鎌倉を追われた梶原景時の孫・梶原景親が鎌倉前期に築いた城で、以降約380年にわたる梶原氏の居城となりましたが、梶原景義が織田信長に従って本能寺の変で討死し梶原氏が断絶すると、羽黒城も廃城となりました。その後、小牧長久手の戦いの際に小牧山城に対する羽柴軍の陣城として改修され、山内一豊や堀尾吉晴らが守将となっています。
住宅街の道から路地を入ったところの羽黒城址公園に駐車して登城開始。公園には羽黒城址の説明板、ベンチ、東屋が設けられ、説明板背後の前方後円墳(羽黒城古墳)が主郭部にあたります。主郭部の北裾には周濠を改修したと思しき横堀をめぐらせ、北西方向に伸びていました。古墳の前方部が主郭と考えられ、墳丘頂部には羽黒城址の石碑が立てられています。
羽黒城南西部の興禅寺は梶原屋敷と呼ばれた居館跡で、北辺に羽黒城の土塁が遺っています。また興禅寺には梶原景時をはじめとする梶原一族の供養塔や五輪塔が祀られていました。羽黒城から北に約100mの史跡庭園には、梶原景季が源頼朝から拝領し、宇治川の先陣争いで活躍した名馬・磨墨を祀った磨墨塚があります。磨墨にちなんだ馬の形の遊具(ジャングルジム+すべり台)もありました。
羽黒城から南南東に約700mの羽黒八幡は、小牧長久手の戦いの前哨戦とされる八幡林の戦いの古戦場にあたり、社叢林北辺の道沿いに「八幡林古戦場と野呂塚」の説明板が立てられています。八幡林の戦いはこの地で野営していた森長可を酒井忠次・榊原康政らが奇襲した合戦で、説明板から名鉄小牧線の踏切を渡った先には、包囲された長可を脱出させるべく奮戦し討死した野呂助左衛門・助三親子を祀った野呂塚があります。
…と、梶原一族と小牧長久手の戦いに何かと縁のある羽黒城散策でした。
 
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