夏休みの帰省の途中です。
東京駅21:50発のサンライズ出雲でまず岡山に向かいました。
午前6時27分に岡山駅到着。出雲と瀬戸の切り離しを見届けて、ここから先は「お城双六」をしながら西へ向かいます。
1城目は山陽本線(または伯備線)2駅目の庭瀬で下車して庭瀬城。
駅から徒歩10分弱ですが、目にした瞬間から衝撃的でした。滑らかな水面と個性的な石垣をもつ水堀。その中にあるのはまるで現代版の環濠集落!!何か特別なここだけの呼称があればいいのにと思いました。
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検索結果・・・「」を含む投稿
2024/09/01 19:17
境目七城、やっと2つ目。 (2024/08/06 訪問)
夏休みの帰省の途中です。
東京駅21:50発のサンライズ出雲でまず岡山に向かいました。
午前6時27分に岡山駅到着。出雲と瀬戸の切り離しを見届けて、ここから先は「お城双六」をしながら西へ向かいます。
1城目は山陽本線(または伯備線)2駅目の庭瀬で下車して庭瀬城。
駅から徒歩10分弱ですが、目にした瞬間から衝撃的でした。滑らかな水面と個性的な石垣をもつ水堀。その中にあるのはまるで現代版の環濠集落!!何か特別なここだけの呼称があればいいのにと思いました。
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2024/09/01 19:09
城址公園 (2022/08/11 訪問)
城址公園になっていますが、ほったらかしになっているのか道も草ぼうぼうです。
主郭に東屋が建っています。
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2024/09/01 19:02
国史跡なのに… (2024/08/13 訪問)
国史跡の勝尾城筑紫氏遺跡群を構成する支城の
一つですが、同じ葛籠城がよく整備されているのに比べて、
かなり荒れていて案内や説明板もありません。
ただ、遺構は空堀や堀切はしっかり残っています。
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2024/09/01 18:58
身延線完乗後に。 (2024/07/31 訪問)
富士宮駅で大宮城・富士山世界遺産センターを見学したあと再び身延線に乗車。当初の予定では下部温泉駅で下車して甲斐黄金村・湯之奥金山博物館に行くつもりでいたのですが、あいにく休館日だったためそのまま甲府まで行きました。これで身延線完乗達成したものの、まだ16時前で、このまま中央線に乗り換えて帰るのは何だか惜しい気が。
そこで思い出したのが勝山城です。
甲府市内とは言え勝山城最寄りのバス停まで行く便は朝夕の通勤通学時間のみの1日3本で、これまで甲府へは幾度となく行っているものの訪問の機会のないままでした。
これはワンチャン行けるかも?とバスナビで検索してみると16:01発の便がちょうどありました。終点からの折り返し便なのか、帰りの便も1時間半後にあります。訪問即決です。
約30分の乗車で、笛吹川を越えるとまもなく中村入口に到着。バス停から城址までは徒歩約10分でした。
小山と案内板が見えてきました。城址ポイントの小山は耕作地のようです。この中に城址碑があるのだろうかと思いましたがあたりにどなたもいらっしゃらなくて許可を得られなかったため、愛宕大権現まで散策して終了としました。
金山博物館の休館を知った時はとても残念だったのですが、おかげで思いがけず訪問することができてよかったです。
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2024/09/01 18:39
為朝城:鹿児島県姶良市 (2019/12/24 訪問)
源為朝繋がりで為朝城の話を。鹿児島には2つの為朝城と1つの為朝陣が有ります。5年前に登録城が少なくなってマイナー城跡に行くようになった頃に訪問しました。鹿児島でメジャーな武将は島津一択、そんな中に為朝の名を持つ城跡を見つけたので考える前に早速行ってみました。
南北200m程度、東西50m程度の独立丘陵に5つの曲輪と平坦部が5か所程あります。(最近入手した縄張り図の記載が平坦部の表示となっていて名称を揃えました。)急勾配の大手道の両側には3つの平坦部と登り切った左右に土塁が配置さています。西側の崖の上には100m程の長さで2m程の高さの土塁があります。空堀があるとの事でしたが当時は気が付きませんでした、おそらく浅く曲輪の段と見間違える程度だったのだと思います。曲輪Ⅰが主郭で段が付いており背後には土塁があり、石碑が置いてありました。資料を調べてみてもこの城跡が源為朝に関係しているのか分かりません。伝説だけで名前が付いただけなのかもしれないです。
城キチSinさん、遠方から来て立入禁止は酷ですよね。鹿児島・宮崎南部であと2か所立入禁止の登録城が有りますよ。知ってはいたのですが、まさか日本の端っこに城キチが来るとは思っていませんでしたから。
九州以外でじっくり行く予定にしている3か所の一つが福島県なので先行偵察お願いします。城訪問の裾野を広げる手段に、まずは地元で気軽に出来るものをと思いまして地頭仮屋シリーズを。attuさん、shiromiさん、モリハンさん、新たな方々の投稿を見る事が出来ましたね。型に拘らず、独自の視点やアプローチで城に対して自由に発信し続けて下さると裾野が広がると思います。当然、先頭は城キチSin氏の独走で。
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2024/09/01 18:16
お土産は「横濱ハーバー」で…⛵ (2024/08/10 訪問)
とある煩悩の登城目録さんのアクセス方法を参考にさせていただきました。東横線で菊名駅へ。東口を出たところに,臨港バスのバス停があります。鶴見駅西口行きのバスに乗り,馬場谷バス停下車。バス停からは予想以上に傾斜があったため,キャリーバッグ持ちにはキツかったです。帰りに気がついたのですが,近くのローソン裏からショートカットできます。バスはかなりの本数があったので,あまり時間は気にしなくていいと思います。
竪堀は推測ですが,たぶん間違いないと思います。
横浜土産は毎回悩みどころですが,70周年のロゴが見えたので「横濱ハーバー」で。期間限定の,抹茶黒蜜味は美味でした。
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2024/09/01 17:38
ムレムレ繋がり (2019/10/14 訪問)
津賀牟礼城・騎牟礼城と続いたのでムレムレ繋がりで栂牟礼城に寄り道。訪問したのは5年前です。
主郭の高さは標高223m、南北250m程度の範囲にⅠ~Ⅳの曲輪が配置されている細長い城跡です。尾根続きの南側と西の派生尾根に集中して連続堀切が施されています。西側にある小山田城の後に西側尾根から訪問しました。ですので南尾根の堀切は曲輪近くの1本を見たに過ぎません。こちら城跡は石混じりの尾根を彫り込んだ堀切が見所なのですが、それに対して少々土塁が少な目に感じました。
大分県には牟礼の付く城跡が多く意味を調べてみると古代朝鮮語で山を表すのだとか。牟礼の付く城跡は残り4か所、大分県も本格的に侵攻の際は行く予定です。次回も寄り道して、お隣の小山田城の投稿へ。
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2024/09/01 16:20
続100名城スタンプ設置場所変更 (2024/08/12 訪問)
八代城は輪郭式の平城で本丸を中心に南東に二の丸(現、八代市役所)、南西に三の丸(現、八代市民俗伝統芸能伝承館)、北西に北の丸(現、松井神社)、北に出丸が渦巻き状に配置され、それぞれ水堀で区切られていました。
現在は、本丸の石垣と本丸を囲む水堀が残っておりますが、当初、本丸の北西隅に外観5層6階の大天守があり渡り廊下を通して2層2階の小天守と繋がっている、連結式天守がそびえ立っていたとの事です。(この大天守・小天守が建っていた石垣が何とも恰好が良い(*^▽^*)、また、本丸入口の枡形虎口も恰好が良く、この城の見所だと言えます)。
八代城は、熊本を襲った地震により、麦島城が崩壊したため、熊本城主の加藤忠広公が幕府の許可を得て、家臣の加藤正方に命じ、「一国一城令」後に築いた城です。その後、加藤氏の改易により、熊本城主となった細川忠利公の父である、細川忠興公が入城し北の丸を隠居所とし、本丸には四男の立孝を居住させましたが、忠興公が没した後は細川家筆頭家老の松井興長公を城主とし、松井氏が明治維新まで続いています。
続日本100名城のスタンプ設置個所が八代市立博物館未来の森ミュージアムから八代市民俗芸能伝承館に変更されていますので、注意願います。
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2024/09/01 16:09
華麗(かれー)なる水城 (2024/09/01 訪問)
最近、わけあって遠出が出来ません。来月ぐらいには福島県に行きたいですね。台風が来ているので、今週は家に缶詰の方も多いのではないでしょうか。ヒマなので今日の昼食に水城カレーを作ってみました。水城といえば‥そう坂本城です!
石垣の保存も決定し、史跡認定への動きもあるようです。周山城も史跡認定に向けて動きが有るようで、隠れた築城名人・明智光秀の城が今 熱いです。けっこういい城を作るんですよ、この方は。
さすがにそれだけだと何なので、琵琶湖が干上がった時に現れる本丸の石垣と、三の丸の石垣を公開した時の写真を載せますのでカレーの坂本城(笑)と比較してみてください。某加工食品で櫓と屋敷を再現してあります。老母が野菜も食えとうるさいので、キュウリも植毛してます。三の丸の写真には懐かしの岡田さんが写っていますね。写真掲載は問題ない(公共ツール)とおっしゃってくれたので、載せさせていただきます。非常に良いキャラをしていたので、またTVなどに出てほしいですね。
そうそう、大河ドラマにはこんなシーンは有りませんでしたが、明智光秀が奥さんと舟で仲良く坂本城を眺めているシーンを再現してみました。なんか別の番組みたいになって来ましたね(笑)。
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2024/09/01 14:58
田幡城 (2024/07/27 訪問)
【田幡城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>地下鉄名城線黒川駅から徒歩
<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第5弾2城目。田幡城の築城は天文年間(1532~1555年)に越智信高が築城したとみられます。越智氏は林氏とも称し、林秀貞の城主の時、織田信長家督争いで織田信勝方として挙兵しますが、稲生の戦いで敗れて城は廃城となったようです。
現地は金城小学校になっており地表に遺構は残っていません。正門前と公園を撮影して終了しました。黒川駅から少し距離があるので暑さでへばりました。
<満足度>◆◇◇
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2024/09/01 14:57
織豊系に大改修された勝山城 (2024/08/24 訪問)
谷村城、谷村陣屋、都留市博物館を訪ねた後、麓の都留市役所から良く観える勝山城の登城口へ、夏場で取りあえず登城口周辺を訪ねて終わりとした。都留市博物館ミュージアム都留の勝山城立体模型ジオラマで登って探訪した気分、城郭放浪記さん紹介の博物館にある勝山城の模型が必見の目的。
駐車場:勝山城西登城口駐車エリア(35°33'09"N 138°54'10"E h=490m) 和式トイレ有、2,3台可能。
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
勝山城は桂川が北、東、南を囲む総堀の役目、南側に東から西に大堀が更に守り、現在は水田で一部宅地化、西には高速道中央道富士吉田線が通ってる。
登城口には勝山城の縄張付き解説板が設置、登城口には熊注意の看板も有る。
縄張図を見ると西側に内堀が走り、南の段曲輪から三の丸、二の丸、本丸の西を守っている、主要郭は連郭式の造り、北尾根と東尾根に見張台と郭が設けられている。
高石垣も有り家康関東移封後、豊臣家臣浅野氏が甲斐を治めて浅野氏の織豊系城郭に大改修された様子。武田氏時代には小山田氏の谷村館の詰城、砦としての機能も有った様です。
都留市博物館ミュージアム都留:山梨県都留市上谷1-5-1、玄関前に駐車場有り。
ここでは縄文遺跡、遺物の展示も有り大変勉強に在ります、谷村の歴史パネル、解説、勝山城立体模型ジオラマは必見、城郭の構造が良く分かります。勝山城の情報収集「都留の城と館」の小冊子を入手、その他パンフtレット、各説明ありがとうございました。
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2024/09/01 11:43
姫路城特別公開「トの櫓・との一門・とのニ門・との四門」及び「搦手周辺」 (2024/09/01 訪問)
普段は公開されていない「トの櫓内部、との一門、とのニ門、との四門」及び「搦手周辺」が本日より期間限定(2024年9月1日〜9月30日)で公開されています。今回公開されるエリアは姫路城東側、戦いの備えを意識した搦手周辺となります。2022年3月にも公開されましたが、「との四門」に関しては2015年3月以来9年ぶりの公開です。入城料(1000円)の他に別途拝観料(200円)が必要になります。
特別公開エリアの入口は備前丸東側の井郭櫓です。特別公開エリアに入ると元には戻れず、との四門から城外への退城となりますので大天守、西の丸を見学される方は事前に済ませておく必要が有ります。パンフレットにも注意書きが有りますが、数名の方が直接見学に来られてたので注意が必要です。
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2024/09/01 07:16
零式艦上戦闘機 浜松広報館・エアーパーク (2024/08/31 訪問)
静岡県浜松市にある航空自衛隊浜松基地「浜松広報館・エアーパーク」では現在零式艦上戦闘機の分解が行われています。分解の目的は展示場所を移動するためで、機体後部やプロペラなどは既に移設先に運ばれていて見ることは出来ませんが、主要な部分は残されており、主翼や機首などを間近で見ることが出来ます。
分解された後部から運転席などの機体内部を見ることが出来る、またとない機会でもあります。ここ数日台風が迫って来ていますが、せっかくなので訪れてきました。普段天井から吊り下げられている零式(ゼロ戦)を目の前にすると胸の奥が静かに熱くなって来ます。
そして美しいです、米国のコルセアやP51 マスタングも美しいですが、それとは異なる機能美や様式美を感じます。
「装甲が脆弱すぎる」という生まれながらの欠陥機ともいえる零式ですが、高い航続距離と運動性能で十二分に欠陥を補い大戦初期に大活躍をしています。
この機体の形式は「52型甲43―188」で翼を短くした後記型になります。1943年に製造され、翌年グアムに移送され、米軍にグアムを奪還された際に現地で廃棄処分になったと見られます。戦後、グアムで発見され昭和38年グアム会議で日本への返還が決定され、修復が行われ今に至っています。
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2024/08/31 22:35
〇水城 (2023/01/04 訪問)
零汰さん、地頭仮屋の投稿楽しみにしています。私も去年鹿児島を訪問した際に麓を6つほど回っていますが、そのへんが精いっぱいで、やはり地元の強みというやつでしょうか。
実は久々の「おしらすタイム」なのですが、以前〇水城の投稿で「〇水城は現在立ち入り禁止になっているのですが」などとしれっと書いていたりするのですが、実は誘惑に負けてこっそり入ってしまっていたりします。まあ‥なんというか「城キチ」の虫が騒ぎましてね‥「辛抱たまらん」というやつです。いやはや‥申し訳ない。
城びとを始めてからは、そういった行儀の悪いことは極力「自粛」しております。鹿〇島県民の皆さん、ごめんなさいです。
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2024/08/31 21:44
2024/08/31 21:30
2年ぶり! 暑い中の青空 (2024/07/07 訪問)
この前は電車の事故で行けなかったので、今度こそはと、計画を立てて行きました。伊賀鉄道に乗ってゆっくり行きました。この日は友達3人と一緒に行きました。
伊賀上野城はもともと豊臣秀吉の家臣であった筒井定次が築城し、秀吉の死後、徳川方の藤堂高虎が改修して石垣の大規模なお城にしました。まあ要は大阪城を守る城から攻める城にしたって感じです。
まあとにかく高石垣がいつ見てもすごかったです。初心者でも行きやすいお城なのでぜひ行ってみてください。
上野駅から徒歩15分
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2024/08/31 21:24
福島正則陣跡 関ヶ原古戦場 (2024/03/30 訪問)
トクさん、丁寧にご返事いただき有難うございます。私はトクさんの愛情たっぷりに関ヶ原と武将達を繋げて物語のように綴っていくスタイルは素晴らしいと日ごろから思っております。私の投稿は、従来の説とは異なる白峰氏や他の方の説も多分に参考にさせていただいており、その分ドライに徹せざるを得ない部分が有ります。
関ヶ原にいろいろな可能性があると知ってから自らの足で確認をしてみたいと思い実践をし、これからも継続をしていきたいと考えております。当然間違いもありますし、おそらくこれからも多くの誤った考えを投稿する可能性があると思います。私自身が馬鹿にされたり、嫌われたりする分には構わないのですが、誰かを傷つけたりするのは出来る限り避けたいところであります。
また、以前投稿した内容を修正する投稿を後日行うことも有ると思います。人は当然過ちを侵すし、歴史は「生き物」だと思っておりますので間違いながら(最小に)進んでいこうと思っています。松尾山城の初期の投稿は酷いものですが、あえて削除せず残してあるのもそのためです。
私が関ヶ原に興味を持ったきっかけの一つに、小早川秀秋公のことが有ります。当時からこの若者は不当に低く評価され、侮られているのではないかと感じておりました。松尾山城を歩いているうちにその思いは強くなり、いろいろ調べるようになりました。命を懸けて戦場に赴いてくるこの時代の若者に侮れるものは一人もおらず、それは毛利秀元公にも通ずるものがあると思います。
小早川秀秋は松尾山を降り、もっと低い場所に陣を張ったとする説もあるので、私が以前投稿した松尾山城の出城に最初に陣を張った可能性もあります。臨機応変に戦闘を行うには松尾山城は標高が高すぎるので、その可能性はあると思います。そうなると小早川秀秋に対するイメージも大きく変わってくるのではないでしょうか。
前振りが長くなったので関ヶ原古戦場の福島正則陣跡の投稿に移ります。福島正則陣跡は不破関跡と藤堂高虎・京極高次陣の中間にあります。福島正則公に関しては松平忠吉・井伊直政との先陣争いにかかわる逸話が残っています。徳川家康にとって福島正則は盟友の加藤清正よりは扱いやすいイメージがあったと思いますが、関ヶ原の合戦の後に亀居城や鞆城の破却を命じられても我慢して従っています。また安芸備後に49万8000石を得たあとは、検地を公平に行い農民への過度な負担を無くすなどの善政を行っています。
ただ大坂夏の陣で豊臣家が滅び、翌年家康公が亡くなってからは自暴自棄的な行動が見え、所領を4万5千石に減らされたうえ、死後に福島氏は改易になっています。
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2024/08/31 19:30
外城制:地頭仮屋
地元各所の城跡を見て廻っているとやたらと地頭仮屋の表示・仮屋門や石垣が目に付いていました。取り合えず写真に納めていて、30か所を超えた頃に地頭仮屋とは何だろうと調べてみました。その頃は全国に存在しているものとばかりと思っていて荘園関係の地頭なのだろうと思っていました。ですがこの地頭仮屋は薩摩藩特有の制度で荘園関係の地頭とは全く関係なく薩摩藩特有なのだとか。この制度を外城制といい当時薩摩藩に籍のあった宮崎県の一部にも存在していおり、同様の制度がお隣熊本県の人吉藩でも導入されていたそうです。詳細は以後順次・・。
この外城制の遺構について、地元発信のローカルネタとして遺構を不定期で投稿しようかと。何しろ100か所以上あるので終了しないような気もしているのですが。
1~3:串木野郷地頭仮屋:いちき串木野市
・・・登録城の串木野城の一角にあります、串木野麓として武家屋敷の遺構も残っています。遺構は石垣ですが表示板によると明治期築造なのだとか
4~6:加世田郷地頭仮屋:南さつま市加世田
・・・最寄りの城跡は加世田城、そこを中心に麓が形成されています。遺構は階段や門柱、築造時期は不明です。
7~9:山川郷地頭仮屋:指宿市山川
・・・最寄りの城跡は不明だが近くに消滅した土矢倉城があります。ここは漁業が盛んな為、海近くに設置したのかもしれない。遺構は石塀で江戸時代の築造によるそうです。
次回に続く。。。
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2024/08/31 19:24
戦国期の石垣かな? (2024/08/17 訪問)
主郭を三方に囲むように石垣が巡らされている。
どうやら今は個人宅のようです。戦国期のものかは不明です。
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2024/08/31 19:17
台風お見舞い申し上げます
福岡は35度以上の猛暑日が4日前に40日連続でやっと途切れ、今度は台風10号で久しぶりの大雨が降り、通過したと思ったらまた今日夏日が戻ってきました(もううんざりです)。対称的に東海関東は異常なくらい雨が降っているようなので、十分注意されてほしいと思います。
しんちゃんの、学術的な旧説・新説を踏まえたアプローチの投稿には実は感心しています。私は勝手に武将の気持ちになってアプローチしているだけなのでお気になさらぬよう。皆さんも自分の好きなスタイルでこれからも行きましょう! 私も井伊直政クライマックスに向けて、相変わらずマイペースのスタイルで行くと思いますので、よければよろしくお願いします。
私は学術的に詳しくないですが、しかし白峰先生の説にはちょっと興味があり、数年前のNHKの関ケ原特集の番組で、白峰先生が語っていたその内容に、とても衝撃を受けたのを憶えています。山中村を歩いた時はその事が頭から離れませんでした。
私は今は福岡市に住んでいますが、生まれたのは別府市で(温泉が産湯)、小中高と育った大分市の大友館そばに実家があるので、車で帰省する途中に国道10号線沿いにある別府大学の前を通るたびに、「白峰先生のいる大学だ~!」と思いながら前を通っています。付属明豊高校は今年も甲子園に出て野球強いです。ちなみにそこは、私が学生の頃に片思いの人が通っていた学校です(40年以上も前の淡い思い出です・・笑泣)。
最後はまたもいらぬ話でした。
すいませ~ん(喝喝喝!😱)
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