まつくらじょう

松倉城

岐阜県高山市


旧国名 : 飛騨

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じゅんじん

16年ぶり (2024/09/08 訪問)

飛騨牛を食べに高山へ。焼き肉前に行きました。石垣美しいし眺めもよきでした。
もちろん飛騨牛最高✨🐮

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しんちゃん

総石垣の三木氏(姉小路氏)の主城 (2024/10/14 訪問)

松倉城は三木氏(姉小路氏)の主城です。これだけの総石垣の城は周辺には無く、まさに別格の貫禄が漂っています。飛騨の里から南に続く林道の途中に駐車場があり、そこから歩いてすぐに城域に入ります。
藪に覆われた堀切の先に三の丸の石垣が出現します。なんとなくジャングルの中にある遺跡のような雰囲気が出ています。さらに進むと主郭の石垣が見えてきます。主郭からの眺望はなかなかのものです。高山の街が良く見えますが、木々に阻まれて高山城の方が良く見えません。この日最後の散策なので、二の丸周辺を散策して引き上げました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:松倉城 (2023/04/24 訪問)

高山城からの転戦です。シンボル広場(36.126489、137.231168)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1579年(天正7年)頃に三木自綱によって築かれたとも、永禄年間(1558年〜1570年)に自綱の父良頼の頃に築かれたとも云われています。
三木氏は1411年(応永18年)京極高員の代官として三木正頼が益田郡竹原郷に下向したことに始まると云われています。四代三木直頼のときに益田郡の大半を横領して桜洞城を築いて居城としました。
五代良頼の時代になると大野郡へ進出して飛騨国司の姉小路家を滅ぼし、六代自綱のときには高原諏訪城主の江馬氏などを降して飛騨大半を平定しました。
1585年(天正13年)三木氏は秀吉と対立する越中の佐々成政と結んだことから、秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近の侵攻を受けました。
このとき自綱は広瀬城におり、松倉城には秀綱が籠城して金森軍と戦ったが内応者が現れ落城し、秀綱は城を脱して信濃へ逃れる途中に土民に襲われ死んだそうです。
三木氏の後に飛騨に入封した金森氏は高山城を居城として築き、松倉城は廃城となったと云われています。
現在残る主郭部の石垣などの遺構は、他の三木氏に関係する城から高石垣などの遺構が確認できないこともあり、金森氏など織豊系の武将によって改修されたものとも考えられているそうです。

城址に向かう途中に堀切がありますが、ほとんど埋まっています。
石垣が素晴らしいです。一部ブルーシートがかかっています。
北アルプスが見える眺望は絶景です。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=高堂城に向かいます。

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ぴーかる

残雪の名城跡 (2023/03/19 訪問)

【松倉城】
<駐車場他>登城口の松倉シンボル広場6台程度駐車可能
<交通手段>車

<見所>主要部の総石垣造り・堀切・眺望
<感想>日帰り強行飛騨山城攻めの旅1城目。以前から行きたいマイリストに挙げ、第31回日本100名城・続日本100名城に負けない城で特集されて益々行きたくなっていた城跡でした。
 特集で掲載された縄張り図を手元に登城口から少し登ぼると三の丸東側から城跡に入ります。いきなり三の丸東面の巨石石垣に心奪われます。一応三の丸南側の尾根も遺構が無いのを確認し三の丸の長い石垣を堪能し主要部に入ります。本丸外曲輪石垣は写真通り見応えのある圧巻の高石垣です。本丸から北に伸びる尾根は藪化して途中までしか進めませんでした。二の丸から西に伸びる尾根は大手枡形虎口、櫓台かと思われる方形状の石垣、堀切の遺構が続きます。その先のずっと奥の居館跡の方にも行ってみましたが藪化した谷底がポイントのようでしたので踏み込みませんでした。朝8:30に天守台から見事な雲海と乗鞍岳が眺望でき、城跡を見終えた9:30頃には雲海がすべて無くなり高山の町がよく見え2種の絶景を満喫しました。納得の見応え、マイベストに入るまさに日本100名城・続日本100名城に負けない城でした。

<満足度>◆◆◆

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 三木自綱
築城年 天正7年(1579)頃
主な城主 三木氏
遺構 曲輪、石垣、堀切
指定文化財 県史跡(松倉城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県高山市松倉町城山2059
問い合わせ先 高山市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0577-35-3156