やまざきじょう

山崎城

京都府乙訓郡

別名 : 鳥取尾山城、天王山城、天王山宝寺城、宝寺城、山崎宝寺城、宝積寺城
旧国名 : 山城

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①	天王山山頂(山崎城本丸)
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トク

18【秀吉の天下分け目をたどる】山崎の戦い(秀長はここで何をしていた?) (2026/06/13 訪問)

天下分け目「山崎の戦い」を過去「明智光秀」の目線で追いましたが、今回は「羽柴秀長」目線で追ってみようと思い、再び天王山へ登りました。

新大阪駅の東横イン新幹線口東に宿泊した後、JR京都線快速(高槻から各停)に乗り山崎で下車しました(写真⑩)。この日は気温32度、山崎歴史資料館をざっと見て、夏恒例スマホのカメラが暑さでまた起動しなくなりそうだったので、駅前のコンビニで氷・ポカリスエット2本・汗拭きタオル2枚を買い、リュックに詰めてスマホを冷やしながら、万全の熱中症対策とカメラ対策で、いざ登山を開始します。

最初の「宝積寺」までの15分は舗装された急坂が続きます。宝積寺は秀吉が陣を張った場所とされています。土曜だったせいか、山崎の戦いの劇が催され、大勢の観光客が見物していました(写真⑤)。そこから自然遊歩道に入り、そして山頂にある「山崎城」へ向かいます。暑かったので、ゆっくり休み休みで登り、駅から約1時間30分かけて山頂へ到着しました。山崎城は、山崎の戦いが終わった翌月に、秀吉により山崎の地を統治するため築かれた城です。しかし大坂城が完成すると廃城になったようです。天守台や石垣がわずかに残っていました(写真①②③④)。しかし山頂からの眺望はわずかで、東大阪市あたりが少し見えただけでした。

でも途中の「旗立松展望台」からは、山崎合戦の地が一望できます(写真⑥⑦)。また絵巻による解説の大壁画もありました。これを眺めていると、またもやふと疑問が🤔?

絵巻では、合戦の様子を秀吉が天王山から眺めている姿が描かれています(写真⑨の赤矢印の部分です)。ドラマでもたぶん・・・そう描かれるだろうと思います。しかし当時の記録には、合戦が始まった頃に秀吉はまだ到着していなく、12km後方の富田に信孝とともにいた、そして合戦が終わる頃やっと後方4kmまでたどり着いたとあります。つまり合戦には、どうも間に合っていなかったようです。また布陣図(写真⑧)を見ると、秀長は天王山のこの旗立松から左の斜面に、官兵衛はそこからさらに左の斜面へ布陣しています。そして眼下の西国街道と淀川沿いの平地で先陣を切って戦っていたのは、中川清秀・高山右近・池田恒興です。 何か気づきませんか? そうです! 彼らは荒木村重の与力だった、村重を裏切って寝返った者たちです😯!

という事は・・・🤔? 「ひょうたんの旗印」をここ旗立松に立てたのは、もしかして秀長だったのではないでしょうか?(あくまで私の推測ですが・・)。まだ到着していない秀吉を、すでに到着しておまえたち三人をここから監視しているぞ! というふうに見せかけ、この三人が本当に秀吉に付く気があるのか、また裏切りはしないか、ここからまさかの時に備え、その時は自分が駆け下りようと、状況を見極めていたのではないでしょうか。結局この三人は、ひょうたんの旗印を見て必死になって戦い、ほぼこの三人の軍だけで明智軍を破ります。そして大勢が決まったのを見て、官兵衛は山を下り側面を攻め、勝龍寺城に追い討ちをかけています。光秀にとってもこの三人の寝返りは、誤算だったのかもしれません。逆に秀吉にとっては、天下への道が開けた、うれしい誤算だったのかもしれませんね。

でもドラマの次回予告編を見ると、これらの私の推測とは異なり、秀長と官兵衛は光秀を生け捕りにしようと、天王山に陣を張っていたとされているようです。そんな余裕があったとは、私にはとても思えないのですが・・🤔。むしろ逆で、官兵衛は本気で光秀の首を取ろうと、山を駆け下り勝龍寺城まで追って行ったのではないでしょうか?(本能寺での失敗を自分たちはしないために)。さあ皆さんの意見はいかに?(ところで与一郎はどうなるの😱?)

長くなりすいませんでした。
次は、秀長の(四国平定)を追って、長曾我部元親との決戦「一宮城」へ向かいます。
 

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朝田 辰兵衛

上洛最初は天王山から…🏔 (2026/03/20 訪問)

四条烏丸のホテルをリザーブでき,伊丹空港まで飛んで向かったので,珍しくもJR電車を全く使わない遠征となりました。空港からは大阪モノレールで南茨木駅まで行き,阪急京都線に乗り換えを選択。彼岸の3連休なので,JR京都駅はさぞかし混んでいただろうと推察します。
山崎城へは,阪急京都線の大山崎駅から徒歩で向かいました。登城口までの近道はしっかり案内が出ていたので,全然問題ありませんでした。
しかし,あふれんばかりの登山者…。とくに山頂部は人だかりで,写り込みを避けるのに苦労しました。曲輪の全景はムリで…。しかし,要所は押さえて撮影できたと思います。

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イオ

【赤色立体地図かるた】 (2022/10/02 訪問)

山崎城 京への道を 阻む城
(やまざきじょう きょうへのみちを はばむしろ)

西から京に攻め上ろうとすれば、桂川・宇治川・木津川が合流する天王山と男山の間の湿地帯を越えなければならず、山崎城はその要衝を押さえる重要な拠点だったと考えると、天下分け目の合戦の舞台とされるのも頷けます。山崎の戦いの主戦場は東麓だったようですけどね。

…ということで、差替分から2城の投稿で計13城。今回は絵札がない上に読み札も半分なので、ひとつでも採用されれば御の字ですが…。ともあれ、これでかるた投稿も一段落。この間にまた溜まってしまった城めぐりの投稿に戻ります。
 

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「天下取ったどー! 叫んでみたよ 山崎城」
(てんかとったどー! さけんでみたよ やまざきじょう)

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城郭情報

分類・構造 山城
天守構造 型式不明[階層不明/1583年頃築?/破却]
築城主 林直弘
築城年 延元3年〔南朝〕/暦応元年〔北朝〕(1338)以前
主な改修者 細川晴元、豊臣秀吉
主な城主 林氏、薬師寺氏、細川氏、豊臣氏、新庄氏
廃城年 天正12年(1584)
遺構 曲輪、土塁、櫓台、天守台、横堀(空堀)、竪堀、井戸
再建造物 石碑、説明板
住所 京都府乙訓郡大山崎町大山崎古城他
問い合わせ先 大山崎町経済環境課経済観光係
問い合わせ先電話番号 075-956-2101