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岐阜市歴史博物館 (2025/08/11 訪問)

 岐阜市歴史博物館で開催されている開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長」へ行って来ました。岐阜市では「史跡岐阜城跡整備基本計画」に基づき1984年から山麓部の発掘調査を行い、2018年からは山上部の発掘調査にも取り組んでいます。この発掘調査による出土品および石垣や庭園遺構などの写真パネルが展示されていました。常設展示も充実していて楽しむことができました。
 昨日から雨が降り続いていて見上げても山上に靄がかかっていて天守閣を見ることができません。時間の都合もあり山上には上がらず居館跡を回って撤退しました。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

新幹線 眼下に走る 新高山城
(しんかんせん がんかにはしる にいたかやまじょう)

にのまるさんのレポートにあるように詰の丸から新幹線を見ることができます。
すぐにトンネルに入るので一瞬です。
次行くときはその光景を見たい!

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カズサン

【赤色立体地図かるた】

 「球磨川に 対薩かなめの 人吉城」(くまがわに たいさつかなめの ひとよしじょう)

 人吉城、人吉には仕事で何回となく訪ねて居ましたが平成16年(2004年)6月18日には復元されていた角櫓、土塀、多門櫓の見学探訪、平成19年(2007年)3月22日には復元された水手門周りと土塀、合わせて三の丸、二の丸、本丸見学探訪へと訪ねて居ります。
 人吉城主相良氏は静岡県牧之原市相良町の相良荘から鎌倉初期に肥後人吉荘地頭として下向以来幕末明治維新まで人吉を治めていました、江戸期に入ってからは薩摩藩への抑え監視としての役目も有った様です、2万2千石の小藩にしては、球磨川と合流の棟川河岸の石垣積、3の丸、2の丸、御殿、武家屋敷の石垣積は幕府からの援助も有った事でしょうが大変な費用が掛かった事でしょう。しかし美しい石垣を今に残してくれています。
 2020年令和2年7月には球磨川流域、人吉に甚大な水害が発生し人吉城武家屋敷エリアは見学不可に成って居ましたが、最近の城びとの投稿では見学が可能に成った情報が載って居ましたので一安心、復旧復興ありがとうございます、歳を経ましたが機会が有れば訪ねたいとも思っております。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

北条の 悲劇の舞台 八王子城
(ほうじょうの ひげきのぶたい はちおうじじょう)

秀吉に攻められ婦女子まで犠牲となった八王子城。
山麓の御守殿跡も良いですがやっぱり登りたいですね。
本丸からさらに登ったところの馬冷の堀切や伝・大天守跡が見どころだと思います。
余力があればさらに進むと富士山ビューの絶景ポイントもありますよ。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

北条の 武蔵の要 滝山城
(ほうじょうの むさしのかなめ たきやまじょう)

河越夜戦の後に改修され、武田信玄を撃退した城です。
城内には空堀がめぐり見応え充分。
高月城、根古屋城(戸吹城)と合わせて滝山三城、セットでどうぞ。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

断崖の 上の要害 鉢形城
(だんがいの うえのようがい はちがたじょう)

深沢川と荒川が合流する地点の断崖上にあります。
下流ではゆったり流れる荒川もこの辺りは流れも速いです。
綺麗に復元整備された城跡は歩きやすくなっています。
氏邦桜と呼ばれるエドヒガン桜も有名です。

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todo94

夏のチャシめぐり② (2025/08/08 訪問)

ウバトマナイチャシからの転戦です。といっても目と鼻の先なので、北見神威岬公園の駐車場に車を停めたまま、歩いてアプローチしてもよいくらいです。説明板があって遺構が視認できるだけでもありがたいチャシです。このあと、浜頓別の市民風力発電所「はまかぜちゃん」、道の駅「さるふつ公園」、間宮林蔵渡樺出港の地碑とチェックしつつ、稚内に戻りました。道の駅「さるふつ公園」で購入したホタテめしを夕飯にいただきました。猿払のホタテにはかなりそそられました。時間に余裕があったなら、購入して実家に送っていたに違いありません。ちなみに、猿払村は日本最北の村だそうです。

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ナマズ

津山のホルモン焼きうどんはうまい (2025/08/05 訪問)

8月5日人
人生2度目の津山に行った
この旅の目的は松江城、米子城、月山富田城に行くことがメインであるが
夏休みのためどこもホテルが空いておらず空いていた津山に泊まることになった
そして晩御飯の津山にせっかくきたのでと人生2度目のホルモン焼きうどんを食べた
2度目ではあるがものすごく美味しかった

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T-Shionoya

彦根城訪問 (2006/09/09 訪問)

久々の過去の城郭巡りの振り返り、第25弾は滋賀県彦根市の彦根城。

琵琶湖東岸の、鈴鹿山脈との間の平地が狭くなるポイント。
西は京都・大阪、東は北陸へ至る北国街道東近江路や関東へ至る中山道に通じる交通の要衝。
そんなエリアにおける比高約50mの彦根山を城塞化した城。

関ケ原の後、井伊直政の嫡男直継の時代に築城され、以後幕末まで彦根藩主を務めた井伊氏16代の城。
現在も江戸期の城郭を概ね残し、国宝の天守を始め、三重櫓や天秤櫓、太鼓門などが現存。

訪問時はほぼパンフレットの順路で進み、最も強いインパクトを受けたのが天秤櫓前。不規則な石段の表坂を登ると、鐘の丸と太鼓丸の間の深い大堀切に行きつき、一旦背を向けて鐘の丸に上がることで大堀切の先の天秤櫓に対峙できる構造。
装飾の多い天守も82の隠し狭間を備えており、イメージ以上に要塞レベルが高い城。

もう記憶が不鮮明な部分も多いが、玄宮園を含めて約2時間半滞在。
登り石垣や城郭北部が未訪のため、またいつか訪れたい彦根城です。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2018/09/25 訪問)

 「清正に 教わる石垣 玖島城」(きよまさに おそわるいしがき くしまじょう)

 7年前山城サミットin安来大会を終わって高速道前後で車中泊し4泊5日の九州北部未踏の城探訪で大村市の三城城、坂口館を訪ね、此処まで来たらと玖島城をチョイ寄り、板敷櫓石垣台ここ辺りの石垣は加藤清正に教えを乞うたとの伝えが有り、流石清正流のそりの有る石垣にうっとり、板敷櫓も復元されて、石垣と櫓やっぱり絵に成りますね! 大手側の石垣門である埋め門を潜って、本丸の台所門虎口、本丸虎口の石垣も立派で枡形に成って居る、大村神社に参拝して須古城、唐津方向へ唐津で2泊、次の日は名護屋城の陣城廻りを1日掛けました。
 

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2021/11/28 訪問)

「ジブリ風 山賊の城 苗木城(じぶりふう さんぞくのしろ なえぎじょう)」

バッティングしそうになったので急遽こちらへ・・山賊と言っても地元の豪族・土豪のイメージです。CGの復元図を見るとエボシ御前みたいな人が住んでいそう、甲冑・・おお~~♪
ChatGPTでジブリ風に合成って良く聞くけど、変換しやすいのかな? 「ラピュタ」や「魔女の宅急便」「紅の豚」の頃は絵に変化があって、面白かったけど、長い間で記号化が進み過ぎたのかもしれません。

「恵那山と 木曽川の絶景 苗木城(えなさんと きそがわのぜっけい なえぎじょう)」
恵那山は見る角度によって、のっぺりとしてるけど、この角度から見る恵那山は絶品です。馬籠の坂を登って行った先から見る風景も同じような感じです。眺めの良い城って、それだけでも良い城だと思います。

「石垣と 巨岩のコラボ 苗木城」
昔、苗木城がまだメジャーで無かった時代、ここは私の隠れお気に入りスポットでした。同じような城に大給城や市場城があります。
大給城もだんだんメジャーになって来てますね。ただ、駐車場が狭いので・・

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

元親の 野望ここから 岡豊城
(もとちかの やぼうここから おこうじょう)

近いのに未訪なのは痛恨。
ただ、遺構は綺麗なのを見たい派なので今冬に行きます。

四国の雄、長宗我部元親が拠点として土佐統一、さらには四国の覇者となりました。
しかし秀吉の四国攻めであえなく後退、野望はここまでとなりました。
ちなみに岡豊城のある南国市、読めますか?
正しくは「なんこくし」なんです。
高速のインターは「なんこく」、SAは「なんごく」。
ややこしいです。

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キンヤ

二之丸 大手二之門北側と西之丸 大手馬出跡南東側の刻印 (2025/06/22 訪問)

二之丸 大手二之門の枡形から北側、西之丸 大手馬出跡南東側の刻印を探しに行って来ました。

二之丸 大手二之門の枡形内には、池田輝政(羽柴三左衛門)のものとされる「平むさし内 きし越中」があり、肉眼ではある程度読めました。
丁場割図でも枡形は羽柴三左衛門となってます。
輝政は名古屋城築城に長男の利隆を参加させ、利隆は官職名の松平武蔵守を刻印に使っており、この「平むさし内」の前にあった「松」が消えてしまったのかもしれません。

その枡形から北へ延びる石垣の内側に刻印が多くあります。
文字では輝政の名前「三左衛門」を使用した「三左内」、更に利隆の「松平むさし」と思われる刻印もあります。
そこから北側は山内家の刻印となるため、池田家と山内家の分担の境のようです。
丁場割図で二之丸 大手二之門の北側は山内忠義(松平土佐守)となってます。
特に馬魂碑そばに刻印が集中しています。
山内家の家紋「丸に三つ柏」が多く、文字では「□山内左太」が2つ、「松平土佐守内 百々出雲(?)」、紋様では「矢が的に的中」の面白いものもありました。
歩兵第六聯隊之跡碑そばにも刻印が集中し、ここも「丸に三つ柏」が多いです。
百々出雲の「いづも」かもしれない明瞭な文字もあります。

ここからは、西之丸 大手馬出跡の南東側をレアなアングルで見られます。
その石垣隅部の算木積に蜂須賀至鎮(蜂須賀阿波守)の「蜂須賀内 山田織之助」があります。
堀越しで遠く、私のカメラでは鮮明に撮れなかったですが、双眼鏡である程度読めました。

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トク

【平和について考える旅 2025】(3)ひめゆりの塔 (2025/02/07 訪問)

平和について考える旅(3/3)です。

沖縄で海軍司令部壕を訪れた後、「ひめゆりの塔」まで足をのばしました。那覇バスターミナルから[89]糸満行に乗り60分、終点で[82]玉泉洞行に乗り換え20分、ひめゆりの塔前で下車しました。帰りは糸満から[189]那覇空港行で帰りました。

バスを降り、入口で花束が売られていたので買って、塔の前にお供えしてから平和祈念資料館に入り館内を見学しました。塔の前には洞窟(ガマ)があり、逃げ場を失ったひめゆり学徒45名はここに潜んでいましたが、アメリカ軍はガマの中に手榴弾を投げ機銃を撃ち込み、それにより40名の方がここで亡くなられたそうです。このガマ以外でも、ある者は機銃に撃たれ、ある者は砲弾に吹き飛ばされ、またある者は手榴弾で自決されたそうです。まだ15~19歳の高等女学校や女子師範学校の生徒たちでした。

館内ではガマの様子が再現され、生き残った5名の方を除く、亡くなられたひめゆりの方々136名全員の遺影が飾られていました(館内撮影は禁止です)。また(1945.04.01)米軍が上陸し彼女たちが亡くなられた(1945.06.19)までの80日間の足跡や、生き残った方の証言ビデオなども流れ、それらを見ていると何とも言えない胸にくるものがありました。

沖縄の戦闘では約20万人もの方が犠牲となり亡くなられたと知りました(沖縄県民12万、日本軍人6万、アメリカ軍人1万)。12万人は当時の沖縄県民の1/4にあたるそうです。ひめゆりの話は作り話だなどと、間違った歴史認識をしてニュースになった国会議員も最近いましたが、我々はこれらの方々の犠牲があってこそ今の平和がある事を正しく認識しなければならないと、改めてあの場所で考えさせられました。

沖縄にはこういう言い伝えがあるそうです
「命どぅ宝」
(ぬちどぅたから)
命は宝であり一番大切にしなければならないもの。
戦争で多くの命が奪われた教訓から生まれた言葉だと思います。

以上、お城に関係ない話を長々としてしまいすいませんでした。
全3回読んで頂きありがとうございました。
 

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

陸奥の ナンバーキャッスル 三戸城
(みちのくの なんばーきゃっする さんのへじょう)

未訪です。
関係無いですがかつて国立大学や国立銀行には番号がふられていました。

青森と岩手の県境付近では一戸から九戸までの地名がありますが四戸だけ無い。
かつてはあったようですが・・・
城ではさらに二戸が無い?
間違ってたらご指摘お願いします。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

北国を 守る前線 松前城
(ほっこくを まもるぜんせん まつまえじょう)

行ったのは城びと登録のだいぶ前、「行った」にしていない城です。
その際の買った松前杉の料理べらは優れもので今だに我が家で活躍中です。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

牛鬼が 悪魔祓いし 宇和島城
(うしおにが あくまはらいし うわじまじょう)

四国の100名城なのに未訪です。
高松からだと大阪の方が近いという・・・言い訳。
四国も意外と広いんですよね。

牛鬼ですが顔は牛か鬼か、胴体は牛、尻尾は剣の妖怪です。
夏、宇和島では牛鬼が神輿を先導して町内を練り歩く祭りがあります。
始まりは加藤清正が朝鮮出兵の際に敵を威圧するために始めたとか、大洲太郎が赤布で牛鬼を作って敵を退治したなど様々な説があるようです。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2018/09/27 訪問)

 「岩盤を 活かした築り 獅子ヶ城」(がんばんを いかしたつくり ししがじょう)

 7年前山城サミットin安来大会後九州北部4泊5日で廻りました、余湖図コレクションの岩盤を活かした造りの鳥瞰図と3の丸まで車で行けるとの情報にて是非訪ねたいと探訪城にピックアップ初登城しました。
 駐車場から見上げるそそに獅子を感じ、岩盤そのままの2の丸、石垣も残って居り、感激興奮の探訪でした。
 

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2013/12/15 訪問)

「謙信の 心を奪った 七尾城(けんしんの こころをうばった ななおじょう)」
「漂わす 守護の品格 七尾城(ただよわす しゅごのひんかく ななおじょう)」
とりあえず二発いきます。 
朝田さん早いな~ 謙信公は譲れないってやつですか・・ちょっとかぶったかな。。
上杉謙信が9月13日に陣中で作った漢詩があります。
霜満軍営秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷憶遠征
このときの謙信の気分を一言で表すと「ひゃっはー」ではないでしょうか・・もしくは「ひゃっほー」超ハイテンションです!
三行目は「越中・越後に併せて能登の景色をも得たぞ」と読むのでしょか。
四行目の遮莫(さもあらばあれ)は「もはやどうでもよい」といった意味らしいです。あの謙信が春日山のことを「どうでもいい」と言っているんですね、一時的に気分が高まったからとはいえ、びっくりです。
確かに、七尾城からの日本海と能登半島を見渡す絶景も、気品高く積まれた石垣も(技術がまだ発達してなかったからだけど)春日山城には無い物です。
山城とはいえ、守護の城だけあって実用性に加え風格まで備えていたのではと思います。

「段だ壇 石垣重なる 七尾城(ダンダダン いしがきかさなる ななおじょう)」だんだだんだんだだんだんだだん・・・・

※一つ目の内容を 掴んだ→奪った に修正。ますますカブってしまう気がするけど、一時とはいえ謙信公の心をわし掴みにした絶景は破壊力ありますわ。

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しんちゃん

サクッと回れる。 (2015/12/29 訪問)

藤橋城の築城時期は不明で、戦国時代の城主は平山重吉 or 藤橋小三郎とされています。主郭の他にも郭があったとされ、現在は小公園になっています。周囲には今でも土塁や空堀が残っているようです。知名度は低いようで、藤橋城で検索をかけると岐阜県のプラネタリウムが出てきます。

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