杉山城のおまけです。北二の郭の先は道が枡形か、喰い違い虎口のようになっています。北三の郭の先は搦手になっており、土塁を備えた虎口が付いています。そこから下りに入って、山から脱出しました。車で来られている場合は、近くに駐車場が有るはずです。
10年ほど前にも訪れていますが、今回の訪問でも以前と同じくらい楽しませてもらえました。
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2024/08/19 21:00
2024/08/19 20:26
ようやく本郭に到達 (2024/05/06 訪問)
杉山城投稿の続きです。井戸郭から西側をぐるっと回り込んで、本郭の北虎口にたどり着きます。前々回の投稿では北二の郭と書いた記憶がありますが直接、本郭にたどり着くのが正解ですので、ここで訂正させていただきます。
本郭の周辺には土塁が良く残っており(復元?)東側に虎口が空いています。今回は省略しましたが、次に訪れる時には、東の郭も探索してみたいと思います。
大手から登城して来ましたが、帰りは北の郭を通って下山します。まだもう少し楽しませてもらえそうです。
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2024/08/19 19:05
二重空堀 (2021/11/03 訪問)
こちらは道路沿いにある標柱の直ぐ後ろには二重空堀の外堀の断面が見えていおり、そこから城内に入って行くことが出来ます。内堀端部は塞がれていて外部からは存在すら気付く事は有りません。
主郭の西・北面を囲うように二重空堀、時には平坦部となっています。南は道路、東は谷となって二重空堀の端部はそこに接続しています。内堀はこちらでは見る事のない綺麗な断面しています。南国と言ってもこちらの土質はシラスと違います、それで綺麗な断面が作れるのでしょう。但しちょっと土質に粘りが無いようです。何度か土塁の上り下りして歩いたところ土が柔らかく歩きずらい、その度に靴に土が入ってきました。こんなに靴に土が入る城跡はそうそう有りません。土塁は硬いはずと思い込んでいましたので驚きました。
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2024/08/19 18:49
2024/08/19 18:33
もう一歩進んでいたら (2024/05/25 訪問)
こちらに到着した時に何だか不思議に思いました。辺りを見渡すと標柱が有り小さく染川城とある。ここが正解のようです。
土塁に見える高まりが西から東に続いています。足元には何やら堀の様に見えアヤメの様な植物が育っていました。よく見ると水が溜まっていたので水堀なのかもしれません。じゃあ土塁と水堀の組み合わせなでおかしく無い、ではこの裏(北側)が城跡なのだろうと道路を進みました。しかしこの道路は東に向かって土塁から遠ざかっていく。150m程進んで行くと蔦の巻き付いた倒木が道路を塞いでいました。蔦は深かったので暫くの期間ここには誰も来ていないのでは無いか?跨ぐかどうか考えていた結果引き返してしまいモヤモヤの残る訪問でした。
帰宅後の復習の時間、先輩投稿写真と見比べてみた所、倒木の先に曲輪が映りこんでいる。もう一歩進んでいたらモヤモヤが晴れていたのにと反省。と同時に疑問に思いました。入口の土塁と水堀は城跡に関係あったのか?土塁だけならおかしくはないと思う。それなら水堀は後年の物?距離も遠いし方向も違う、配置的に不思議に思います。モヤモヤ去って違うモヤモヤ。どなたかこちらに訪問された際は是非とも結果を投稿ください。
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2024/08/19 18:03
三連続の堀切 (2024/07/15 訪問)
時間と周囲の状況を気にしながら城域に到着しました。最初の堀を別として、先に堀切が三つ連続しており、守りはなかなか堅いです。
主要部は幾段かの郭で構成されていて、東から主郭に入り込みます。主郭の北東部には社があるのですが、すでに崩壊しています。主郭には土塁も残っているようです。まだ、なんとか明るいですね。
主要な部分を確認したので、さっさと引上げです。この城の見どころは城址に入ってからの三連続の堀切でしょう。伊東氏の手によるものか、北条氏のものかはわかりませんが、なかなか手の込んだ縄張りをしています。
麓に降りてきたときには19時15分ごろになっています。百も承知でやっているのですが、山城は時間にゆとりが有る方が安心ですね。
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2024/08/19 16:14
田園地帯の民家敷地内に (2024/08/15 訪問)
戦国時代に佐位・那波の両郡を領有した那波氏の居城の一つで・・・。遺構は耕地整理で本丸跡地に僅かに残るのみ・・・、と説明板に載る。民有地を入った場所に、城址碑と説明板が建つ。碑の左側一帯が一段下がり堀の名残かと想像する。5~6㎞南東に那波城跡があるが、ここも城址碑・説明板があるのみ。
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2024/08/19 15:59
散歩者が目立つ城址公園 (2024/08/15 訪問)
説明板に、富岡氏六代、100年間の居城で、遺構は北条氏傘下の時代に改築されたと思われる。小田原攻めの際に廃城になる、と記されている。
城址公園として整備され、駐車場も東西にあり、入口には模擬石垣が造られている。本丸の東虎口の前は二の丸と表記されているが、駐車場・公園一部・宅地になっている。本丸を囲む堀・土塁は良く残る。外郭の西から南は民家・学校になる。北から西の一部まで堀・土塁が残る。本丸・外郭もだが、虎口以外に橋があり中へ入れるが、良くある整備では土塁を開口してしまうが、ここでは土塁に石段を設けて上り下りをする。崩れ防止だろうが、堀の法面は石垣風になっており、本丸土塁の下部(腰巻)も強化されている。説明に櫓台跡、折れを伴う横矢掛がみられるとある通りよく残っている。
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2024/08/19 15:22
さすがの一言 (2024/08/18 訪問)
いやーやっと来ることができました。
さすがは松本城、どっしりとしていて且つ堀に映る姿も含めて美しい。
今回電子チケットで朝一に登城。
このシステムいいですね。
時間も朝一でしたので、そこまで人は多くなくじっくりと見学できました。
階段が狭く急で且つ微妙に傾斜と間隔が違うのでもし敵が入っても天守まで登りきるのは至難の業だと思いました。
城内の資料を見ていると石川数正は名護屋城へ行っていて、最後は戻ってきていないと書かれています。
松本城を思い、遠い地で最後を迎えたということに胸が熱くなりました。
天守からは360°見渡せて絶景です。
そして降りていく途中でのちに増築されたという月見櫓があってこれまた素晴らしい。
昔の建築技術は釘も使わず感心させられることばかりです。
外観から見ると増築したことがはっきりとわかります。
いやーこれはまた季節の違う時に訪れたいです。
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2024/08/19 13:16
例のマンション遠望 (2024/08/11 訪問)
チェブさんが訪問した前日に眺めに行きました。
幕張本郷駅近くに住む子供のところに、お盆休みに訪問し、一番近い、馬加城へ。孫のお昼寝中(暑い盛り)にでかけたもので、すぐに後悔しました。馬加城がある丘陵と谷部を挟んだ丘陵の東端まで行ったところで、例のマンションが見えました。下って上っての往復はもう無理。マンションと丘陵を遠望してヨシとしました。
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2024/08/19 08:33
大手側散策 (2024/06/29 訪問)
本丸には2年ほど前に登っていますが、佐和山東麓の大手側にも堀や土塁が遺っているようなので、彦根城・佐和口多聞櫓特別公開のついでに大手側を散策してみました。
彦根城の駐車場から折りたたみ自転車で国道8号線を東へ。佐和山トンネルを抜けて北への分岐を入ったところに大手口跡の説明板が立てられています。ここから佐和山へ続く道が大手道で、南北に内堀の名残の水路が流れ、時季的に草木に沈んでいるものの土塁が見られます。土塁の内側には侍屋敷が広がっていたようで、発掘調査により門柱の跡や陶磁器、石臼などが出土しています。内堀跡の北端部には井戸があり、説明板が立てられています。石組みの井戸のようですが水が溜まっていてよくわかりません。内堀跡の東側を南北に流れる小野川は外堀跡とされます。こうして大手側を散策してみると、佐和山の曲輪群だけでなく、谷部に侍屋敷、内堀と外堀の間には城下町を設けた巨城であり、三成に過ぎたるものとうたわれた理由の一端をうかがい知ることができました。
大手側から西麓の登城口に向かう途中、道路脇に石田三成屋敷跡の石碑を見つけました。石碑の先の突き当たりはなかなか風情のある石垣ですが、さすがに屋敷跡の石垣遺構ではなさそうです。西麓の登城口でニッポン城めぐりのイベントスポットをポチし、前回見落としていた佐和山一夜城の石造をチェック。佐和山城天守といえば、佐和山トンネル西側にある朽ちかけた天守風建物は何だろう…と思っていましたが、帰宅して調べてみると未完成のまま閉鎖された石田三成のテーマパーク「佐和山遊園」の佐和山城天守閣だったんですね。「あやしい天守閣ベスト100城+α」にも載ってますし、その筋では有名な天守閣だったのか…。
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2024/08/19 07:51
お盆の攻城② (2024/08/15 訪問)
太田フレックス高校がその故地とのことです。群馬県立太田フレックス高校は午前、午後の定時制と通信制の高校で登校時間や学習時間がフレックスとなっているようですね。刑部さん投稿の空堀、私も探してみました。
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2024/08/19 07:04
水攻めが欲しいくらいの暑い日に登城 (2024/08/04 訪問)
備中高松駅から徒歩で10分、駐車場もあります。
お馴染み、秀吉の水攻めで落ちた城です。
続100名城ですが遺構よりも歴史的な意義によるものなんでしょうね。
駐車場のあたりが三の丸、高松城址公園資料館のあたりが二の丸です。
スタンプは資料館に置いてあります。
周囲は沼地となっていて往時をイメージすることができます。
ハスの花の見頃は7月中旬なのでちょっと遅かったです。
復元された堀を渡ると本丸になります。
本丸には清水宗治辞世の首塚や句が書かれた石碑があります。
また、本丸の西には胴塚もありました。
この日はかなりの暑さでしたが蛙ヶ鼻まで徒歩12分くらいとのことなので足を伸ばしてみました。
公園として整備されていて、水攻めの堤防の一部が残っています。
距離は大したことないのですがこの直射日光、結構応えました。
近くには秀吉本陣の跡などもあるのですが山城シーズンになったら訪問したいです。
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2024/08/18 22:05
苗木城ワールド (2024/04/13 訪問)
4月前半は巨岩がシンボルの岐阜県中津川市の苗木城へ。
深い谷を流れる木曽川の北岸、川面からの標高差約170mの高森山に、その露出した巨岩と狭い平場を巧みに利用して築かれた城。
このエリアは東西に東山道が通り、北は飛騨高山へも通じるポイント。
また恵那郡周辺は鎌倉時代から遠山一族が統治してきており、苗木城は1526年に北の植苗木(現福岡町)から遠山景徳が移転したことが始まりとのこと。
1583年に秀吉の指示により美濃金山城を本拠とする森長可に攻略されますが、家康の家臣となっていた遠山友政が関ケ原合戦前に奪還し、以後明治維新まで遠山氏が城主を務めました。
現在は、建物はないものの石垣が残り、天守跡には展望スペースが設置された観光スポット。
ただし落石警戒で、仕切門・清水門・不明門ルートは立入禁止中。
訪問時、まずは足軽長屋跡からの眺めで"苗木城ワールド"に吸い込まれ、三の丸・二の丸に近付くと"巨岩の城"以上に"石垣の城"。
大矢倉周辺や竹門に寄り、大門から何重もの門跡を通り抜けて本丸へ向かうと、高度が上がるに従い見えてくる絶景。
大きな城ではないが約2時間半滞在し、その後に苗木遠山史料館へ。
独特の世界観があり、城も城からの景色も写真映えする、私の城郭巡りの181城目でした。
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2024/08/18 21:35
青田山陣場(砦) 静岡県掛川市・掛川城攻めの拠点 (2021/12/31 訪問)
青田山陣場は小笠教育会館の裏の丘陵上にあり、そこからも道が続いていますが、私は南の茶畑から到達しました。陣場は東と西の峰からなり、案内板のある場所は東陣場と思われます。
永禄11年(1568)徳川家康は武田信玄と大井川を境に今川領を分割することを約束し遠海に侵攻、武田軍に駿府を追われた今川氏真は掛川城に籠り、家康は掛川城を攻めます。その際に青田山陣場を陣地としたので、陣場峠の名が残っています。
天正2年(1574)武田勝頼が高天神城を攻めた際には、陣場峠より救援を要請する狼煙が三回揚げられたにもかかわらず救援は来ず、高天神城は武田軍に降ったとのことです。その際に高天神城から浜松城の家康に対して救援要請の使者を務めた匂坂牛之助なる人物は、家康から「救援の確約」を反故にされ、その責任を取らされ、後に浜松城にて切腹を命じられたそうです。
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2024/08/18 21:00
麓より 往時を偲ぶ 安土山 ひぐらし鳴くは 石段の跡 (2024/08/16 訪問)
下山中にひぐらしが鳴いておりました。いとをかし。
滋賀日帰り旅行ということで午前に佐和山城→彦根城の順に訪れ、
午後から帰路途中のJR安土駅で降りて安土城へ。
当初は駅から徒歩で向かう予定でしたが、改札を抜けてレンタルサイクルの文字が目に入り即決。
サイクリングコース内には、同じく近江八幡市にある名城 観音寺城もありましたが、時間の余裕がなく
安土城→信長の館を訪れました。
約200段続く石段がこの城の代表的景観ですが、
麓にある登城口を抜ける前からその景色は広がっており、圧巻の一言です。
少し進むと右手に釣鐘があり、100名城スタンプ設置場所の一つにもなっています。
押捺→鐘ゴーンして引き続き頂上を目指します。
要所要所に本丸跡(天主)を案内する石碑が建てられているので良心的、と言いたいけれど
とにかく段差のある石段がきついです。私は軽装で登ったので、軽い靴擦れを起こしました。
頂上の天主跡には石垣のほか、礎石建物跡と思しき遺構が確認できました。
ここで撮影した写真は、飛行機雲がいいアクセントになっていてベストショットです。
当日の天気は晴れと聞いていましたが、午前中に彦根城を訪れたときには雲が広がっていたので
撮影はしつつも、晴れてたらなおよかったのになんて思ったり、、、
自転車を返して、ホームで電車を待っているときに本投稿のタイトルを考えていました。
前の投稿みたいに一歌詠んでみようと思って何を季語にもってこようか考えていると、
下山しているときに聴こえてきたひぐらしの鳴き声がよぎって「コレだ!」ってなりました。
これからは行く先々でそのお城について一歌詠むのもありかもしれないですね。
そんなに続かない気はしていますが、、、
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2024/08/18 20:48
2024/08/18 20:38
大畑城跡散策 (2024/08/18 訪問)
近くの城跡を散策しました。黒田官兵衛に関係ある城跡は全部行きたいですね。
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2024/08/18 19:34
お勧めできないイブニング登城。 (2024/07/15 訪問)
日本城郭大系によれば、鎌田城は鎌倉時代に鎌田新藤次俊長によって築かれたとされています。俊長は鎌倉旗揚以来の御家人で、その功績によって、この地を賜ったとのことです。戦国時代に改修された痕跡が見られ、堀切や土塁などの遺構も良く残っています。
日程に余裕が無く、この日のうちに、なんとか登城したかったのですが、登り口を探しているうちに17時40分になってしまいました。片道1時間のハイキングコースしか手段がなく、帰ってくる頃には暗くなっているでしょう。
日程も一日しか残っておらず、伊豆を制覇するためには、ここを避けては通れません。下田の叔父の所で長居しすぎたかな、とも思いましたが、こちらも20年ぶりになるので仕方ない‥。地形図アプリと夜間訪問の備えは常に常備しているので、城址の様子を見ながら行けるところまで行ってみることにしました。この時期は一年で一番陽が長いこともあり、まだ城址の中を確認できます。ハイキングコースだけあって特に危ない個所は見当たりません(しんちゃん基準)。
引き際を見極めつつ進んでいくと最初の堀切が見えてきました。
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2024/08/18 19:04
三納城公園 (2022/02/01 訪問)
こちらば三納城公園として駐車場とトイレが用意されている城跡です。公園化と言っても市街地にあるような遺構が消失している公園ではありません。主な遺構としては上下2段の曲輪がメインになります。
やたらと石碑と案内板が多い城跡で合わせて7か所位有りました。逆に曲輪以外の遺構は少々控えめですが探し方が足りなかったのかもしれません。
写真2の主郭虎口前の通路に横堀があります。主郭には建物の背後に丸い高まりが有りますがこれは何だろう。もう一つの曲輪周辺に土塁と空堀を確認出来ました。写真10は通路に入る前に気が付いた西側にある空堀っぽい場所です。倒竹により悲惨な状態になっていますね。これは城に関連するかどうか分かりませんが大手は西側なので堀切道として当時から有ってもおかしくは無いのかと思います。
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