天下分け目「山崎の戦い」を過去「明智光秀」の目線で追いましたが、今回は「羽柴秀長」目線で追ってみようと思い、再び天王山へ登りました。
新大阪駅の東横イン新幹線口東に宿泊した後、JR京都線快速(高槻から各停)に乗り山崎で下車しました(写真⑩)。この日は気温32度、山崎歴史資料館をざっと見て、夏恒例スマホのカメラが暑さでまた起動しなくなりそうだったので、駅前のコンビニで氷・ポカリスエット2本・汗拭きタオル2枚を買い、リュックに詰めてスマホを冷やしながら、万全の熱中症対策とカメラ対策で、いざ登山を開始します。
最初の「宝積寺」までの15分は舗装された急坂が続きます。宝積寺は秀吉が陣を張った場所とされています。土曜だったせいか、山崎の戦いの劇が催され、大勢の観光客が見物していました(写真⑤)。そこから自然遊歩道に入り、そして山頂にある「山崎城」へ向かいます。暑かったので、ゆっくり休み休みで登り、駅から約1時間30分かけて山頂へ到着しました。山崎城は、山崎の戦いが終わった翌月に、秀吉により山崎の地を統治するため築かれた城です。しかし大坂城が完成すると廃城になったようです。天守台や石垣がわずかに残っていました(写真①②③④)。しかし山頂からの眺望はわずかで、東大阪市あたりが少し見えただけでした。
でも途中の「旗立松展望台」からは、山崎合戦の地が一望できます(写真⑥⑦)。また絵巻による解説の大壁画もありました。これを眺めていると、またもやふと疑問が🤔?
絵巻では、合戦の様子を秀吉が天王山から眺めている姿が描かれています(写真⑨の赤矢印の部分です)。ドラマでもたぶん・・・そう描かれるだろうと思います。しかし当時の記録には、合戦が始まった頃に秀吉はまだ到着していなく、12km後方の富田に信孝とともにいた、そして合戦が終わる頃やっと後方4kmまでたどり着いたとあります。つまり合戦には、どうも間に合っていなかったようです。また布陣図(写真⑧)を見ると、秀長は天王山のこの旗立松から左の斜面に、官兵衛はそこからさらに左の斜面へ布陣しています。そして眼下の西国街道と淀川沿いの平地で先陣を切って戦っていたのは、中川清秀・高山右近・池田恒興です。 何か気づきませんか? そうです! 彼らは荒木村重の与力だった、村重を裏切って寝返った者たちです😯!
という事は・・・🤔? 「ひょうたんの旗印」をここ旗立松に立てたのは、もしかして秀長だったのではないでしょうか?(あくまで私の推測ですが・・)。まだ到着していない秀吉を、すでに到着しておまえたち三人をここから監視しているぞ! というふうに見せかけ、この三人が本当に秀吉に付く気があるのか、また裏切りはしないか、ここからまさかの時に備え、その時は自分が駆け下りようと、状況を見極めていたのではないでしょうか。結局この三人は、ひょうたんの旗印を見て必死になって戦い、ほぼこの三人の軍だけで明智軍を破ります。そして大勢が決まったのを見て、官兵衛は山を下り側面を攻め、勝龍寺城に追い討ちをかけています。光秀にとってもこの三人の寝返りは、誤算だったのかもしれません。逆に秀吉にとっては、天下への道が開けた、うれしい誤算だったのかもしれませんね。
でもドラマの次回予告編を見ると、これらの私の推測とは異なり、秀長と官兵衛は光秀を生け捕りにしようと、天王山に陣を張っていたとされているようです。そんな余裕があったとは、私にはとても思えないのですが・・🤔。むしろ逆で、官兵衛は本気で光秀の首を取ろうと、山を駆け下り勝龍寺城まで追って行ったのではないでしょうか?(本能寺での失敗を自分たちはしないために)。さあ皆さんの意見はいかに?(ところで与一郎はどうなるの😱?)
長くなりすいませんでした。
次は、秀長の(四国平定)を追って、長曾我部元親との決戦「一宮城」へ向かいます。
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