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天守無しがアツい

高山神社で前日の補完 (2024/11/03 訪問)

スタンプの受付時間にあと数分…で逃してしまった翌日…私は再び津城へ。実はここのスタンプ設置場所は2ヶ所あり、1つ目は城趾むかいの駐車場(津まんなかガイド詰所)…もう1つは高山神社(城趾そばにある神社)にあるとガイドブックにありました⛩️

まずその神社の境内へ…すると(1枚目)確かに続100名城スタンプが…しかも無人なため「誰かに待たされる感も誰かを待たせる感も無く…まさにフリー😂」という最高の状態で気兼ねなく押印

普段はスタンプ台まで撮影することは無いのですが…何せ今回は惜しかった前の日の切なさを今日挽回ができた流れで…少しテンションが上がっていたからか…その記念としてこれも撮りたくなったのです

そう…最大の目的である100名城スタンプはこれで達成した…けれどそれでハイさよならは礼儀に欠ける…というか私のポリシーがそれを許さない。なので本堂(2枚目)で御賽銭をあげて感謝の合掌🙏もしました

それから城跡に向かい…時間の許す限り散策。前日(11/2)に御城印を購入した際に観光案内所スタッフが渡してくれたパンフレットの中に天守台という表記があり、てっきりここにあるのは櫓のみで天守は無いと思っていたので、そこを確認する事にしました

天守台は高山神社のすぐむかい…階段上がってすぐ右手の場所にあり、今まで見逃してしまうほど地味な印象でした(3枚目)。台の上に上がる階段は無く、下から見上げるのみ

案内板のみが天守台の手前に立ってました。この天守台には初代城主織田信包の代に五層の…藤堂高虎の代に三層の天守が建てられた…しかし関ヶ原の戦いだったり(その時にここ津城は包囲戦がおこなわれたらしい)火災で消失し、以降は再建されぬまま…現在に至る🏯

最後に…城趾むかいの駐車場を遠くから確認。すると白いテントがあり(昨日そこに足を踏み入れた時それは無かったので)「やはりもうスタンプ設置台は撤収してたんだな…」「5-10分遅れだったからもしかしたらまだスタッフさんがいて、頼めば押させてもらえるかもと淡い期待してたけど…時間厳守みたいにすぐ撤収しちゃうなんてキビシー😅」と感じました

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朝田 辰兵衛

玉縄城から徒歩で…🐾 (2024/09/15 訪問)

玉縄城から徒歩で向かいました。だらだら歩いたので,30分くらいかかりました。子供連れの奥様2人が長話しておりましたので,隣接する長福寺の高台に行ってみました。風合いのある冠木門がありましたが,関係性はわかりませんでした。
すっかり暗くなってからようやく公園内を撮影するにいたり,ストレスと疲労感の記憶だけが印象深い散策となりました…。

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しんちゃん

マツオ・デラックス (2024/11/03 訪問)

松尾寺城は山岳寺院を利用した城であったそうですが、それほど険しい感じはしません。北側の社の背後の土盛りは雰囲気がありますが、遺構かどうかは不明です。天正9年(1581)織田信長に攻められ壊滅的な打撃を被りますが、後に豊臣秀頼によって再建されたそうです。
山門に向かって石段を登っていくと左手に首堂があります。源義経が一ノ谷の合戦で討ち取った首を首舟に乗せ松尾寺に送り、それをねんごろに弔ったとのことです。

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しんちゃん

石碑があるでよ (2024/11/03 訪問)

伯太陣屋は渡辺基綱によって築造されたとされています。伯太藩渡辺氏は「槍の半蔵」の異名を取った渡辺守綱の五男を始祖(オリジン)とするようです。現在は宅地になっていて、石碑や武家屋敷跡を示す石碑などが残るのみです。
残りの写真は旅の途中、各地で食したものたちです。やはり食は旅の友であり糧であります。

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しんちゃん

柳生食堂・まかない飯 柳生藩家老屋敷小山田家 (2024/11/02 訪問)

柳生藩家老屋敷は柳生藩1万石の家老であった小山田家の屋敷です。作家の山岡荘八氏がここに移り住み「春の坂道」の構想をここで練ったと伝わってます。いいですねえ‥、こんな古風な屋敷で一年くらい暮らしてみたい。
柳生藩に伝わる武具や山岡氏にかかわる展示がされています。すぐ近くに小山田家の分家があります。こちらは非公開になりますが、本慶に負けない立派な石垣が目を引きます。

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しんちゃん

よくわからん (2024/11/03 訪問)

現地案内板にかつての縄張りが載っていますが、今はだいぶ変わっているようです。近くにある門は常時閉まっているようです。現状=良くわからん‥です。
永禄9年(1566)2月、家原城に籠っていた松永久秀方の泉州衆が城を出て、畠山高政と合流し、上芝で三好義継の軍勢13000と戦いますが敗れて岸和田城に逃れたそうです。永禄11年(1568)9月には織田信長が三好三人衆を破って畿内を平定しますが、12月には三好義継の家臣・寺町左衛門大夫・雀部治兵衛尉らがたてこもる家原城が三好三人衆に攻められ落城したそうです。

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ぴーかる

城跡へは立入禁止 (2024/11/03 訪問)

【御影山城】
<駐車場他>出雲大神宮大駐車場
<交通手段>車

<感想>御影山城の築城の詳細は定かではありません。城びとの城郭情報では主な城主に柳本氏・内藤氏がある。柳本氏は幕府管領を務めていた細川氏の家臣、内藤氏(八木城が本拠地)は細川氏から丹波国守護代を任ぜられた家柄です。また亀岡市のホームページには明智光秀の進軍の際、国衆がここで防戦したと伝えられると書かれています。
 御影山全体が麓の出雲大神宮の御神体であるため入山禁止となっています。山の中腹にある巨石の磐座へは社務所で受付すれば見に行けるとのことでしたが山頂付近の城郭遺構まで行けないとのことでしたので私もパスして神社でお参りのみとしました。山頂付近は石積み、土塁、堀切等良い遺構が多くあるようです。

<満足度>◆◇◇

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虎の子

割と標高差のある山城でした (2024/11/16 訪問)

彦根駅徒歩20分くらいの龍潭寺から上り、切通し、西の丸、本丸と登城し、千貫井やわずかに残る隅石垣などを見てきました。地元のガイドの方によると三の丸や法華丸への道は昔はあったが今はなく、登城道も今は一つなので、上った道を下るルートです
本丸からは彦根城を眼下に見ることができました。千貫井は今は水はないが水があった痕跡はしっかりありました。隅石垣はほんの数個残っているだけで、彦根城に流用されたという話も聞きます。三成の城だから思い込みもあるでしょうが、なんとなく荒廃感がありました
城山全体が寺の所有地とのことで、登城道などの整備も追いつかないのかもしれませんが、入山料などはなく開放いただいているようです。また、龍潭寺付近や登城道で何匹もサルを見かけました。目を合わせたり食べ物を見せないように気を付けてくださいね

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WEST

豊田城探訪 (2024/11/06 訪問)

茨城県常総市にある豊田城を訪問しました。
国道294号を南下していると5重7階の天守閣が視界に入ってきます。高さ48.5mで市内で一番高い建物だそうです。
この豊田城は常総市地域交流センターとして建てられましたが、実際のお城跡は別の場所のようです。
最上階からの眺望は素晴らしく、常総市の街並みや筑波山が良く見えます。また、登城日はあいにく見えませんでしたが、天気が良ければ、富士山も見えるとのこと。
1階のロビーには、城主豊田治親氏の毒殺の場の展示がしてありました。戦国時代の厳しさを見るようです。
ところで、常総市内を走行していると櫓風の建物が散見されます。いくつ位あるのでしょうか?

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WEST

向羽黒山城探訪 (2024/10/16 訪問)

福島県の向羽黒山城を訪問しました。初めに本郷インフォメーションセンターに立ち寄り、パンフレットの入手とお勧め登城ポイントの説明を受けました。丁寧に説明していただき、登城の参考となりました。事前に立ち寄ることをお勧めです。
登城は、お茶屋場跡、二の丸跡、本丸跡、三の丸の順で巡りました。本丸跡への古城のみちで見える竪堀は圧巻ですね。そのほかにも見どころ一杯です。さすがに日本最大級の山城です。
当日は曇り空であり眺望は今一つでしたが、眺望のよさは山城ならはですね。

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WEST

会津若松城探訪 (2024/10/16 訪問)

会津若松城を訪問しました。2019年6月以来の2度目の訪問となります。
今回は、自動車でのアクセスで、鶴ヶ城西出丸駐車場に止めて登城しました。
石垣、天守など見どころ一杯で何度来ても飽きないお城かと思います。
特に五重五階の天守は立派ですね。城内を散策しながら、いろいろな角度からみることができます。
再度訪問したくなるお城の一つです。

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WEST

三春城探訪 (2024/10/15 訪問)

三春城を訪問しました。三春城は戦国時代に田村氏が築城したとのことですが、現在の遺構は蒲生氏、松下氏のようです。
お城へは自動車によるアクセスにて、船引三春ICから向かいました。駐車場は本丸下にある三春城跡駐車場となります。
城跡には建物等はありませんが、石垣、堀切、土塁など遺構が残っており、山城らしさを感じることができます。特に現在は道路となっていますが、二の丸と本丸の堀切跡はなかなか見どころかと思います。
パンフレットが本丸の東屋にあります。縄張図の記載があり、参考になりますよ。
なお、三春城ではVRを活用した説明がなされており、当時の建物の姿を感じることができます。

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トク

大宰府政庁(紫式部ゆかりの地を訪ねて⑤) (2024/11/16 訪問)

紫式部(まひろ)がしばらく滞在したとされる大宰府政庁を訪れました。今では礎石が残るのみですが、ここが奈良・平安時代の九州の政治の中心地でした(写真①)。大宰府政庁内にある大宰府展示館(写真②)には、平安時代の様子を解説する資料が残っています。

亡き夫の宣孝は、かつてこの大宰府に赴任していました。紫式部が訪れた当時は、道長と敵対関係にいながら目を患って下向したあの藤原隆家が赴任していました。隆家は中宮彰子の女房であった紫式部の事を憶えていて、宴を開いてもてなしてくれたそうです(写真④⑤のような感じかな?)。隣の観世音寺には歌も残っていました(写真⑥)。紫式部が訪れた時(1018年頃)は、菅原道真が没してから約100年経っているので、道真を祀る大宰天満宮もおそらく建てられていたのではないかと思います。ならもしかして、紫式部も梅ケ枝餅も食べたのではないか? と想像し買って帰りました(写真⑩:やっぱりおいしい😊)。

しかし、紫式部(まひろ)はここで滞在中に、刀伊入寇(といにゅうこう)という事件に巻き込まれてしまいます。これは外国(満州の族)が日本を初めて襲って来たという、元寇よりまだ250年前の出来事です。対馬・壱岐・博多と攻めて来た彼らを隆家は果敢に戦って守り抜き、これらを撃退しました。そのため紫式部はなかなか京へ戻れず、2年後にようやく隆家とともに戻る事ができたようです。しかし隆家には援軍を送らなかったどころか、何の恩賞も与えられなかったようで、当時の関白藤原頼道(道長の子)やこの時代の公卿たちにいかに危機意識がなかったかが分かります。

その間に紫式部(まひろ)の娘の賢子(かたこ)は、大宰府へ旅に出た母の意志を継いで土御門第邸へ上がり、皇太后となった彰子の世話をしつつ、また彰子の孫(後一条天皇の子)の乳母となったそうです。そして従三位(女房の筆頭)にまで登りつめたとか。道長がこの時、賢子は自分と紫式部(まひろ)との間にできた子だと知り、取り立てたのではという説もありますが、実際の賢子は仕事のできるキャリアウーマンだったようです。紫式部(まひろ)は、低い身分の女性でも社会で認められて自立し、自分の成し得なかった夢を実現してくれた娘の姿を見て、とても喜んでいたのではないでしょうか。

一方では、天皇の後見職である摂政となった道長は、後一条天皇が幼くして亡くなると、また同じく自分の孫(敦良親王)を後の天皇(後朱雀天皇)に即位させ摂政関白となり、やりたい放題の栄華を極めます。しかし、あまりの独裁政治に他の公卿たちの反感を買い、またここで再び体調を崩したため、子の頼道に摂政関白の座を譲り出家する事にしました。そしてここで京へ帰ってきた紫式部(まひろ)と再会しますが、その後の1027年藤原道長はついにその生涯を閉じてしまいます(享年61)。

次は、紫式部が晩年を過ごした雲林院とその墓を訪れます。
 

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カズサン

水堀と散策路-4/4 (2024/11/09 訪問)

 高土塁の角部分-3/4の続きです。

 高土塁を外から眺め観察し、散策路を廻りますと周囲の水堀も同じく観察探訪、周辺の遊歩道・散策路がよく整備されています、南東側には水堀上に木橋が遊歩道状に架かって風情があります。

 4編に渡ってご覧頂きありがとうございます。
 
 夕陽も傾き孫の運動会後の祝いの夕食にも十分間に合いました。
 
 

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カズサン

高土塁の角部分-3/4 (2024/11/09 訪問)

 本郭内部と高土塁-2/4の続きです。

 本郭内部をざらっと見学撮影して東虎口より北周りに遊歩道沿いに散策探訪し、東西南北角々の高土塁が聳えて見事でしたので別編にして投稿させて頂きます。
 更に北東角、南東角は見事で櫓台を思させました、南東角には東屋が建てられていました、高土塁には東虎口、西虎口、南虎口から登る事が出来ます。

 水堀と散策路-4/4に続く。
 

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カズサン

本郭内部と高土塁-2/4 (2024/11/09 訪問)

 虎口の続きです。

 南虎口から入り北西に大きな欅が夕陽で紅葉が輝いて居る、本郭内部規模は東西約50~60m、南北約60~70m程でしょうか?、周囲の堀を入れると東西約100m程、南北120m程あるようです。本郭に入り北の高土塁、東の高土塁、西の高土塁を眺めて、北高土塁上より南高土塁・南虎口を望み、東高土塁上より西高土塁を望む。
 本郭内部南東に屋根掛けの井戸が有る「上三川七水・銀名水」と札が掛って居る。
 再度帰り際に南虎口から東、西、北の高土塁を眺め記憶にとどめる。
 
 高土塁の角部分-3/4に続く。

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イオ

とことん津山城(本丸東辺~北端) (2024/09/16 訪問)

(続き)

八番門跡から天守曲輪を出ると、本丸東辺に長大な石垣が見えます。宮川の断崖になっている東辺への備えとして築かれた南北80mにも及ぶ石垣で、石垣上の月見櫓や矢切櫓、太鼓櫓へと続く合坂も設けられています(立入禁止ですが)。石垣南端の石段は上れるようなので行ってみると、太鼓櫓跡の下を通って包櫓跡に行くことができました。いったん表鉄門跡を出て、包櫓跡に東接する十四番門跡から東辺石垣の外側へ。左手には太鼓櫓の石垣が聳え、右手の瓦櫓跡からは眼下の宮川を越えて東方向の眺望が広がっています。東辺石垣を外側から見上げつつ北端まで進むと、石段を下った右手に十二番門跡がありました。

石段を戻り月見櫓の麓を回り込んで十一番門跡から再び本丸に入ると、本丸北端には東側に小天守とも呼ばれた粟積櫓、西側に大戸櫓と長屋櫓が建ち並び、各櫓跡からは北方向の眺望が開けていました。

さて、これで本丸をひとめぐりしたので、搦手側に下りていきます(続く)。
 

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ぎりょう

広大な城柵・官衙遺跡に感動! (2024/11/08 訪問)

横手市・大仙市の二城目は払田柵を訪問しました。この夏から始めた古代城柵・官衙遺跡探訪の7カ所目です。この柵は文献に記載が無く、地名を取り払田柵跡と呼ばれています。ここは外郭の柵木の年輪の年代測定から9世紀初めの創建と考えられており、横手盆地の南に有った第一次雄勝城が北に移転された第二次雄勝城の遺跡とする説が有力のようです。東西1,370m、南北780mという規模は東北の城柵・官衙遺跡では最大級と言われています。
 東北各地に残る古代城柵・官衙遺跡は発掘調査後の埋め戻しや農地化、市街地化により、判りにくいケースが多いのですが、払田柵跡はほぼ全体が整備され、沖積地を外柵で、政庁が建つ丘陵部を外郭で囲む創建当時の広大な姿を判り易く観ることができました。
 外柵南門の前に総合案内所があり、発掘された柵木列や復元模型などを展示、解説動画も観ることができます。

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小城小次郎

攻められる度に落城しているのかも (2024/03/02 訪問)

麓に複数の城郭建築風建物があるがそれは温浴施設と美術館で標高400mを超える山頂付近に残るのが真の岩石城。豊前筑前の国境近くの要衝だけに度重なる戦いに巻き込まれ、その度に落城している不運な城でもある。

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しんちゃん

平清水南城 (2024/11/02 訪問)

平清水城は古市氏に従っていた平清水氏の城です。北城と南城(古城)があり、いずれも居館から発達した造りの城館であったようですが、南城の方はグラウンドの築造などにより形状をあまり留めていないようです。梅本神社の背後から尾根上まで登り、北上して散策、民家に突き当たった所で戻って来ました。北城を守る役割を担っていたのかは不明です。

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