立地的には安宅本城の詰めの城的な役割を考えたくなるが安宅一族の内紛で落城したと伝わる16世紀前半に当てはまる焼土層より上には遺構がないというから不思議。遺構の見事さには声が出る。たぶん必ず声が出る。
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2024/05/01 21:29
2022/01/20 22:51
2021/01/21 08:11
なかなかの土木量 (2021/01/10 訪問)
室町期に熊野水軍・安宅氏により築かれた城で、平地の居館である安宅本城の詰めの城として機能しましたが、戦国中期に一族の跡目争いの中で落城し、発掘調査によれば火災後に改修された様子がないため、そのまま廃城となったものと思われます。
安宅八幡神社の裏山が城域で、神社の駐車場に車を駐め、津波避難場所として整備されている登城路を5分ほど登っていくと、幅の広い横堀に行き当たります。横堀の真ん中の土橋を渡ってさらに登り、平入りの虎口を抜けると二の曲輪です。二の曲輪は南北に細長い曲輪で、周囲を土塁が取り巻いています。
二の曲輪から一の曲輪(主郭)への本来の登城路は、一の曲輪南西部の虎口にまっすぐ登るルートだったようですが、一の曲輪北下の帯曲輪を経て北側から入るルートに改変されています。一の曲輪の周囲は土塁が取り巻いており、北東部(祠の奥)は櫓台状に高く分厚くなっています。一の曲輪東側の虎口を出ると、東下に小さな腰曲輪があり、そこから北に土塁を越えて進むと、巨大な竪堀が東斜面に落ち込んでいます。その竪堀から西方向には岩盤を削り込んだ深く幅広い堀切が伸び、反対側の西斜面で竪堀となっています。堀切を越えた先にも竪堀が設けられ、北尾根からの侵攻への備えは万全です。
三の曲輪へは一の曲輪南部の虎口から二の曲輪南東辺の土塁上を行く……はずですが、虎口が封鎖されていたので、いったん二の曲輪に戻って南東辺の土塁に上がりました。二の曲輪と三の曲輪の間は堀切で遮断され、二の曲輪南辺の土塁が土橋状の通路となっています。三の曲輪も周囲を土塁が囲み、南端の八幡神社からの斜面を堀切で断ち切っています。二の曲輪と三の曲輪の間の堀切は西斜面では竪堀となっており、堀底を下りていくと、二の曲輪西下の横堀へと続いていました。横堀の南端の西辺からは土塁が北に続いています。
決して大きな城ではありませんが、横堀は幅広く、堀切は深く、各曲輪は分厚く高い土塁で囲まれ、虎口は未発達ながら土木量はなかなかのもので、大いに見応えがありました。
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2019/12/30 22:17
分類・構造 | 丘城 |
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築城主 | 安宅定俊 |
築城年 | 室町時代 |
主な城主 | 安宅氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切、竪堀 |
指定文化財 | 国史跡(安宅氏城館跡) |
住所 | 和歌山県西牟婁郡白浜町矢田 |