大友宗麟、高良山・毘沙門岳城からの続き(9)です。
鎌倉幕府より源頼朝から豊後の地を与えられた大友能直が下向したのが豊後大友氏始まりとされ、室町時代の10代大友親世の時には豊後国の守護となり、この地に方形居館の「大友館」を築きます。そして第21代宗麟の時代には、南蛮貿易で得た巨額の富で大友館は豪華に改築され、この時に全盛期を迎えました。
しかし耳川の戦いに敗れ、北上した島津家久(島津四兄弟の末弟で佐土原城主)に攻められて、大友館は島津軍により焼かれてしまいます。そして秀吉の九州征伐後は、嫡子の大友義統に豊後一国は安堵されますが、義統は朝鮮出兵での敵前逃亡の罪に問われて改易され、その後の政治の中心は、福原直高により新たに築かれた府内城へ移り、江戸時代に入った竹中氏や松平氏も府内城で政事を行ったため、その後に館が再建される事はありませんでした。
現在、館の跡地には庭園が再現され、南蛮BVNGO交流館では、シアターなどで大友氏の歴史を学ぶ事ができます。また全盛時の大友館を復元する計画が進行中で、宗麟の生誕500年にあたる2030年の完成を目指しているそうです。でも私がざっと見た所では(あれ?🤔)、まだ発掘調査中なのか財政難なのか、あと4年で完成するような雰囲気には見えませんでしたが・・・でもここは期待して待ちたいと思います。
今回の旅で、大友宗麟の銅像は全部で5か所ある事が分かりました(大分駅前、大友館、神宮寺浦、津久見駅前、大友別館)。その中でも、大分駅前の銅像は高さが10mくらいある立派な像で、私はこれが一番カッコイイと思いました(写真⑧)。
次は、大友家没落へのターニングポイントとなった、(高城川の戦い)に続きます。
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