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しんちゃん

無題

昨夜、酔っぱらって書いた文章を読んでいます。
アウトロー、全部俺の庭・・・普段思っていること全部書いてますね(思ってるんかい)。
クソ喰らえ・・良く通過したな~ 気分を害されたならご容赦を。
別に熊を舐めてはいません。正しく畏れた上で腹をくくって攻めないと、山城を攻略できません。すでにどこの山城にも熊の痕跡はあります。
朝田さん、せっかくのお気遣いを踏みにじったようで申し訳ありません。私は朝田さんに失望したわけではなく、むしろ期待しています。朝田さんがにのまるさんをフォローして、城びと皆が楽しめるパーティーを主催してくれたら、みんなお二人に感謝すると思います。
ただ、私は誰かが怪我をするかもしれない「3000城コンプ」の企画には賛同できないのです(申し訳ない)。広島、山口にはヤバそうな城が幾つかあります。どれほどの「つわもの」とはいえ常に怪我をしないという保証は無いでしょう。
3000城は、自然な形で集まって行くと思います。取るべき人が取っていくでしょう。じっさい下手をすると命の危険があるような城はけっこうあります。怪我をしても空気を読んで黙っている人がいるかもしれないし、労災も下りないし(・・・)。
これはにのまるさんが悪いのではなく、城攻めの本当のヤバさを実感しているのは限られた「変態」だけだからです。私はパーティーそのものには賛成です。

コンプ企画だと、実際に参加できる人も限られてくると思います。登城道も無く、熊がうろついている山城を攻めるとか、正直・・「変態」です。実際に企画を達成してパーティーを実施しても会場内で「コンプ」を連発すると不快に思う人もいると思います。
やはり城びと皆、同じ条件で参加できる方が良いと思います。
それでもやっぱり3000城コンプやりたいですか・・?

todo94さん、おくればせながら箱柳城のコメントありがとうございます。ちなみに私はGWは東北を攻めないことにしました、せっかくの東北旅行なのでゆっくり楽しんでください。でも攻めないのはGW期間だけですよ。また、他の誰かがtodo94さんの狙っていた城を取ったとしても、恨みごとは無しにして下さい。
これで言いたいことは全部書いたかな・・

そうそう師匠にはやられました。城びとで私以上にフリーダムな漢がいるとは、悔しいが完敗です。戦わずして勝つ!
まさしく現代に蘇った塚原卜伝ですわ(なぜかベタ褒め)。

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三浦の晃ちゃん

桜まつり (2025/04/12 訪問)

日本三大夜桜の高田城です。凄い人出でした。

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三浦の晃ちゃん

桜まつり (2025/04/14 訪問)

今年も桜まつりに行ってきました。

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肉球

茶室工事完了 (2025/04/09 訪問)

昨年訪れた時は残念ながら見ることができなかった茶室工事が完了してました。
案内板によりますと
天保3年(1832)伊達家28代伊達斉邦が重臣大條道直に与えた茶室です。
拝領当時は仙台川内(東北大学川内キャンパス付近かと)大條家屋敷に建築。
明治21年仙台支倉へ移築。
昭和7年坂元要害三の丸跡に移築。

仙台城大手門は戦災で焼けたことを思うと移築により生き延びた茶室。
解体保存の話も出ていた様ですが修復保存になった様です。
今回の修復は使える部材は極力使用している様です。

大手門は元は茅葺き屋根だった様ですが茅葺き職人が居なくなり
現在の瓦屋根になった様です。

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シェル

元祖 鹿島城というべきか。 (2025/02/27 訪問)

 肥前鹿島駅から本丸跡まで徒歩10分ほど。バス利用の場合は、鹿島~佐賀間の路線バスが常広城の近くを通っており、最寄りの「乙丸東」バス停から徒歩5分ほどです。
 鹿島城(佐賀)を訪問後、肥前鹿島駅周辺で食事をしたあと、食後の散歩がてら常広城跡に行ってきました。
 旭ヶ岡公園(鹿島城跡)にある常広城の解説の説明板によると、天正四年に龍造寺氏が鹿島に進出。鍋島信房(鍋島直茂の兄)を鹿島に配置し、常広城を築城させたとされています。江戸時代に入り、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂が弟忠茂に鹿島を与え、常広城は佐賀藩の支藩 鹿島藩の藩庁となったようです。しかし常広城は水害を受けやすかったため、江戸幕府や佐賀藩から許可を得て、鹿島城に藩庁を移転したようです。
 現在は、本丸跡は鹿島北小学校になっています。鹿島北小の校門脇に説明の石碑が設置されています。小学校の西側の用水路は、かつての常広城の水堀の名残のようです。
 周辺には鹿島大明神の社殿があり、すぐそばには公民館があります。公民館には海抜2mの看板がありました。これを見ると、今でも水害の被害を受けやすい場所であることが感じられます。
 そして本丸跡から南西に6分ほど歩いた所に願行寺があります。願行寺の山門は常広城の城門と伝えられているようです。こちらも鹿島城と同様、赤門スタイルになっています。

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シェル

現存の赤門と大手門 (2025/02/27 訪問)

 嬉野温泉から中川(鹿島)行バスで向かいました。終点の「中川」のバス停から徒歩10分ほどです。鹿島へは佐賀からも鉄道・バスでアクセスできます。
 鹿島城は現在、本丸は佐賀県立鹿島高校(赤門学舎)になっていますが、高校の周囲は旭ヶ岡公園として整備されているので、そこを目指して見学をスタート!!
 中川のバス停から西に市街地を少し歩くと、鹿島城大手門があります。なんと大手門は現存。大手門前には、水堀と石垣もあり、城の雰囲気が一気に漂ってきます。大手門をくぐると、公園まで鍵の手状の坂道になっていました。道中には、ところどころ遺構があり、鹿島高校(大手門学舎)の校門近くにも、石垣がありました。
 旭ヶ岡公園に入ると、正面に現存の赤門があります。赤門は現在、佐賀県立鹿島高校(赤門学舎)の校門になっています。高校の周囲には水堀が残っています。
 また赤門のそばには、鹿島城赤門野外博物館 と銘打った説明板群があります。鹿島城の縄張り図や鹿島の歴史などが記された説明板が12個設置されています。縄張り図があるのは、本当にありがたかったです。
 旭ヶ岡公園の東側に向かうと、大規模な石垣が残っており、迫力満点でした。楠社の北東側には櫓台と考えられる石垣も残っています。
 櫓台の所から旭ヶ岡公園を出て、少し北に進むと、空堀跡があり、道路脇に土塁が残存していました。また本丸南側に行くと、鹿島藩家老の原氏の武家屋敷棟門が現存しています。

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シェル

城の起源 (2025/02/26 訪問)

 だいぶ時間が空いてしまいましたが、佐賀旅行で巡った城の投稿の続きです。
 唐津から列車を乗り継ぎ、吉野ヶ里へ。
 最寄り駅はJR長崎本線の吉野ヶ里公園駅と神埼駅です。
 私は西側の神埼駅側から吉野ヶ里公園駅へ向かうルートで見学してきました。
 神埼駅前に卑弥呼の銅像があります。卑弥呼の銅像の指が指し示す方向に田んぼ道を歩いていくと、吉野ヶ里歴史公園の西口に到着しました。西口で入場券を購入し、園内へ。ガイドの方が園内を走る無料のバスの乗車をおすすめしてくれたので、バスで東口側まで移動し見学開始。
 東口側のそばには、環壕と逆茂木があり、坂を上ると南内郭に至ります。
 南内郭は「大人(だいじん)」の生活と政治の場だったと考えられており、物見櫓や竪穴住居、集会の館などが復元されています。
 つづいて北内郭へ。こちらは、吉野ヶ里のまつりごとの最重要の場所で、壕が二重に巡らされています。主祭殿や司祭者の住居などが復元されています。主祭殿の内部では、儀式の様子なども人形で再現されているので一見の価値があると思います。
 北内郭から北に進むと、北墳丘墓があります。ここは王の墓とされ、お祈りをする祠堂もあります。北墳丘墓の手前に甕棺墓列という弥生時代の墓地があります。ここでは甕棺の産出の様子も復元されていました。
 一通り見学を終えて100名城スタンプは東口側の券売機そばで押印。帰りは吉野ヶ里公園駅から宿へ向かいました。
 弥生時代の遺跡ですが、壕を見ると、土の城を見慣れている関東の人間としては、城と言っても差し支えない遺跡だなと個人的に感じました。

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肉球

神戸海軍操練所・兵庫県神戸市   (2025/04/07 訪問)

30数年ぶりに訪れた神戸の街をぶらついた時に発見しました。
幕末に軍艦奉行であった勝海舟によってつくられた海軍操練所の防波堤の残骸と思われる大量の石が山積みとなっていました。

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カズサン

横地城の桜を求めて (2025/04/04 訪問)

 遠州路城と桜を求めて、勝間田城を終えて帰路菊川市の横地城を8年振り訪ねました。
 桜は麓、駐車場も満開、初代横地太郎家永の幟旗が桜の中にはためいている、車は横地城麓の専用駐車場利用、20台は可能な大駐車場、トイレも有ります。
 初代横地太郎家永の名前は家長とも有り説明板などに両方用いられています、八幡太郎義家の落胤で横地姓の初代、横地氏は今川義忠に滅ぼされるまで約400年超この地を治めていました。
 駐車場から千畳敷に繋がる急な坂道を登って踊り場から丸太階段を直登り、千畳敷は西の城二の丸と中の丸の間の広い城域です周囲には桜が満開で広場公園と成って居ます、西の城は神社鳥居前まで、千畳敷の桜を堪能して、中の城へ登って降りて、本丸金寿城へ間の土橋は桜の覆われて見事な景観、金寿城本丸を下から見上げる桜の囲まれている、一騎駆への道は通行止め、金寿城の井戸を確認、北からの本丸登城路は危険の為に通行止め、南からの登城路で本丸頂上へ、南見下ろすと桜に浮かんでいる様な素晴らしい景色。
 カメラが途中故障して予備の古いデジカメで写真対応しました。
 陽も傾いてきましたので桜と横地城中枢を見て終了。近くても中々来れません。
   

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トク

今見直される佐賀の乱(江藤新平特別展) (2025/04/13 訪問)

佐賀城の「鯱の門」には、今でも無数の弾痕跡が残っています(写真①②)。これは1874年(明治7年)にあった佐賀士族と官軍との戦い「佐賀の乱」で官軍が放った銃弾によるものです。この士族の先頭に立ち乱を主導した罪で、旧佐賀藩士の「江藤新平」は処刑され、41才の若さで亡くなりました。彼は本当に乱を主導した反逆者だったのでしょうか? 今その歴史が見直されているそうです。

佐賀城の本丸歴史館で開かれている、「江藤新平特別展」を見に行ってきました(写真⑤⑥)。幼い頃を藩の弘道館で蘭学を学び、藩主の鍋島直正(写真⑨)にその才能を見出され、戊辰戦争では朝敵と見なされぬよう奔走して佐賀藩の窮地を救います。その後、明治政府に入ると十傑と称され、司法卿(現在の法務大臣)となり検事弁護士制度や全国に裁判所を設置し、三権分立や議会制度を作って大日本帝国憲法の編纂をするなど、今ある司法制度の礎を作った人物とされています。そこまで明治政府に貢献した江藤が、なぜその明治政府によって処刑されたのでしょうか?

征韓論に端を発し、徴兵制度により士族は職を失い、佐賀の士族たちは新政府に不満を抱き、県庁のあった佐賀城を占拠し直談判します。その藩士たちを説得しようと、同郷の大隈重信(写真⑦)が反対するのを押し切って江藤は佐賀へ戻ります。そこへ大久保利通が官軍(徴兵制により組織された政府の軍隊)を送ったため、士族たちは反乱軍と見なされ攻撃を受けました。これが佐賀の乱と言われるもので、弾痕跡はこの時できたものです。

征韓論で西郷隆盛と対立する大久保は、西郷に同調する江藤を、この機に反乱軍のリーダーに仕立てる事で排除しようとしたのではないかと言われています。藩士たちを説得しようと佐賀へ戻った江藤ですが、官軍と戦う気などは全く無いにもかかわらず、攻めて来られれば反撃するしかありません。しかしこのままでは不利と悟り、西郷に協力を求めるため薩摩へ行くも断られ、ならば政府を説得するため東京へ戻る途中に土佐で捕らわれてしまいます。そして弁護弁明の機会が与えられる事もなく、大久保は江藤の作った司法制度を無視して、即時に死刑を命じてわずか2日後に執行されたようです。

佐賀の乱の2年後の明治9年、この乱を契機に大久保は廃刀令を出し、武士が刀を持つ事を禁ずる事で士族の力を奪おうとします。しかしその狙いとは逆に、士族たちの不満は頂点に達し、翌明治10年には西郷隆盛と薩摩士族を中心とした西南戦争へと突き進んで行きました。

佐賀市内にある神野公園には、その江藤新平の銅像が建てられています(写真⑧)。今でも命日の4月14日には銅像祭りが開催され、その遺徳が偲ばれているそうです。

もし江藤が生きていたら、西南戦争も起きる事はなかったのではないか🤔? そんな事をふと考えていたら、本丸歴史館の大広間では「佐賀の八賢人」なる寸劇が行われていました。ユーモアを交えた分かりやすい寸劇なので、最後は八賢人を楽しく学ぶ事ができました。開催日時等は(写真⑩)を御覧下さい!(入場無料)。
 

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赤い城

瀬戸内海交通、防衛の要衝 (2025/03/20 訪問)

丸亀港から塩飽諸島、本島行きのフェリーに乗ります。
この日は無料デーでしたが朝一番の便なのでスムーズに乗船できました。
本島港から徒歩で30分くらい、瀬戸大橋を望みながら北西側の登城口に着きます。

登城路は整備されていて少し登ると説明板のある北側の郭に着きました。
説明板では東山城と記載されています。

尾根伝いにさらに進むと主郭北側の堀切。
進むと東に向けて竪堀となり落ちています。
東側には腰曲輪も見られました。
堀を戻り主郭へ。
結構な広さです。
西側には土塁が付いていて南側は深い堀切で守られています。

この堀切にも入ってみます。
途中折れていて一部が二重になっています。

戦国時代には天霧城の香西氏の甥、福田又十郎の居城でしたがここも長宗我部氏の侵攻により落城しました。
帰りは専称寺側に下山、小規模ながらも見どころのある城でした。

【見どころ】
 ・主郭の南北にある堀切
 ・主郭西側の土塁

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楓景斎泰山

桜霞 (2025/04/12 訪問)

夜20:30頃行ったがまだ駐車場が満車だった。

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しんちゃん

すべて俺の庭。

朝田さん、良く見ていますね。残雪も熊もクソ喰らえです。
こちとら腹はとっくにくくっているんで、お構いなく。俺は何処にでも出ますよ。責務だの縄張りだの俺の前では何の意味もありません。
ところで、こんな企画いつまでも続けているといつかケガ人が出ますよ。
俺はアウトローなんで、何が有ってもすべて自己責任です。でももっと皆が楽しく参加できるやり方があるはずです。
コンプとパーティーを繋ぎ合わせるのは危険だと思いますよ。にのまるさんも皆が無事で楽しく参加できるほうが喜ぶと思います。
この無茶な企画にブレーキを掛ける役を朝田さんに期待していたのですが、残念です。

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朝田 辰兵衛

にのまるさん,赤い城さん,正解です🎊

上山城,晴れている日に行くと,高楯城がとても近くに見えて,血が騒ぐと思います…<笑>。
原田城,「登城したお城しりとり」で「原」フォロー手札に苦慮したので,「さっさとここに行ってれば…」ということで記憶に残っています。小田原城,島原城,佐土原城,原城…どうつなぐか…とても悩みました。

さて,秋田の未投稿6城攻めですが,無事に5城行ってきました。一番行きたかった檜山城に後ろ髪を引かれながらも…。
残してしまったのは角館エリアの白岩城です。風が強く,日が暮れてきたので,クマやイノシシが風で落ちた木の実を狙い始めるころかな…と思ったので。今の季節はほとんど木の実はないですが,習性として。
戸沢城は,残雪具合が危険で,主郭は遠景に留めました。秋田コンプリートを目指すことになれば,戸沢城には再訪を考えます。
白華城,小友館,雀館,明利又城,戸沢城は,随時レポートしますので,しばらくお待ちください。
今度の土日で無事にホテルをリザーブできれば,角館に行ってきたいと思います。

しんちゃんさん,何気に富山の未投稿城をコツコツ攻略してますね。残雪と野獣に気をつけてください。
なんだかんだ言いつつも,岩手県の未投稿城をを視野に入れている気がします。それ以外を埋めても,誰も文句は言いませんのでご安心を。

todo94さん,ありがとうございます。階段国道や,竜飛岬の「津軽海峡冬景色の碑」を愛でた「青森愛」はハンパではないと確信しました…<笑>。

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にのまる

芥川山城下山後に行きました。 (2025/02/07 訪問)

前々回訪問時は発掘調査中、前回訪問時は建設中だった高槻城公園芸術文化劇場が完成していました。
矢穴や刻印など趣向を凝らした再現がされていて、芸術や文化に触れながら“気づいたらお城に詳しくなっていた!”なんて最高!!と思いました。

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しんちゃん

ユルくやるでござるよ。 (2025/04/13 訪問)

今年のGWは東北をゆっくり回って未踏の城を全部、引っこ抜いて来る予定だったんだけど、おかしな企画のせいでヘンな空気に・・
みんなちょっとマタに力が入りすぎではないでしょうか(肩だろ!)。ちょっと股間を冷やしては(頭・・・)。
イオさんを見てください。〇〇〇の〇〇とか言っていたくせに、沖縄でのあの余裕ぶり。悔しいけど俺よりフリーダムです(イオ師匠)。
それでいいじゃないですか。
ぶっちゃけ俺、予定調和とか苦手なんだよな・・ロンリーウルフだし。目の前に城があったらぶった斬る。
「城・即・斬!」 幕末において俺たち「城びと」が唯一共有した正義のはず・・ 

何の話だっけ? ああ・・池田城の投稿か。どうも、初投稿みたいです。こんなグダグダですみません。ちょっと心が病んでます。
城址の南から車道が城址に向かって伸びているんだけど、これがメチャクチャ狭い。かといって車を停める場所も無し。
軽自動車以外の人は歩いて行った方が良いです。堀切に土橋がかかっていて、その先に複数の郭があり、頂部が主郭になっています。
簡易的な公園か、農園のようになっていて、主郭の周囲に複数の郭が有りました。先ほどの堀切意外に特に目立った遺構は無かったと思います。

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カズサン

三の曲輪北二重高土塁が絶景の見所 (2025/04/04 訪問)

 三の曲輪の北側の大木が全面伐採されて、初登城時鬱蒼とした森林で薄暗く現在の虎口にたどり着くまで不安に成ったものですが出曲輪の茶畑を過ぎた辺りから視界が一挙に開けて三の曲輪北壁城塁がよく視認理解できる様に成り、二段の高土塁が聳えて、中段の土塁上には横堀が伸びて西に落ち込み竪堀と成って居る、三の曲輪東の尾根には二重堀切が構えている。素晴らしい景観です。
 三の曲輪内部には窪地的な馬洗場、西側に建物跡あった西三の曲輪、東の三の曲輪内部には桜が植わって居り満開状態で勝間田城に華を添えている。
 南側東西に高土塁が構えて二の曲輪と隔てている。
 若干雲が出て居ましたが青空もあり日も差し大変気分の良い城探訪でした、のんびりできます。
  

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T-Shionoya

意外と中世な田原城 (2025/02/22 訪問)

愛知県田原市の田原城。数年前から度々近くを訪れてきた地で、今回はついに城跡へ。

渥美半島付け根の北側、田原湾および汐川西岸の標高約15mの台地の舌状部に築かれた城。
東側は江戸初期まで存在した干潟に守られていたとのこと。

1480年頃に戸田宗光が築城し、渥美半島とその周辺を領有した戸田氏5代の拠点。
1500年代後半は今川(朝比奈)や徳川(本多)、池田(伊木)の配下へと移り変わり、池田時代に近世化が進んだ模様。
関ケ原の翌年からは戸田氏3代、1664年から幕末までは三宅氏12代が城主となります。

現在は桜門と二ノ丸櫓が復元され、本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪に神社や博物館などが建つ城跡。
藤田曲輪は宅地化のため1990年代前半に削られました。

訪問時は、惣門跡から入口も出口もクランク形状の大手通りで城郭主要部へ。
桜門や石垣を擁した水堀から近世城郭をイメージしていたが、本丸手前に深い土の空堀が構えられ、よく見ると本丸西側に長い土塁が残存。出曲輪の西にも巨大な土塁が残り、意外と中世的な印象。

二ノ丸櫓1階が無料の小さな田原城博物館となっていた、私の城郭巡りの198城目でした。

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Gun

宮城県多賀城の御城印 (2025/04/13 訪問)

桜が見ごろな事から、お花見ついでに多賀城御城印を購入。
御城印NFTで多賀城観光案内所に貼付してあるQRコードから1枚300円で購入する流れで、
仮想通貨は不要でカード決済でした。

NFTには購入日が記載されていました。

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亀ヶ頭

唐沢山城に行ってきました (2025/04/04 訪問)

唐沢山城に行って来ました!天気も快晴だったので富士山も見えまてよかったです

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