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ぎりょう

中世山城発掘現場を見学 「兵六館」 宮城県富谷市西成田 (2024/09/07 訪問)

宮城県富谷市の中世山城「兵六館」跡を訪れました。富谷市文化財課は今年6月から西成田地区にある九ヵ所の遺跡の調査を行っており、この日は県考古学会の中世・近世部会に向けた発掘調査現場の見学会でしたが、会員と同行した私も見学させていただきました。
総面積14ヘクタールの調査地のうち、8ヘクタールが兵六館の城域とのことで、山城跡は樹木が伐採されとても見やすい状況になっていました。標高70mほどの山上に曲輪、腰曲輪、堀切、土塁の遺構が確認されており、主曲輪では複数の掘立式建物跡も見つかっています。自身ここ数年地域の中世山城の調査を行ってきましたが、城の縄張りの全容が確認できる発掘現場の見学は初めてのことであり、大変勉強になりました。
この地域は多賀城にも近く古くからの交通の要衝。「仙臺領古城書上」や、「安永風土記御用書立」の成田村の項にも記載が無く、運用時期や館主は不明ですが、遺構の状況から15世紀末から16世紀前半かとの説明がありました。
なお、9月29日(日)には一般向け現地説明会も予定されており、詳細は富谷市のHPで確認できます。

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ヒロケン

2万2千石の大城郭 (2024/08/13 訪問)

人吉城は、球磨川と胸川の合流地点に築かれ、最高所に本丸、南側と東側は急崖、北側と西側を二の丸が囲み、さらに三の丸が囲む典型的な梯郭式の平山城です。中世の人吉城は近世人吉城の後ろに広がる城山、シラス台地上にあり、大堀切や谷で区切られている群郭式の城で、その一つの曲輪を改修して石垣を加えたのが近世人吉城です。

鎌倉時代、地頭として相良氏が人吉に入って以来、廃藩置県まで35代670年間取り潰しや国替えを経験せず相良氏が人吉を治めた珍しい例だといえます。

この日、ホテルを朝4時頃出て、5分ほど走り岩下門辺りから城内へ入り、トイレがある御館御門橋横の駐車場に駐車、まず、人吉城歴史館で100名城のスタンプを押し、御館御門橋から相良神社境内を散策、相良神社から脇道に入り三の丸へ。ここまでは、「やっぱり2万2千石だな」との思いがありましたが、三の丸に入ってすぐに二の丸を囲う石垣が目に飛び込んできて「すっげー」テンション爆上がり、特に中御門跡の石垣が恰好が良い(#^.^#)角度を少しづつ変えながらパシャパシャ画像を撮りまくり、二の丸、本丸を散策、興奮冷めやらず間に、御下門まで下りてきて、また興奮(#^.^#)、堀合門、水の手門跡、はね出し石垣見学後、気付けば6時過ぎ、汗だくなのでシャワーを浴びて朝食をと取らねばと思い、急ぎホテルへ直帰。朝食を済ませ予定通り、ホテルからすぐのICから九州自動車道へ。「しまったぁ~」再建された隅櫓・多門櫓北側長塀など見学するのを忘れてる。満足した人吉城ではありましたが、忘れ物を撮りにまた再訪しようと考えています。

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侍ホリタン

18年ぶりに一般公開中の二条城本丸御殿 (2024/09/10 訪問)

7年前の平成29年から耐震補強などの工事が行われていた世界遺産二条城にある本丸御殿、この度工事が完了、9月1日より18年ぶりに一般公開されています。一般公開はwebによる事前予約(別途拝観料も事前支払い)が必要で、予約した少人数のグループ毎に建物の中を見て回ります。事前予約は二条城のホームページで受け付けています。
本丸御殿は、明治27年(1894年)に明治天皇の命により京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したもので、後の大正天皇、昭和天皇の宿泊所として使用されました。
江戸時代から近代にかけての宮廷文化、建築を知ることのできる貴重な建物で国の重要文化財に指定されています。

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渋川城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県尾張旭市にあった城です。城びとには未登録の城址です。遺構はありません。北島公園に説明板がありました。中世の平城で堀と土塁に囲まれていたことはわかっていますが、城主や築城時期などは詳しくわかっていないようです。

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印場城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県尾張旭市にあった城です。城びとには未登録の城址です。遺構はありません。尾張旭市西部浄化センター前に説明板がありました。平地に造られた平城で、堀と土塁に囲まれていました。調査では、当時の人々が使っていたとみられる天目茶碗や漆器類、木製品などが発見されています。
城主は坂井弥兵衛と伝わっていますが詳細は不明です。

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瀬戸川城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県尾張旭市の三郷小学校の西側にあった城です。城びとには未登録の城址です。石碑と説明板がありました。井田城主浅井玄播允の弟である浅井源四郎が築いた城と言われていますが、詳細はわかっていないようです。1977年から始まった発掘調査では、平城で、土塁と堀があったことが分かっています。

尾張旭市内の城跡は、新居城を除いて、平城で川のそばに築かれています。これらの城は、防御の意味だけでなく、水利を支配する目的もあったのではないかと考えられています、と尾張旭市のHPに書いてありました。

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井田城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県尾張旭市にあった城です。城びとには未登録の城址です。八反田公園に石碑と説明板がありました。昭和53年の発掘調査で東西約66m、南北約67mのほぼ正方形で土塁と堀を巡らせていたことがわかっています。
浅井玄蕃充の居城と伝っています。戦国時代には林三郎兵衛正俊の居城になっていたようです。

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本地城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。瀬戸市西本地町付近にあった城です。城びとには未登録の城址です。遺構はありませんが、石碑と説明板がありました。城主松原平内は、今村城の松原広長の叔父にあたる人物で、広長と共に安戸坂の戦いで亡くなり、本地城はその後、廃城になりました。
お城は現在石碑が建っている場所ではなく、北に流れる矢田川の更に100m位北にあったようです。

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今村城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。松原市の城で愛知県瀬戸市共栄通の八王子神社付近が城址です。城びとには未登録の城址です。応仁・文明の頃、今村城主であった松原広長は桑下城主である永井氏と安戸坂の戦いで戦死したと伝わっています。城の規模は東西50 間(90m)、南北60 間(108m)、四方に幅5 間(9m)一重の堀を巡らせ、南側のみ二重の堀となっていました。土塁の高さは2丈(6m)の城構えであったことが推定されています。八王子神社北西端に外堀の一部が池として残っています。井戸もありました。

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大津城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県瀬戸市にある城です。城びとには未登録の城址です。児童公園となっていて「大津氏祖宗碑」の石碑と「大津城由緒」の説明板がありました。大津八郎右衛門重俊が1555年(弘治元年)に近江よりこの地に赴き大津城を築いたとされています。元亀~天正年間に、武田軍に攻められて落城し、天正年間に廃城となったという説もありますが、武田氏がここまで攻め込んできたのか否か疑問です。

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菱野城 (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県瀬戸市にある城です。城びとには未登録の城址です。赤津川南の民家の近くに説明板がありました。それによると近くの水路が堀跡を利用した唯一の遺構だそうです。
瀬戸ぺディアによると「山口川(矢田川)の高座橋のやや下流左岸(南側)には、羽根屋敷と呼ばれる小高い台地状の土地がある。ここには戦国時代に林次郎左衛門が居城したとされる菱野城跡である。林次郎左衛門は永正十四年(1517)の菱野熊野社の棟札にもその名が残り、田幡(名古屋市北区)から狩宿・井田(尾張旭市)周辺まで勢力を伸ばして織田家の重臣も輩出したとされる。
 また別の考証では、鎌倉時代初頭に山田荘の地頭職に補された山田重忠がこの地域を支配し、その後その係累の山田泰親・親氏兄弟が居城、城構えは東西三十九間・南北五十三間、土居・堀跡などの一部を残す現在地がそれという。山田泰親はその後上菱野に山口城を築造している。」とあります。

 瀬戸市には瀬戸ぺディアという瀬戸市の歴史、自然、文化などを紹介する瀬戸市の百科事典を自称するサイトがあります。城址の事も丁寧に掲載されていて助かります。さっそく利用してみました。


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山口城(上菱野城) (2024/09/14 訪問)

 夏の終わりの尾張城散歩。愛知県瀬戸市にある城で、城びとには未登録の城址です。本泉寺が跡地です。山門近くに説明板がありました。土塁と堀の一部が残っています。鎌倉時代、山田泰親が子の山田重元に地頭職を譲って隠居するにあたり居館として築城したと伝わっています。本泉寺を建立し1283年に廃城となりました。

 瀬戸市にある城址の多くには「せとモノがたりの会」の方の説明板が設置してあります。よく知られていない城が多く感謝しています。

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三浦の晃ちゃん

整備された。 (2024/09/14 訪問)

20数年ぶりに、訪問しました。以前に来た時は、まだ、大学が移転したばかりの頃でした。
今は、復元されているものも多く、見応えがありました。石川門の中に入れたのも、面白かったです。

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にのまる

天空の城下町 (2024/09/04 訪問)

沼田駅から急坂を登りますが、心臓破りの滝坂も河岸段丘体験中と思えばきつさも楽しさに変わります。
観光案内所に寄ってから園内を散策しました。沼田公園のシンボルである鐘楼、二重櫓があったとされる西櫓台石垣、想像力で再建してみる天守台、長大な石垣が足元に埋まっている本丸堀。小松姫と真田信之像は正面から見ても甲冑に身を固め心に秘めた決意がにじみ出る表情がすてきですが、後ろから見ると二人が信頼しあい、同じ方向を見ているのだということをより一層感じました。また、展望所から名胡桃城をさがしたり天空の城下町を実感したりと、心ゆくまで楽しみました。

その後、小松姫の墓所である正覚寺に向かいました。途中、市営の駐輪場があり、駅に近いわけでもないのに何でだろう?と思ったのですが、ここはまだ坂の上で、駅までの急坂を自転車で上り下りするのが大変なんだろうなと思いました。

立派な山門やコウヤマキが目を惹く正覚寺。小松姫(大蓮院殿)のお墓は彼女の印象そのままの背が高く上品な宝篋印塔で、今でも沼田城下を見守っているかのようでした。また同所には大正時代に沼田城の荒廃を憂い、敷地を購入して公園整備して町に寄贈された久米民之助翁の墓所もありました。久米翁によって息を吹き返した沼田城は、ひとつには市民が憩い活動する場として、もうひとつには歴史の証人としてかつての姿を後世に伝えるという役割をもって在り続けています。その二つがうまく重なり合ったすばらしいお城だと思いました。

そして帰りなのですが、沼田駅で試運転中のSLに遭遇!本当はこの3日後のSLぐんま運転日に沼田へ行こうと思っていたのですが進行方向窓側の席が予約で埋まっていたため諦めてこの日にしていました。なので偶然の出会いにびっくり。人生何がどう転ぶかわからない。名胡桃城から2時間かけて来たのもここに導かれるためだったのかと(極めて都合よく)解釈し、出発の汽笛を高らかに鳴らし、もうもうと黒煙をあげて彼方(高崎)へと走り去る姿を見送りました。そしてつかず離れずの間隔で上越線で追いかけました。

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にのまる

青空が似合うお城。 (2024/09/04 訪問)

18きっぷも残り回数と使用期限が終わりに近づいてきました。
名胡桃城は前回訪問時の記憶がお城それ自体よりも“歩くのが大変だった”という方が強かったため、このままではいけない、思い出のアップデートをしなければ!と出かけてきました。

上越線「後閑」駅で下車。夏の陽ざしを浴びた稲穂が黄金色に輝いています。
その向こうに見える月夜野大橋を歩くのが前回辛かった思い出があるのですが、このたびは周囲の景色を楽しむ余裕もあって快適でした。

30分ほどのウォーキングで名胡桃城に到着。案内所で係の方とひとしきりお話ししてから見学に繰り出しました。暑いなか草刈りをしてくださっていて、感謝しかありません。

馬出から三郭→二郭→本郭と喰違虎口や堀切を説明板で学習しながら見学しました。ささ郭の先端まで来ると見晴らしのよさに心奪われ「ここを歩きたいスイッチ」が!!
月夜野大橋を渡っていた時に眺めた景色。ここを通って後閑駅まで戻ろう!

前回は帰りに小川城に行きがてら上越新幹線の上毛高原駅まで歩いたのですが、途中まではその時と同じです。案内所の方は「目印が何もないから……」と心配してくださったのですが、遠くまで見渡せるので、高層ビルが乱立していたり住宅がびっしり建ち並んだりしているところよりもはるかに進む方向を定めやすかったです。最高に気持ちのいいお散歩でした。また、途中のみなかみ中学校から聞こえてきた合唱のハーモニーがとても美しくて、立ち止まって聞きほれてしまいました。ほんとうにすばらしかったです!

最後に利根川を渡るあたりで、どのくらい歩いたかな?と振り返ると山の中に名胡桃城の幟が小さく見えました。
「おーっ!あそこに城があるぞ!!」幟が狼煙に見えてきてなかなか感動ものでした。

とゆっくりゆっくり歩いて後閑駅に到着しましたが、お隣の沼田へ行く上越線の時間まではまだ30分以上あります。
名胡桃城から沼田城まで自動車なら15分程度。時間が合えばバス便もありますが、乗車時間4分の上越線をじーっと待ち、2時間かけて次の沼田城へ向かいました。
歩くの大変だった→歩くの楽しかったに思い出を上書きできてよかったです。

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ゆーこ

壮大な石垣 (2024/06/15 訪問)

松阪駅から10分ほど歩くと、街中に壮大な石垣が現れます。
(明治より町名が松阪になりました)


築城者は蒲生氏郷。私が二番目に好きな武将です。
築城に関してはあまり目立っていませんが、相当なプロですよ!
安土城を身近で見ていますので、それを築城、街づくりの参考にされているかと思います。


近世城郭初期の頃の城なので、野面積み中心です。
何度も折れ曲がらなくては本丸上段へ向かう事ができない構造、
防御の本気を感じました。



松阪はあの三井家発祥の地でもあります。

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赤い城

六萬寺陣所 香川県高松市 (2024/09/01 訪問)

ことでん六万寺駅から徒歩で10分、六萬寺駐車場も利用できます。
六萬寺は730年、聖武天皇の頃に建立された古いお寺です。

源平合戦の古戦場で門前には石碑が立っています。
安徳天皇の仮御所として利用されたとのことです。

戦国時代になると長宗我部元親が八栗城攻めの際に陣を置きました。
六萬寺隣の神社が建つ部分は一段高くなっていてここが本陣跡と思われます。
で、背後の丘を登ってみると薄いですが土橋と空堀の跡もみることができました。
さらに登り、山頂部に行くと祠があります。
八栗城の状況を伺う物見の役割があったのかな?

お寺に設置されている説明板には周辺の源平合戦関連史跡も記されていました。
いつか廻ってみようかな。

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にのまる

小山氏城跡 (2024/08/28 訪問)

JR水戸線の小山駅と小田林駅の間の線路沿いです。何とか線路伝いに行く近道はないかと乗車中に目を凝らして見たのですが無理そうだったのでGoogleナビさんに従って小田林駅から県道沿いを歩きました。片道30分くらいでした。
途中の川(西仁連川)に古い県境標があり、栃木県と茨城県を行ったり来たりしていることにようやく気づきました。電車と徒歩で県境越え2往復です。
県道から左に折れて少し進んで見えてきた小さな森が中久喜城で、城址碑と説明板の奥に大きな空堀がありました。ここは曲輪Ⅰの北側にあたるようで、お城はその外側の曲輪Ⅲと西側の曲輪Ⅱで構成されていたそうです。
見学させていただいた曲輪Ⅰは私有地のようでしたので、先に畑でお仕事をしておられた方にお断りを入れました。
「←順路」に従って進むと水戸線の城山踏切。電車で城内を駆け抜けたところにやっと戻ってきました。単線なのもあってか“分断された”という雰囲気は感じませんでした。踏切を超えると大きな空堀跡。さらに進むとこのお城の見どころである桝形虎口。外からは想像できなかった土塁に囲まれた広い曲輪に“何もない”うれしさを思いました。
帰りも小田林駅に戻って水戸線で小山へ出ます。ここで〈電車内から城山踏切を撮る〉ミッション発令。
ワンマン電車だったので後方の窓からパシャパシャやってミッションクリアしました。わりと一瞬でしたがテンション↑↑でした。

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にのまる

小山氏城跡 (2024/08/28 訪問)

祇園城(小山城)に行った際に、祇園城・鷲城・中久喜城が「小山氏城跡」として国史跡に指定されていると知り、鷲城と中久喜城はその存在さえ知らなかったので行ってみることにしました。
小山駅から路線バスで小山総合公園へ。ほぼ土塁に沿って住宅街を歩き、外城である鷲神社への参道を通りました。時期的なこともあってか遺構パーツはあまり確認できませんでしたが、広大な城郭であったことが理解できる大きな土塁でした。

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にのまる

佐野ラーメンといもフライは持ち越し (2024/08/28 訪問)

【佐野城跡・城山公園】
18きっぷ5回目利用で出かけました。
改札口を出て右に折れるとアーチ屋根の先に広がる鮮やかな緑の芝。一瞬で時を超え、いにしえの世界へと引き込まれます。
城山公園として整備されている主郭部は三の丸から北出丸までの直線が連郭式を理解しやすく、それぞれを隔てる空堀も見事でした。特に二の丸と本丸の間の空堀は上から覗いても下から見上げてもかっこよかったです。
本丸の発掘された石垣と通路を示す石のラインは絵図や写真で想像する昔の姿を補完してくれます。本丸を抜けた北出丸では窮屈感や閉塞感を感じ、“遊び”のない空間に、本丸防御の重要な役目を果たしていたということが感覚的にも理解できました。

【犬伏の別れの地】
『真田丸』の頃から行ってみたかった新町薬師堂へ行ってきました。関ヶ原の戦いを前に、徳川方と豊臣方、どちらが勝っても真田の名が残るよう親子が分かれて戦うことを決断したとされている場所です。
佐野駅(佐野城)からは約3㎞。佐野市生活路線バス「さーのって号」の犬伏線で「犬伏薬師堂西」下車です。
薬師堂の後背に聳える山は米山古墳だそうで社殿の横に登山道らしき道が見えました。
薬師堂には犬伏の別れの説明板のほか昌幸・信幸・信繁親子の甲冑が飾ってあり、かの地に立てただけで大満足でした。また、すぐ近くに「別れ橋(があったと伝わる場所)」があり、ここでも大きな別れの感傷に浸ってきました。
「さーのって号」は1日5本しか運行されておらず、帰りはバスを待つより歩いたほうが断然早いので、例幣使街道を歩いて戻りました。暑かったです💦


#福山城×東横イン、クイズだと察してくださりありがとうございました。
お出かけ先は『ひみちゅ』の語感で『ひめじ』でしょうか?

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