麻田陣屋からの転戦です。徒歩にてアプローチいたしました。グーグルマップで経路検索してアプローチしたので原田しろあと館の開館時刻が正午ということは承知しておりました。9時前に到着してしまったので入館は断念いたしました。機会があったら、旧羽室家住宅を見学してみたいと思います。
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2025/03/21 07:03
2024/11/11 05:30
公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:原田城 (2024/10/05 訪問)
曽根駅から徒歩5分ちょっとで、原田しろあと館入口(34.772991、135.463292)に着きました。
築城年代は定かではないようです。 1547年(天文16年)には細川晴元の軍勢30,000騎が攻め寄せて落城しました。
1578年(天正6年)有岡城主荒木村重が織田信長に叛くと、有岡城攻めの付城として織田信長の家臣が在城したそうです。
遺構は残っていないようで、旧羽室家住宅付近で案内板と標柱を確認しました。
原田しろあと館の開館は土日の12時~16時です。(本日は土曜日ですが、時刻は朝の7時45分です)
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=今西家土居屋敷を目指す為、曽根駅から電車で服部天神駅に向かいました。
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2024/07/21 10:59
原田しろあと館スタッフの皆様 ありがとうございました (2024/07/20 訪問)
城跡と旧羽室家住宅(原田しろあと館)を訪問しました。
【原田城跡】
天正6年(1578)、謀反を起こし伊丹城(有岡城)に移った家臣の荒木村重を討つために、織田信長が改修した付城。
原田城は北城と南城から構成されており、天文16年(1547)の内紛で北城が落城して以降は南城が原田氏の拠点とされていたそうです。
南城は開拓が進んでおり遺構は消滅していますが、有岡城の戦いの際に利用された土塁は北城(館内)に現存しています。
当時この土塁からは西方面に有岡城を望むことができたそうです。また、信長軍が付城として利用した池田城、刀根山城などがこの原田城とともに有岡城の東側を囲っています。
荒木村重はこの戦乱で家族を捨てて尼崎城→毛利方へ移り、のちの本能寺の変によって信長の手を搔い潜ったという話をしろあと館のスタッフからお聞きしました。なかなかしぶといですね、、、
【旧羽室家住宅】
時間があったので、ついでですが国登録有形文化財に指定されている旧羽室家住宅の見学も行ってきました。
見学の際は館内の方が丁寧に説明してくださいました。
2階は立入禁止になっていましたが、1階は当時の家主さんの趣味・嗜好がほぼそのままの状態で残っており、和洋折衷の古式ゆかしい雰囲気がなんとも魅力的でした。
ついでのつもりで来たはずでしたが、見学後は応接室でスタッフの方々とお城トーク等で盛り上がりました。
長々と付き合っていただき本当にありがとうございました。
この投稿が届いていることを願うばかりです。
原田しろあと館は土日のみ開館しており、月によって色々なイベントが催されています。
また、季節の移り変わりを感じられる花が植えられおり、館内を四季が彩ります。
時間ができれば秋頃もう一度お伺いして、紅葉を観に行きたいと思っています。
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2024/07/08 06:42
原田しろあと館 (2024/06/21 訪問)
阪急曽根駅から西に徒歩7分くらい。
周囲は住宅地となっています。
原田しろあと館が城趾で説明板も立っています。
皆さんのレポートにあるように平日は閉館、やむなく外周を回るのみの登城となりました。
(とは言っても1周はできません。)
土塁が残りますが外から見上げるのみ。
少し西に行くと原田井の洗い場がありました。
かつては水路が巡っていたようです。
原田城は北城と南城で構成されますがしろあと館がある所は北城。
南城の跡にも向かいましたが更地となっていて遺構は残りません。
このしろあと館ですが開館日の土日にはイベントも催され、地元の皆さんの憩いの場になっているようです。
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分類・構造 | 平山城 |
---|---|
築城主 | 原田氏? |
築城年 | 鎌倉時代 |
主な改修者 | 織田氏 |
主な城主 | 原田氏、三好氏、中川氏 |
廃城年 | 慶長年間(1596〜1615) |
遺構 | 土塁、横堀跡 |
指定文化財 | 市史跡 |
再建造物 | 碑、説明板 |
住所 | 大阪府豊中市曽根西町4 |
問い合わせ先 | 豊中市教育委員会生涯学習推進室地域教育振興課文化財保護係 |
問い合わせ先電話番号 | 06-6858-2581 |