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うさ

高輪大木戸と虎ノ門 (2024/08/25 訪問)

昨日高輪大木戸へ。今朝虎ノ門へ行って来ました。
大木戸は季節のせいか草が生い茂っていて見えない部分がありました。
虎ノ門、駅内の展示が素敵です。夜はライトアップされるみたいで、見てみないなぁと思いました。

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しんちゃん

いざ復興天守へ (2024/02/25 訪問)

和歌山城は天守と本丸御殿が別々になっています。いわゆる天守曲輪というやつで、いずれも本丸石垣の上に築かれていると思うのですが、御殿とは別の曲輪のようになっています。姫路城と同じ連立式天守となっており鉄筋コンクリートにより復興天守として再現されています。城域は最盛期の四分の一くらいになっているようですが、それでも十分な広さを誇ります。さすがは徳川御三家の城です。
「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張り図を見ると天守曲輪・本丸御殿・二の丸御殿・西の丸御殿とされている場所に主要な建造物が築かれていたようです。御殿が三つもありますが、実際はもっと多かったかもしれません。今回の訪問で心残りは南東の岡口門を訪問していないことです。和歌山城唯一の建造物の遺構なので次回への宿題にいたします。

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しんちゃん

お姫平 静岡県藤枝市 富士見平・若王子古墳群 (2021/02/27 訪問)

心臓破りの220段と赤文字で補足のある鬼岩寺の急階段を登るとお姫平に到着です。心臓破りなのに「ふじえだ健康スポット」とはこれいかに‥ムリをせず進みます。お姫平の先に若王子古墳群があり、富士見平の名がついています。
なんとなく砦の様な雰囲気があり、周囲の眺望は良好です。曇っていますが富士山も見えました。ありがたや‥
永享4年(1432)室町幕府六代将軍・足利義教が敵対する鎌倉公方足利持氏の様子を探るために富士山見物という名目で駿河にやってきたようです。9月10日に京都を出発し、17日に鬼岩寺に宿泊したそうです。伝説では義教がここから富士山を眺めたので富士見平と名がついたとのこと。義教の姫も同行しており、それが「お姫平」の名の由来になっているようです。
義教は「万人恐怖」とも称される強権的な政治を行い「嘉吉の乱」で赤松満祐に殺害されています。評判の良くない人物ですが恐怖政治については諸説あるようです。

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しんちゃん

瀬戸谷城 静岡県藤枝市 (2024/08/25 訪問)

瀬戸谷城は東城と西城があり、今回の投稿は東城の方です。静岡古城研究会の「静岡県の城跡」には滝沢東城と記載が有るようですね。
道らしい道はなく、緩い斜面をジグザグ登っていきます。瀬戸山の城山と呼ばれる標高380.5mの頂部に築かれ、土塁や堀など戦国期に見られるような遺構は一切ありません。
扁平地にしても微細な傾斜が残っているようです。ネイティブな構造から南北朝時代に今川の花倉城に対して、西の城と合わせて南朝方が築いた砦のようなものと考えられています。ネットで調べてみると山頂部東端に小堀切と土橋がかかっているようです。

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朝田 辰兵衛

城下に見どころもありました👀 (2024/06/21 訪問)

JR徳山駅から徒歩で攻城しました。途中,徳山小学校は桜馬場跡で,藩校があった石碑も見つけました。それから,「徳山七士碑」を発見。禁門の変後の派閥争いの犠牲となった志士をたたえていました。徳山城にだいぶ近づいたところに鐘楼跡がありました。現在は,新堀自治会館となっています。
徳山城そのものについては,トクさんの投稿の直後なので割愛させていただきます。興味のある方はそちらをご覧ください。

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姫山神社 (2024/08/24 訪問)

 大原上野守宗隆の居城で、天正年間に荒木村重に滅ぼされたと伝わっています。本丸と二の丸の双郭を主とした縄張りで、2つの郭の間には堀切があります。大手口方面には枡形が残っています。雑草が生えていて少しわかりづらいのですが、概ね形は確認できました。本丸跡に姫宮(姫山)神社があり、土塁を確認することができます。

 JR新三田駅より徒歩15分くらいで行くことができます。

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三田小学校 (2024/08/24 訪問)

 三田市立三田小学校(本丸)および兵庫県立有馬高等学校(二の丸)の敷地が主な城域とされています。三田小学校前に石碑があります。三田小学校と有馬高校の間にある道沿いの濠は本丸館と二の丸の境の堀であったと説明板にありました。室町時代に築かれた車瀬城が前身といわれています。江戸時代は志摩から転封された水軍で有名な九鬼氏が治めていました。旧九鬼家住宅資料館の前には「山の九鬼 海の九鬼」の幟がありました。

 三田駅から徒歩約15分で石碑のある三田小学校へ行くことができます。

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茶臼山緑地 (2024/08/24 訪問)

一蓮坊祐之の居城として知られています。1579年羽柴秀吉が三木城を攻めた際に、この城を仙石秀久に攻めさせると一蓮坊は家臣の助命と引き換えに開城して自決したと説明板に書いてありました。
茶臼山緑地として整備されています。本丸と南丸の標識があり、空堀や土塁を観ることができます。

新神戸駅からバスに乗り上津公園前バス停で下車。バス停から徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

畠山重忠の乱 (2024/05/03 訪問)

畠山重保館は横浜市立戸塚高等学校が推定地とされているようです。周囲より少し高台になっていますね。
畠山重保公は武士の鑑と言われた畠山重忠の息子で、母が北条時政の娘であったため嫡子としての扱いを受けていたようです。元久2年(1205)6月に北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅との確執から謀反の疑いをかけられ、由比ヶ浜で時政の意を受けた三浦義村に討たれてしまいました。
父の重忠も武蔵国の二俣川で北条義時を中心とする鎌倉の討伐軍に討たれ、重忠の次男・重秀らも自害したとのことです。
この一連の出来事は鎌倉の中に暗い影を落とします。重忠は無実であったと義時は主張し、時政は人望を失い後に牧氏事件(源実朝暗殺未遂)を起こして失脚します。畠山討伐に加担した稲毛重成や小沢重政(重成の子)榛谷重朝(重成の弟)らは責任を取らされ三浦吉村に殺害されたとのことです。結果を見ると重忠・重保らを討った北条義時・三浦義村らが勢力を伸ばすという不思議な結果になっています。

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零汰

尼子城:滋賀県犬上郡甲良町尼子 (2024/05/27 訪問)

尼子氏と言えば八つ墓村、横溝正史の八つ墓村、角川映画の八つ墓村。オープニングで丘に立つ8人の尼子の落武者、エンディングで傷だらけで村を見下ろす尼子の落武者。相変わらずその程度知識しかない、それでも城跡の訪問は楽しむ事は出来ます。今考えると戦の後に落武者狩りが有ったのだから物語の様な事は日常茶飯事だったのかもしれない。

その尼子氏の発祥の地らしく、土塁が残る土塁公園と堀跡が殿城池と言う名称になって遺構が残っています。近くには藤堂高虎の出生地にちょとした公園が有り石碑と表示板が設置されています。高虎写真は見当たりませんでした。



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ぴーかる

安城古城 (2024/07/20 訪問)

【安城古城】
<駐車場他>駐車場はなし。北にあるスーパーヤマナカに買い物して駐車するのがベター
<交通手段>JR安城駅から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第4弾1城目。久々の18きっぷ旅です。安城古城は現地説明板(写真添付)の通りで割愛。最寄りJR駅の始発に乗って米原で乗り継ぎ、新快速でそのまま来れました。しかし、安城駅から距離感つかめず徒歩25分、猛暑でなかったら普段は山城で鍛えた足で平気なのだが、なんせ私は暑さに弱い。途中でスポーツ飲料を補給しながらやっと1城目。現地は土塁が残るのみです。土塁向かいにある竹藪は何かの遺構かは分かりませんでした。先達の方の投稿通り安城駅からはレンタサイクルがいいのかも。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

また石ばかりの投稿に。 (2024/02/25 訪問)

和歌山城の駐車場は南側の不明門を通った先の西側にあります。不明門の前にある高石垣は御三家に相応しい見事なものですが、和泉砂岩を積んだもののようです。隅部は補強されているようですが崩れてこないのかな?
一般的にはこのクラスの巨城だと石垣に花崗岩を積んだ城が多いのですが、和歌山城は緑泥片岩や和泉砂岩(一部花崗斑岩を使用)をメインに使っているので雰囲気がやや異なります。この日は小雨が降っていますが、雨の日の緑泥片岩(紀州青石)はとても美しいです。
本丸周辺の石畳にも緑泥片岩を使ってあるようなので、足元にも注目したいです。城址巡りだと雨の日はハズレと思われがちですが、和歌山城に関しては決してそうとも言い切れません。ただ滑らないように足元には注意が必要です。
二回続けて石の話ばかりになってしまいました。

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しんちゃん

舟ヶ谷の城山 静岡県御前崎市・虎松(井伊直政)の恩人・新野左馬助親矩の城 (2021/02/13 訪問)

舟ヶ谷の城山は新野地区の平野部に伸びた牧之原台地の支稜の先端に築かれており東西にも支稜が伸びています。新野地区は谷間となっていて新野川が流れており、舟ヶ谷の城山は要害の地に築かれているといって良いでしょう。
残念ながら本曲輪は採土によって消滅していますが登城道から1号堀切~7号堀切と遺構が連続し、いずれも状態は良いです。大きな曲輪は残っていませんが堀切を楽しみながら北曲輪まで行くことが出来、土の城の教材としても活用できる良い城跡です。
城びとの城は3000も有るのですが、その中に入っていない良い城がゴマンと有ることを考えると、逆に3000しかないのか‥とも思ってしまいます。静岡県も武田・徳川・今川・北条と四大勢力が競い合っていた立地条件なので良い土の城がたくさんあります。

城主の新野左馬助親矩は井伊直虎の母・千賀(祐椿尼)の兄とされ虎松(井伊直政)の命の恩人として知られています(詳細は次回で)。大河ドラマ「おんな城主直虎」では大ジジ様の存在感が大きかったので印象は少し薄いですが覚えておられる方も多いと思います。

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チェブ

咳の神様になった老兵。 (2024/08/12 訪問)

以前 投稿した「馬加城」から「米本城」へ転戦しました。
この日は35度の猛暑日。「馬加城」跡地に建つ例のマンション見学だけでは、もったいないと思い欲をだし「米本城」へ。
『米本城跡解説板』を目指してドライブです。

『城橋』を渡り左折。「米本城」を半周するような感じで進みました。
アパートの近くに説明板があり、後ろに土塁があります。左側に緩く下り坂。郭は畑になっていました。
説明板には『咳の神様』の記載がありました。
茂みに隠れていた老兵が、咳をした為に見つかり殺されてしまったそうです。
老兵のお墓参りをすると、咳がなおるんだとか。

車は舗装された道路に路駐したので、辺りの写真を写して退却しました。

私の勤める会社は年齢層が高く、咳やら咳ばらいやら 賑やかです。私もその内の1人で、飴ちゃんをばらまいてます。
涼しくなったら『咳の神様』にも飴ちゃんを御供えに来よう。と、再登城を体調で思い出せる「米本城」攻めでした。

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にのまる

18きっぷで。 (2024/07/28 訪問)

18きっぷを使って、はじめに以前から行ってみたかった上越線の土合駅へ。日本一のもぐら駅の階段を駆け上ったあと、水上→新前橋を経由して伊勢崎へと足を延ばしました。
土合駅の地下ホームは寒いくらいでしたが伊勢崎駅に降り立つと真夏の日差し☀️
駅のミストシャワーが気もちよかったです。

「武家門通り」「曲輪町」と歴史を感じる文字が目に飛び込んでくる中、同聚院の武家門と旧時報鐘楼を見学しました。
その後、他に見どころはないかと辺りを見まわしていると、
①町田佳聲生家
②相川考古館
③いせさき明治館
④からくり広場
の案内がありました。
いずれも旧時報鐘楼(伊勢崎陣屋跡とされる市立北小学校)から徒歩数分圏内ですが、いちばん興味の湧いた③いせさき明治館に行ってみました。元内科医院の旧館で市指定の景観重要建造物とのこと。とてもすてきな建物でした。
伊勢崎訪問は多分初めてだと思いますが、歴史を大切に継承しながら新しいまちづくりに取り組んでいるのだなという印象をもちました。

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朝田 辰兵衛

陣屋の玄関が,城の本丸跡に遺る… (2024/06/15 訪問)

直江兼続率いる上杉軍によって,山辺城は落城。その後,最上義光の四男・山野辺義忠が山野辺城主に。義忠は山野辺城の完成と城下町整備に力を注ぐ。しかし,元和8(1622)年に最上氏改易となり,山野辺城廃城および破却となりました。
陣屋は,文政6(1823)年に,白河藩・阿部氏が出和国の飛び地を支配するため,旧二の丸内に造成しました。
それから,幾多の変遷を経て,城の本丸跡に遺っています。

ふぅ~,これで城と陣屋がリンクしました…<笑>。

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しんちゃん

志太郡衙。 大和国家が出来上がってくる頃の遺跡。 (2021/02/27 訪問)

志太郡衙は藤枝市にある、およそ1300年前の郡衙の遺跡です。大宝元年(701)に制定された大宝律令によって、国の仕組が固まりつつあり、国の都を「平城京」とし、天皇を中心に中央の貴族によって政治が行われ、全国を「国」「郡」「里(郷)」に分け「国府」「郡衙」「駅家」などの地方官衙が設置され、「国司」「郡司」「里長」がそれぞれを治めるようになりました。
志太郡衙は古代駿河国志太郡の郡衙の遺跡とされ、国の史跡に指定されています。

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零汰

鯉作城:熊本県玉名郡南関町:城と絶景 (2022/02/09 訪問)

何回目かの熊本侵攻の際に行った城跡です。城郭放浪記さんでこの場所を知り近くに侵攻する際は絶対に行くと決めていた城跡でした。

東西に長い主郭部には2つの曲輪、そして腰曲輪が片方の主郭部曲輪に馴染んでいっています。小さいながらもはっきりとした虎口とギリギリ横堀と言えるような箇所。たったそれだけの遺構しかない小さな城跡です。日頃、遺構遺構と考えていてもこんな城跡に来てしまうと探す事を辞めてしまう。神社も程よく馴染んでいますし、適度に残った樹木も雰囲気がいい。何より下界を見下ろす景色がそそられます。

ですがここに来るまでは中々大変、囮林道に騙されたのもありますが歩きで往復7km強、時間は2時間近く掛かりました。それでもこちらに訪問出来て満足出来ました。


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零汰

大阪港へ、タイムアタック滋賀:後編 (2024/05/27 訪問)

前編より

11.八町城(写真1)→12.那須城(写真2・3)→13.肥田城(写真4・5)→14.下之郷城(写真6・7)→15.尼子城(個別投稿)→16.高宮城
→大阪フェリーターミナル→帰宅

以上で延べ23日間、総走行距離約7300km、訪問した城跡約130城(うち石碑や標柱のみや立入禁止など60城程)。絶景ロードを走りながら、景色を楽しみながらの割には想像以上の成果でした。

今後、早いうちに行きたい所として、沖縄本島50城訪問と、壱岐対馬60城侵攻は済ませておきたいかなと。きっとこの二つの地方は北海道と同じく本土とは雰囲気の違う城跡が待っていると楽しみにしています。それにそんなに距離も走らなくて良さそうなので現地でスーパーカブでもレンタルして絶景見ながらトコトコ廻って行けたらいいかもしれない。

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たか

勝頼のことを知ることができた (2024/08/18 訪問)

諏訪御料人…初めて知りました。
諏訪頼重の娘で信玄の側室、そして勝頼の母。
信玄が滅ぼした諏訪家の娘が後の武田勝頼だとは。
説明文には諏訪氏の通字「頼」を使っているので、信玄は諏訪家を継がせようと考えていたと書かれていました。

高島城は浮城と呼ばれるというのに諏訪湖が遠いなあと思っていたら資料を見て納得。
以前はやはりお城のところまで湖があり、その後干拓などで現時点まで湖が下がったとのこと。
地盤が軟弱なため沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んだと説明にあり、非常に過去の築城に対する研究や対策に感心しました。
あと天守台石垣修理の際に借り受けの櫓を作って梃子の原理で持ち上げたとなっていました。
やはり重機の無い時代に工期短縮などを考えたところに感心してしまいます。

みなさんのお城に対する気持ちがとてもよく伝わりました。
最後に注意ですが櫓内にあるスタンプですがわたしが押したときインクが大量でベチャベチャでした。
わたしは試し押し用の紙を持参しているので良かったのですが備え付けがありませんので用意していった方が良いです。
ちなみにその日わたしの前の方かもしれませんがそのインクが台についていて危うくスタンプ帳が汚れるところでした。
気を付けて確認しながら押印されることをお勧めします。

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