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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:野間山城 (2025/05/26 訪問)

小谷城から車で30分くらいで、橋付近駐車空スペース(35.012913、134.896955)に駐車する予定でしたが、塞がれて駐車できませんでした。
しかたないので、登り口/案内板付近(35.012769、134.897707)の空スペースに駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1362年(正平17年・貞治元年)在田重友によって築かれたとされています。
在田氏は赤松範資の次男朝範を祖とする赤松一族とされます。
享禄年間(1528年~1532年)在田村長のとき、浦上村宗によって攻められ落城しましたが、村宗は1531年(享禄4年)に大坂の天王寺で討死したため、在田氏が野間城を回復しました。
宗晴の代の1575年(天正3年)には但馬八木城主・別所重棟によって攻められ落城しました。

要所要所にある石垣が実にすばらしいですが、郭間が登り下りがほんとしんどかったです。
また、途中に堀切もありました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=光竜寺山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:小谷城 (2025/05/26 訪問)

山下城からの車の時間は、途中まで中道子山城を目指していた為、不明です。小谷区公民館駐車場(34.941913、134.829007)に着きました。
そこから、遊歩道入口(34.943103、134.830584)に向かいました。


築城年代は定かではないようですが、赤松義則の養子で赤松満祐の義弟にあたる上原民部大輔祐政によって築かれたといわれています。
赤松則繁の善防山城とともに、1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱でで落城したようです。
天文年間(1532年〜1555年)には赤松刑部少輔祐尚が城主でしたが、1542年(天文11年)尼子氏との戦いで討死したようです。
戦国時代には宇野氏が居城していた伝わっているようです。

小ぶりながら、横堀、堀切、竪堀が重なり合ってとても見応えがあります。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=野間山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:山下城 (2025/05/26 訪問)

志方城から車で25分くらいで、常行院駐車場(34.903303、134.800111)に着きました。
計画では、志方城から中道子山城➡山下城の順番で攻城する予定でしたが、間違って山下城のGPS座標を入れてしまい、こちらを先に攻城しました。(着いてからきづきました)
常行院駐車場➡案内板前(34.903187、134.800619)を通り、入口付近(34.901716、134.800266)に向かいました。


築城年代は定かではないようですが、城主は浦上久松でした。
浦上氏は主家・赤松氏をしのぐほどの権力を誇ったといわれており、戦国時代には三木城の別所氏に味方しました。
1566年(永禄9年)頃に別所氏の兵站拠点基地として改修されましたが、三木合戦の際に織田氏の軍勢に攻撃され落城したそうです。

現在は整備されて遊歩道が設置されており、本丸跡には東屋が設置されています。
登城口の大堀切はすごかった。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=小谷城へ向かいました。
攻城の順番を間違えたので、この後、中道子山城に向かいましたが、手前の道で工事関係者に通行止めを知らされました。
遠回りすれば、中道子山城に行けると云われましたが、時間も押していたので攻城を断念しました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:志方城(城びと登録城の攻城=1500城目) (2025/05/26 訪問)

加古川駅でレンタカーを借り、車で20分くらいで観音寺駐車場(35.817728、134.821843)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に櫛橋氏によって築かれたと云われていて、黒田官兵衛の妻・光(てる)が生まれたお城です。
櫛橋氏は藤原氏の末裔で櫛橋伊朝を祖とし代々赤松氏の家臣であったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)に別所氏と結んで羽柴秀吉に対抗しましたが敗れて落城したようです。
落城後の1587年(天正15年)宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために観音寺を建立したそうです。

黒田官兵衛の妻「光(てる)」のふるさとと案内板に書かれていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=山下城へ向かいました。
ちなみに、城びと登録城の攻城=1500城目は志方城でした。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:神吉城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
宝殿駅から徒歩30分くらいで、常楽寺南側駐車場(34.794493、134.829361)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、赤松則村の子孫の赤松範次によって築かれた城で、範次の子である元頼が神吉氏を称すると以後代々、神吉氏の居城となりました。
神吉頼定が城主の1578年(天正6年)に「三木合戦」が起こると、頼定は同じ赤松氏一族の別所氏に味方したため、織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻められ落城しました。

自分は徒歩で攻城しましたが、周辺道路はすごく狭いので、車で攻城する人はとても注意が必要です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=志方城へ向かう前にホテルに戻って朝食を取る為、神吉バス停からバスで加古川駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:加古川城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)から徒歩15分くらいで、称名寺入口付近(34.768278、134.8310973)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に加須屋氏(糟谷)によって築かれたと云われて、播磨守護代である糟屋氏代々の居城でした。
糟谷氏は相模国大住郡糟屋荘発祥で藤原氏の末裔のようで、1184年(寿永3年・元暦元年)源頼朝に属して平氏討伐に功を挙げた有李が、播磨国印東郡南条郷を得たことに始まるそうです。
加古川城は播磨守護代である糟屋氏代々の居城で、「賤ヶ岳七本槍」に数えられた糟谷武則の居城でした
1577年(天正5年)には羽柴秀吉を中心に毛利氏討伐の軍議がこの城で開かれました(加古川評定)。
このとき三木城主・別所長治の代理で出席した別所吉親が秀吉と不仲となり、三木合戦の原因となったそうです。
この三木城合戦で糟谷氏は別所方と羽柴方に別れて、羽柴方についた糟谷武則は後の賤ヶ岳合戦で七本槍の一人と数えられ、加古川城を居城として35,000石を領したが、関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となりまし。

現在城址は称名寺の境内となっているようですが、朝早い為、山門は閉まってました。。
山門の屋根に高砂神社でも見た屋根に鬼がいました。それと山門前の砂地になぜ瓦の破片があるか謎です?
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=神吉城に行く為、加古川駅から電車で宝殿駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市) (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
ホテルから徒歩25分くらいで、泊神社入口付近(34.763807、134.823941)に着きました。

1339年(暦応2年)大井三樹伊予守宰によって築かれたと云われ、 1339年(暦応2年)雁南荘地頭職を得て築き居城としたのがはじまりとされるようです。
その後、播磨守護・赤松氏に従って伊予守の孫である木村源五郎が城主の1459年(長禄3年)山名宗全によって攻められ落城しました。

石弾城は泊神社一帯に築かれていました。遺構はないようですが、境内に標柱と案内板が設置されています。
なお、泊神社は宮本武蔵の養子伊織が小倉藩家老となった後に、武蔵の供養の意を込み寄進して全社殿一式を再建し、宮本家の氏神となったそうです。
神社は能舞台もある立派な神社となってます。
後で写真を確認したらピンボケ写真ばかりで、ほとんど使い物になりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=加古川城に徒歩で向かいました。

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天守無しがアツい

柴田神社(北庄城) (2025/06/23 訪問)

柴田神社を参拝
ここには福井城の前身である北庄城があった🏯

賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗れた勝家は…ここ北庄城に逃げ帰るも…秀吉軍は足羽山に陣を敷き…やがてこの辺りも包囲される

勝家は妻お市(信長の妹で浅井長政亡き後は未亡人だった)に娘三人を連れて逃げるよう告げるも…ここで運命を共にしたお市(秀吉の慰み物になるのを嫌がった説もある)

その際、九層あり…安土城よりも大規模と評されていた城には火が放たれて…全壊🏯🔥

現在ここには亡くなった者たちの魂を弔う神社があるのみ⛩️(石垣も僅かに)

資料館に遺留品こそ展示されてるものの…城の全容は謎に包まれてると言えよう

(参考サイト)
https://www.fuku-e.com/spot/detail_1057.html

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しんちゃん

堀江城の支城だと思われる。 (2025/04/12 訪問)

上梅沢館は堀江城を拠点とする土肥氏によって築かれたとされ、後に佐々成政と戦った土肥政繁(弓庄城)とは系譜が分かれるようです。
越中土肥氏は土肥実平を祖とし鎌倉時代に地頭として堀江荘に入り、在地領主化を遂げ、勢力を伸ばしたとされています。
戦国期に土肥氏は堀江城の他に稲村・郷柿沢・弓庄・茗荷谷山などの城を築き、弓庄城の土肥氏は庶流に当たるようです。本城の堀江城は永禄12年(1569)ごろに上杉謙信に攻められ落城しており、上梅沢館も同時期に落城したのでしょうか。

光明寺一帯が館跡とされ、土塁が残っています。周囲は田畑で立山連峰が良く見えます。

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you

第26回日本城郭検定に向けて

試験まで1週間を切りましたが、


対策が間に合わず焦っています。
1年前に3級&2級を併願し、無事合格して燃え尽きていたのですが、
3ヶ月ほど前から急ピッチで準1級の勉強を進めています。
はっきり言って自信ないですし、また今回のテーマが「普請・作事」と
これまであまり触れてこなかった苦手な分野ですと。
今回は対策講座も受講して、気合は入っているけど手ごたえもなく。
次のチャンスが約半年後って考えるだけで気が滅入りますね、、

さて本題。これまで城郭検定のほかにいくつか検定に挑戦しましたが、
私は試験対策として、模擬試験や予想問題を自分で作ることをよくやっています。
作問者の立場に立つとかいう尤もらしい理由も無くはないですけど、単純に楽しいんですよね。

この試験に関して言えば、基本的に本やネット記事で新しく得た知識をそのまま問題にします。
写真問題は、実際に足を運んで現地で撮影したものをピックアップして問題に落とし込んでいます。
本番宛らの問題を作るとなると100個ネタが要るので、時間がかかり効率は悪いかもしれませんが、
作った後で過去問を見てみると、同じような問題が違った表現で実際に出題されていたりもするので
予想を的中できた時に似た喜びがあるのと、本や記事を読んで着実に力がついていることを実感できます。

去年も試験勉強中に時間をかけて3~2級レベルの模擬問題を100問作りました。
(併願でしたが、さすがに3級と2級別々で作る時間はなかったです、、)
主観ですが、本番よりも難易度を上げているので2級よりも難しい問題がいくつもあります^ ^

今回は言わずもがな準1級相当の問題を練っていますが、
この投稿を書いている時点で半分しかできておらず、ほぼ確定で当日までに間に合いません、、
残りの時間は本を読み返したり、寝ながらでも過去問解けるように仕上げるくらいしかありませんね。
過去問からの出題が多いことを只管に願っていますが、直近のものがないのでなかなか苦しい( ̄ー ̄)
現地に足を運んで(ry とかしている時間もなく、ここ最近は行く先々で展示を観ているときも
側にある説明文に目をやってしまうと、ここが試験で問われそうだなぁ
とか考えてしまって、ゆっくり楽しめていません。

この投稿を読まれている方の中には、難なく1級に合格された方が多くいらっしゃると思います。
準1級をもって漸く1級に挑戦できますが、今回受かったら私は今度こそ燃え尽き、灰燼に帰すでしょう。

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ぴーかる

黒石城 (2025/04/28 訪問)

【黒石城】
<駐車場他>城跡内に駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目6城目。黒石城は陣屋跡で1656年に津軽藩から分知(交代寄合旗本5千石)した津軽信英によって築かれました。1809年に加増、1万石となり大名、黒石藩として立藩します。明治維新で弘前県に合併吸収されました。
 陣屋跡の主要部は現在黒石市のセンターになっていて、城跡碑のある御幸公園は馬場跡だそうです。南側にある浅瀬石川の河岸段丘に築かれていたようで、南側に対して少し比高があります。馬場跡の南側に堀と堡塁が残り、堀跡に桜が植えられ満開でした。

<満足度>◆◇◇

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天守無しがアツい

福井城の水堀 (2025/06/23 訪問)

城の水堀を何枚か撮影

県庁の入口から本丸に入る

100名城スタンプは県庁1階

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しんちゃん

「doda(デューダ)」 (2025/04/12 訪問)

郷柿沢館は室町時代に中新川一帯を領した土肥氏の一族の館であったとされています。土肥政繁が佐々成政に敗れた際に館の主・弥三五朗は出陣することなく帰農しました。石山合戦の後、松倉城主の子孫・椎名兵部を招いて西養寺を開山し、今に至るようです。
館跡は西養寺となり、周囲に水堀や土塁が残ります。

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しんちゃん

歯医者の散り際 (2025/04/13 訪問)

「わたしまけましたわ」・・・下から読んでも同じ。いや、予感はしてましたよ。兵力差2700って無理にきまってるじゃん。
1日50万づつ離されるのよ。金森氏びいきの〇〇さんは絶対前田軍だろうな~。

飯久保城は狩野氏の居城とされています。狩野氏は佐々成政に従った神保氏張の家臣だったとされ、天正13年(1585)富山の役で佐々成政が豊臣秀吉に降伏すると飯久保城を退去して行ったようです。飯久保城はその後廃城になったと見られ、狩野道州は上杉家に仕えました。
神社の脇に登り口があり、虎口や堀切を経て主郭に至ります。藪化が進んでいて解りづらいですが主郭背後の大土塁の上に櫓台を備え、この城の遺構の中でも特徴的だと思います。大堀切を経て西側にも郭があり、周辺を散策してから引き返しました。

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朝田 辰兵衛

見どころは主郭の西側…👀 (2025/05/10 訪問)

雨が降ってなければ,もっと魅力的な画像になったかと思います。せっかく来たんだったら,麓の「中世の館唐松城」だけで終わってしまったらもったいないです。主郭の西側が見どころ。滑落注意で。

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にのまる

よかったぁ!! (2025/03/24 訪問)

「新高山城と高山城はセットで。」
という呪縛(?)に勝手に取り憑かれ、しかしそれが決して容易ではないことは想像に難くないため、ずるずると登城を引き延ばしていました。
今回、山陽山陰路のスタンプいただき旅敢行にあたって、高山城をスパッと諦めると俄然ヤル気が出てきました💪

この日の予定は新高山城のみです。
本郷町観光協会の開館時間に合わせて宿を出発しました。

大きな二つの山が向かい合っているのが見えます。左側が新高山城。
沼田川を渡り、新高山小早川城址道を歩きます。在来線の線路を貨物列車が走り、その上に交差する線路を新幹線がゴーッと走り去るのが見えます。
近づくにつれてはっきりと見えてくる新高山城のゴツゴツの岩肌。ロッククライミングするわけではないから……と思いつつも、大丈夫かなぁと少し🤏心配に。

本郷駅から30分くらいの歩きで大手道入口に着きました。
本郷町観光協会・新高山城跡を守る会さんが設置くださった案内板が心強いです。
三原市設置の史跡看板を読んでいると(やっぱり高山城も行かなきゃ……)という気持ちになりましたが、いずれまた機会があると信じて。

登城開始10分ほどで鐘の段に到着。郭も土塁もしっかりと確認できました。続いて番所跡。ここも郭の連なりがよく理解できます。
少し進むと匡真寺跡。うわっ!ステキ!!と思わず声をあげそうになる庭園の面影とたくさんの瓦片。戦いの場ではないお城の空間には人としての温かい営みが感じられます。

登城開始30分ほどで中の丸に到着しました。
本丸、釣井の段、東の丸、ライゲンガ丸とじっくり見てまわります。本丸の内枡形の礎石に惹かれました。6つの井戸を確認しましたが水をたっぷり湛えていてびっくりでした。

そして本命の詰の丸へ。
新幹線来〜い!
来たぁ〜🚄!!!!
これが見たくて登ってきたと言っても過言ではない(^^)
よく見えるように目の前の木を伐採してくださっているだろうことも、スピーカーの解説も嬉しかったです。

満足したところで西の丸・北の丸(三の丸)へ向かいます。先端の北の丸は狭くてすれすれの枯葉道を慎重に上がりました。そして振り返ると美しい段々が。眼福です。

そろそろ下ります。
ここまでどなたにもお会いしませんでしたが、下り道で三人の方にお会いしました。
一人目は毎日のように登っていらっしゃるという地元の方。
二人目は全国の山城に登っていると仰る女性の方。私より二回りくらい上かも⁈と思いましたが「がんばらなくっちゃ!」と歩いていらっしゃるお姿が逞しくもありかわいらしくもあり、とってもステキ。私も彼女のようになりたいなぁと思いました。
三人目の方とは麓でお会いしました。これから登ると仰っていたのでエールを送りました!

下山後、城友さんご推奨の駅前のラーメン屋さん「源来軒」を覗いてみましたが満員で入れずでした。このあと在来線のみで鳥取に向かうのに、乗り換え駅で食料調達できる保証がなかったので少し離れたコンビニまで走りました💨
思い出に残る一日が過ごせ感謝でした。

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天守無しがアツい

滋賀県護国神社 (2025/06/22 訪問)

(1度目の参拝)
彦根城の近くに神社があります。滋賀県護国神社…ここは一言で表すならば…滋賀県版靖国神社です⛩️

顕彰館(1枚目)に入ると、まず全国にある護国神社がパネルとして紹介されてました。神奈川を除く全都道府県に必ず一つはあることをそこで知った私。東京には護国神社の代わりに靖国神社があり、そこが全国の護国神社の総本山と言えるのでしょう

その奥に進むと戦没者の遺影がズラリ…没年月日を見ると、その多くは太平洋戦争の期間でした。ここに英霊として祀られてる方々は滋賀県民…滋賀県だけでもこんなに多くの方が出征しそして戦死なされたのです

一人一人に目を通すと、20-30代で亡くなられた方ばかり…当時の徴兵対象は20-45歳あたりまでの男性と思われるので、亡くなられた方もどうしても若い方々ばかりになってしまうわけです💀💀💀

ベビーフェイスな方…イケメンな方…年齢不詳な方…着物を着てる方(昭和に入り若年層の多くは洋服を着る傾向あり、遺影の多くは学ランなどの洋装でしたが、それでも着物を着用される方は多少いたということでしょう。今のように全員洋服にまではなってないと思われる)…名前が◯◯右衛門と江戸時代風の方(戦前は親がそう名づけること、まだあったのかな?今では考えられないけど😅)

女性の遺影も1-2%の割合でしたがいました。この場合は戦闘によるものではなく、戦病死でしょう🏥 日露戦争のも少し混ざっており、死亡した場所が奉天という方がいました。この場合はロシア軍の機関銃に撃たれた…のが目に浮かびます⚠️

この神社には彦根に滞在した2日間で両日とも参拝。顕彰館を見学したのは2日目で、初日は本堂で参拝ならびに御朱印(2枚目)を授与しました

一期一会を含め二種類あり、「この神社…いや…彦根自体、人生で訪れるのはこの一回きりになるかも…いや、なりそう…」「ならばそれを表す一期一会で…」と考え、それにしました

境内の一角にシベリア抑留犠牲者の慰霊碑がありました。ソ連の国際法無視の行為により日本軍の捕虜がシベリアに連行ならびに強制労働され数万人が亡くなったそうですが、その中に滋賀県出身もいたので、この慰霊碑が設けられた…そう言えば顕彰館の遺影にそれらしき没年月日の方もいたな

(2度目の参拝)
ここで御朱印をいただいてから1年半ほど後…護国神社用の御朱印帳を入手した関係で…「その御朱印帳にもいただきたい」と考えた私

北陸に用があり、その際東海道新幹線を使って滋賀県に寄れるという地理的関係で…再び彦根市へ…そして滋賀県護国神社へ⛩️

鳥居を潜ったすぐ側に…「英霊を敬い英霊に感謝しましょう」の看板(3枚目)があったので…それを一通り目を通してから撮影

「戦いに敗れても国は滅びず…今日の(日本の)平和と繁栄の礎となりました」…なるほどね。日米開戦は無謀と言えばそうだったけど…約4年も戦線を維持できたのは…英霊の方々による奮戦のおかげというのはあるんだろうな🤔

あとは…原爆投下およびソ連の日ソ中立条約破棄による侵攻という状況で…本土決戦まではせずに無条件降伏を選択した…上層部の英断もあるのかね…もしあの時徹底抗戦を選んでいたら…少なくとももっと英霊が増える結果になっていたのは間違いないから👻

今回(護国神社用の御朱印帳に)いただいた御朱印(4枚目)…前回(令和五年)は「一期一会」バージョンを選んだわけですが、区別化を図るために…今回は「奉拝」に

「戦争で幾百万という兵士が戦死した…兵士には父や母がいて…妻や子がいた…」という碑文の前にある…倒れてるおとうさん像(5枚目)

太平洋戦争当時…幼くして父を戦地で失った子供…または生まれる前に父が亡くなってしまった…というケースは…多かれ少なかれあったのでしょうね…だからそのような惨事を2度と生み出さない為に…平和を願う為に…この像が造られた

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イオ

堀跡をたどる (2025/03/08 訪問)

豊臣秀吉が京での拠点として平安京大内裏故地に築いた城館で、関白の城として豊臣秀次に引き継がれましたが、秀次切腹事件を受けて破却されました。

本丸と南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸の周囲を堀で囲んだ平城で、各曲輪を削平して堀を埋め立てるなど徹底的に破却されたため、地表面に遺構はほぼ見られません。そのため6年前は西堀跡と東堀跡の2つの石碑を見ただけで満足してしまいましたが、遺構はなくても痕跡はあちこちに見られるようですので、今回は聚楽第の堀跡をたどってみました。

ハローワーク西陣北側の聚楽第址石碑が本丸東堀跡、正親小学校北側の聚楽第址石碑が本丸西堀跡にあたり、辰巳公園北側には発掘調査で確認された本丸南堀石垣の説明パネルが設けられています(読みづらくなっていますが)。本丸の南東隅部には聚楽第の井戸と伝わる梅雨の井がありますが、堀の推定ラインによれば堀の中になるため後世のものとも考えられるようです。梅雨の井から南に約150mの松永稲荷社には聚楽城鵲橋乃旧蹟の石碑が立てられています。鵲橋は南二ノ丸の堀に架けられていた橋でしょうか。松永稲荷社から西南西に約250mの松林寺は山門から境内は一段低くなっていて、南外堀跡とされます(石碑もあります)。境内の南側はまた一段高くなっていて、なるほど堀跡とされるのも頷けました。また、北ノ丸北堀跡のマンション駐車場奥にも高低差があり、聚楽第の遺構とされる石垣が見られました。

この日は阪急レンタサイクルでの登城ですが、自転車でも堀跡をたどるのは思いのほか時間がかかり、聚楽第の巨大さを身をもって体感しました。さて、堀跡に続いて…というか並行してですが、周辺の武家地屋敷跡をめぐりました(続く)。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:姫路城 (2025/05/25 訪問)

姫路城は6年半ぶりの5回目の攻城となります。
①出張中の延長(記録なし) ②2018/6/16 ③2018/12/3 ④2018/12/4
今回はHimeji大手前通りイルミネーション(大阪・関西万博期間中 4/13~10/13)を見学する為にやってきました。

姫路城の彩雲ライトアップ&大手前通りイルミネーション、綺麗でした。
夕食は姫路駅の播州うまいもん処で姫路おでんを食しました。
攻城時間は60分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、姫路駅から電車で加古川駅に向かいました。
歩行歩数=46579歩、歩行距離=32.6Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:高砂城 (2025/05/25 訪問)

高砂駅から徒歩20分弱で、高砂神社鳥居前(34.743223、134.803384)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、『高砂市史・高砂町市史』に梶原氏が治める城として1538年(天文7年)に登場しているようです。
古くは1184年(寿永3年)に、梶原景時が播磨国の守護として命じられたのがきっかけのようです。
1578年(天正6年)の羽柴秀吉による三木城攻めの頃に高砂城が「海城」として改めて登場したようです。
三木城主/別所長治の有力武将であった高砂城主/梶原平三郎衛景行は、羽柴秀吉の三木城攻めの際、毛利氏の援軍と連携して後詰めの役を果たしましたが、秀吉の軍勢に攻められ落城しました。
1600年(慶長5年)池田輝政が、姫路城に入封すると家臣中村主殿助が高砂城に入城し、近世高砂城が築きましたが、1615年(元和元年)元和の一国一城令によって破却されました。

高砂神社閉まってました。後で調べたら、16:00には閉まるようです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=姫路城を目指す為、高砂駅から電車で山陽姫路駅へ向かいました。

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