本丸西面の【30メートルの高石垣】と足元に口を開ける【巨大空堀】のセットに平伏する城。
大坂の陣直前、藤堂高虎が豊臣軍を迎え撃つために築いた迎撃要塞です。打込ハギで垂直に立ち上がる石垣は、見上げるだけで足がすくむ圧倒的な土木量。石垣のラインに施された「屏風折れ(横矢がかり)」の折れも見事で、上から狙撃されるキルゾーンが今なお完璧に残存しています。西側だけに特化された狂気的な高低差に、戦国のリアルな緊張感がビンビンに伝わります!
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2026/05/16 00:40
30mの絶壁!高虎が放つ西向きの殺意 (2022/04/10 訪問)
本丸西面の【30メートルの高石垣】と足元に口を開ける【巨大空堀】のセットに平伏する城。
大坂の陣直前、藤堂高虎が豊臣軍を迎え撃つために築いた迎撃要塞です。打込ハギで垂直に立ち上がる石垣は、見上げるだけで足がすくむ圧倒的な土木量。石垣のラインに施された「屏風折れ(横矢がかり)」の折れも見事で、上から狙撃されるキルゾーンが今なお完璧に残存しています。西側だけに特化された狂気的な高低差に、戦国のリアルな緊張感がビンビンに伝わります!
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2026/05/04 18:21
2026/03/01 06:23
未完の城 (2026/01/10 訪問)
伊賀上野城築城当初は、筒井定次公が大阪城を守るための城を築きましたが、関ケ原の合戦後は藤堂高虎公が入城し、大阪包囲網の一つの城として改修しています。ですが未完の状態で大阪の陣を迎え豊臣氏は滅亡。一国一城令後も幕府より伊賀国として城の存続は認められたが、豊臣氏の脅威がなくなった後では、堅固な構えの城は不要となってしまい、江戸期の本丸には建物は一切建てられなかった。
藤堂高虎公は津城を本城とし、伊賀上野城を支城として藤堂氏の一族が城代として明治時代まで支配することになります。城代屋敷は筒井古城の敷地を利用して石垣を築き、御殿建築の屋敷が建てられていたとの事です。
伊賀上野城には5年ぶりの訪問で、大和郡山城、豊田山城攻略後に立ち寄りました。本丸西面の高石垣を南から北への画像を撮りたく参上したしだいです。水堀に映る高石垣を撮っていなかったので機会を窺っていました。
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2026/02/08 04:29
伊賀文化産業城 (2026/02/07 訪問)
近くへ来たので寄ってきました。3年ぶりの登城です。
現在の天守閣は、伊賀地域の文化と産業の振興拠点として川崎克代議士が私財を投じて昭和10年に完成させた木造の天守です。「伊賀文化産業城」が正式名です。三層三階の大天守に渡り廊下でつながった小天守があり連結式の天守が建っていますが、藤堂氏の時代は五層五階で南側に付櫓が取り付く複合式の天守でした。模擬天守はあまり好きではないのですが、このエピソードは好きで木造で建てられていることにも好感が持てます。今では伊賀上野城と伊賀市のシンボル的存在となっています。自分としては、この城の魅力は高石垣だと思っています。高石垣の上から下を見るとその高さが実感できますが、とても怖かった。高所恐怖症なのはわかっていますが、毎回見てしまいます。水堀の周りの道を歩き下から石垣を見るのが好きですが、もう少し周囲の木を少なくしていただけるとありがたいです。
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筒井定次が築いた三重の天守を持つ城を、築城名手・藤堂高虎が大坂城攻めの拠点として大幅に改修。本丸の変更や曲輪の拡大を行い、高石垣も築いて防御性を高めたが、豊臣氏滅亡と共に普請を中止し未完成となった。現在の模擬天守は昭和10年(1935)に個人の私財で建てられたもの。
| 城地種類 | 梯郭式平山城 |
|---|---|
| 築城年代 | 天正13年(1585) |
| 築城者 | 筒井定次 |
| 主要城主 | 筒井氏、藤堂氏、服部氏、仁木氏、脇坂氏 |
| 文化財史跡区分 | 国史跡(上野城跡) |
| 近年の主な復元・整備 | 筒井定次、藤堂高虎 |
| 天守の現況・形態 | 層塔型?[5重/1612年築(未完)/倒壊(台風)]、層塔型[3重3階/1935年築/木造模擬] |
| 主な関連施設 | 模擬天守、石碑、説明板 |
| 主な遺構 | 曲輪、石垣、横堀(水堀)、武具蔵 |
| 住所 | 三重県伊賀市上野丸之内 |
|---|---|
| 問い合わせ先 | 伊賀市役所 |
| 問い合わせ先電話番号 | 0595-22-9611 |