戦国時代に諫早の地を統一した「西郷尚善」が築き、高城と呼ばれたのが始まりだそうです。天然の岩盤の地形を巧みに利用した平山城で、今では諫早公園となっていました。
その西郷氏は、有馬氏・大村氏・龍造寺氏などから度々攻められるも何とか切り抜け、龍造寺隆信が沖田畷で敗れ死去した後、一時鍋島氏の配下となりますが、その後に豊臣秀吉の九州南下に従わなかったため、秀吉から所領を没収されます。
代わって城主となったのが龍造寺家晴(龍造寺の分家)です。家晴は蒲池城や柳川城の城主となって、本家の隆信とは少し距離をおきながら筑後を治め、攻めて来た大友勢の立花道雪や高橋紹運と戦います。秀吉が九州を制圧すると家晴は所領を没収されますが、秀吉に嘆願し、鍋島配下として諫早の地を与えられました。そして江戸時代に入りその子の直孝は独立した一万石の大名となり、龍造寺氏を改め「諫早氏」を名乗るようになります。しかし、病弱で江戸参勤が出来なかったためすぐに廃藩とされ、その後一国一城令で諫早城は廃城となったようです。しかし直孝は、佐賀藩の家老となる事で、諫早の地に居館を構える事が許され、諫早氏は存続する事ができしました。
天然の掘としていた本明川ですが荒れ川で洪水が多く、橋を架けてもことごとく流され続けたため、住民はかなりの不便を強いられたようです。江戸後期の1839年に、時の領主「諫早茂洪」は「絶対に壊れない橋を造れ!」と家臣に命じて石橋を造らせました。昭和に入り河川を改修し、川の流れは橋を通らないよう改善されたため、江戸期の橋は180年経った今では、庭園と共存する美しい橋として諫早市民に愛されています(写真①②)。
二の丸からは諫早市街を眺める事ができました(写真⑥)。中央の黄色い列車は島原鉄道(島原行)です。また現在は西九州新幹線もここ諫早駅に停車します。
夜は、諫早から北の海岸にある崎野自然公園のコテージに宿泊しました(写真⑧⑨)。海沿いで眺めがよく、コテージから見えた朝焼けの大村湾はとても綺麗でした(写真⑩)。
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