住所 愛知県清須市清洲古城、清州3他
問い合わせ先 清洲城管理事務所
問い合わせ先電話番号 052-409-7330