釜蓋城(長崎県)を掲載。天正遣欧使節千々石ミゲルの生誕地である千々和にある釜蓋城は「かまぶた」が正しい読み方。天守風の模擬建築が辛うじて城跡感を醸し出す。千々石はまた軍神橘中佐を生んだ土地でもあり中佐を祀る橘神社が釜蓋城の麓に鎮座する。
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2025/09/01 19:55
千々石ミゲルと橘中佐 (2025/01/26 訪問)
釜蓋城(長崎県)を掲載。天正遣欧使節千々石ミゲルの生誕地である千々和にある釜蓋城は「かまぶた」が正しい読み方。天守風の模擬建築が辛うじて城跡感を醸し出す。千々石はまた軍神橘中佐を生んだ土地でもあり中佐を祀る橘神社が釜蓋城の麓に鎮座する。
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2025/09/01 19:47
日新館 (2024/09/17 訪問)
会津若松城の西側に史跡・日新館天文台跡がありますが、現在公開されている日新館の中にも展望台があり、周囲を良く眺望できます。
日新館は元々、若松城の西隣にあったとされるので、今公開されているものは少し離れた場所に復元されたものになりますかね。
実際、若松城の周辺は開発が進んでいるので、やむを得ないですね。おかげで集客に苦労しているようですが、訪れて絶対に損は無いと思います。白虎隊の団結の強さを見ると、日新館での生活は厳しいながらも充実し、楽しいものであったと思います。
明治2年(1869)9月、旧会津藩松平家に家名再興が許され、松平容保の嗣子の幼少の容大を伴って斗南3万石で封じられました。
藩領は青森県下北半島の一帯・十和田湖の東側と、北海道の後志支庁瀬棚町のあたりで実質7千石程度であったようです。そんな僻地に17327人もの人が移り住んだので、非常に苦労したそうです。
正直、明治政府って陰湿だと思うんですよ。石高詐欺とかありえんし。
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2025/09/01 18:47
得意の途中下車で…🚉 (2025/06/28 訪問)
JR笠岡駅で途中下車。ところが,コインロッカーは「小」のみ…<泣>。猛暑の中,キャリーバッグ持ちはキツイな…と思って,周囲を見渡したら「笠岡市観光協会」を発見❢
早速,キャリーバッグを預かってもらえないか交渉…。結果,レンタサイクル利用で預かってもらえることとなりました。1日単位の貸し出しで,電動は【1,500円】,普通は【700円】。暑かったので,少々高額と思いつつも電動をチョイスしました。
あっという間に山頂にたどり着いたので,少々拍子抜け状態でした。
ま,熱中症回避のための出費ととらえました。
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2025/09/01 15:30
会津藩校日新館 (2024/09/17 訪問)
日新館は享和3年に完成した会津藩の藩校です。広い敷地内に日本最古と言われる水練場も備えていました。会津藩の子弟に対しエリート教育を行い、白虎隊の隊士達もここで教えを受けました。彼らは十歳になってから日新館に通いますが、六歳から九歳までの男子は十人前後で「什(じゅう)」と呼ばれるグループを作り、リーダーである什長によって「什の掟」などを教え込まれたようです。
最後には例の「ならぬことはならぬものです」で締めくくるのですが、ちょっと危ないですな。
敷地内の幕末慶事記念室には会津落城時の展示も有り、砲撃でぼろぼろになった若松城の模型もあります。小田山(城)は若松城を砲撃できる好所にあり、ここを官軍に奪われたことで若松城に砲弾が降り注ぎました。小田山城は元は蘆名氏の本城でしたが廃城後は蘆名氏や会津藩の家老の墓地になっていました。「小田山とられて戦はするな」という伝承が残っていたようですが、結果その通りになってしまいました。
幕末から明治にかけては高所から敵地に砲撃を仕掛けることは有効と見られ、旅順攻囲戦における203高地もそれに当たると思います。
私の考えでは関ヶ原の南宮山周辺や自害ヶ嶺のあたりも砲撃戦の陣地を想定していたのではと考えます。
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2025/09/01 14:00
2025/09/01 12:44
【宮本武蔵】(3)岩国城(小次郎伝説-その1) (2025/08/25 訪問)
宮本武蔵の続き(3)です。
まず武蔵の最大のライバル、佐々木小次郎の話から始めます。小次郎の出身地には3つの説があります。
① 越前説(福井市一乗滝)
② 周防説(岩国市錦帯橋)
③ 豊前説(添田町岩石山)
越前説は、「二天記」によるものです。朝倉家の剣術指南役であった富田勢源に指南を受け、一乗滝で燕返しは編み出されたとされています。しかしこの二天記は、二天一流の兵法を継ぐ細川藩松井家(八代城主)の家臣が、武蔵没後130年も後になって、小倉碑文を基に数々の言い伝えを書き加えたもので、実際に彼が見聞きした話ではないので、信憑性に欠けるのではという意見もあり、また勢源・小次郎・武蔵の互いの年齢のつじつまも合わないなど、多くの疑問も残されているようです。
周防説は、吉川英二さんの小説によるもので、小説の中でのみで岩国の地名が出てきます。他のどの資料にも岩国の地名は出てきません。岩国城に天守があったのは1607-1615年ですから、小次郎がいた時期とは一致していますが、錦帯橋ができたのは小次郎が没してから60年後の1673年なので、錦帯橋の柳の下で燕返しを編み出したとする小説の内容には、少し矛盾があるようです。よってこの説は吉川氏の創作ではないかと言われています。しかし今ではドラマなどで大々的に岩国は宣伝されており、地元の観光の目玉にもなっているので、山口県の方々のためにも、そっとしておきたいと思います。この日は気温35度、私はあまりに暑かったので、佐々木小次郎商店のアイスに引かれ、巌流ゆかりの柳の下で燕返しを想像しながら食べました(😊冷たくておいしい)(写真⑥⑧⑨)。
この佐々木という苗字も実はうそだそうです。小倉碑文には、小次郎の苗字が佐々木だなどとは書かれていません。岩流の小次郎とのみ記されています。岩流は流派のようです。佐々木は1730年頃(江戸中期)に小次郎役を演じた歌舞伎役者が佐々木という役者名だったので、それから佐々木の小次郎と呼ばれるようになり、その後1776年に出た二天記の本文には岩流小次郎(注釈には佐々木小次郎)と書かれ、吉川氏の小説のみ佐々木小次郎が使われています。よって私は小次郎で通したいと思います。小次郎が若くてイケメンだったという話も、ドラマを面白くし女性の視聴者を獲得するために、テレビ局が脚色した話ではないでしょうか? よって(写真⑦)のように本当に若くてイケメンだったのかは、これも私は謎のままとしておきたいと思います🤔。
もう一つは、まだ人気のないマイナーな説ですが、豊前の岩石山(がんじゃくやま)で生まれたという説があります。私は九州人なので、あえてこの説で次の話を進めて行こうと思います(すいません、小次郎も謎多き人物です)。
次はその豊前説が残る「岩石城」を訪れます。
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2025/09/01 10:44
西の丸Ⅲの曲輪はどこかな? (2025/02/25 訪問)
今年の2月25日、冬枯れ、灌木伐採、草刈されて居るのだろうと、各遺構、石垣、土塁、空堀、曲輪が写真撮り良い頃と探訪へ出かけました。予想通り灌木伐採、草刈整備され、晴天でも有りベストコンデションでした。
さて以前より西の丸Ⅲの曲輪跡が気に成り何処なのかな?と西の丸を何回となく登り降りしていますが良く分かりません、浜松市文化財課発行の二俣城跡実測縄張図(本丸跡の案内板に記載が有ります)に依ると、本丸天守台西下尾根先?、西の丸Ⅰ、Ⅱの北上に位置するようですが現地では良く分からない、天守台下の灌木など伐採されているが覗いても良くは分からに、二の丸と南の丸Ⅰ間の堀切(三号堀)より西の丸方向へ降り、二の丸下本丸天守台下への細い道でもないかと探すが無い、西の丸Ⅰ、Ⅱから北へ直登かな?頭をよぎったが脚力に自信がない、見渡してよく見ると虎ロープで仕切られて立入禁止の注意書が貼られてる。
結局は西の丸Ⅰ、Ⅱより北側の尾根稜線が西の丸Ⅲ曲輪の稜線なのだろうと了解した次第? 発掘調査現地説明会でも有ったら訪ねてみたいと思っております、現状は直登り禁止で足場は大変危険です。
尚、天守台西下から西の丸Ⅲ方向を覘いた写真4,5,6,7は当日撮り切れていなかったので、4月9日にスマホで撮影したものです。西下方向へ降りれそうですが虎ロープ、ザイル支持で降りて行かないと滑りそうで危険でした、で覗くだけとしました。
沢山写真を当日撮っていますので、折りを見て各曲輪、遺構別に投稿させて頂きます。
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2025/09/01 08:25
金沢城 (2013/08/11 訪問)
金沢城の投稿ですが、初めて訪れた時なので写真が古いです。天守閣は無いのですが、いろいろと感銘を受けたのを覚えています。改めて見ると、まさに石のテーマパークです。百間堀は長さ270m、幅68.4m、水深2.4mの水堀跡で今は道路になっています。大阪城の高石垣ほどの迫力はありませんが、ここの石垣も見事なものです。東ノ丸北面石垣は城内でも最も古い物で「野面積」で築かれた利家の時代のものです。個人的には野面が一番好きですね。
城内には様々な「石積」の展示が有り、石川門の石垣は左右で積方が異なっています。左は打込接ですが右側は切込接で明和2年(1765)の改修によるものと考えられています。あまりに綺麗に詰んであるので、初めて見た時は戦後に機械で削って積んだものかと思いました。
これを人の手で加工して積んだのかと考えると、びっくらポンですわ。
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2025/09/01 08:04
円通院 (2015/05/05 訪問)
宮城県の松島町にある円通院は伊達政宗の孫である伊達光宗の菩提寺です。光宗の母は徳川秀忠の養女・振姫で振姫の実際の両親は、池田輝政と督姫です。督姫は徳川家康の次女でこの人の最期も少し怪しいんですね。
バラが有名で「薔薇寺」の名でも知られますが、訪問時には咲いていませんでした。それでも境内の青紅葉は綺麗だったし、境内を廻っているといろいろ興味深い物もあります。
岩穴には伊達宗高の宝篋印塔と殉死者たちの供養塔が有ります。宗高は伊達政宗の七男で寛永13年(1626)20歳の若さで京都で天然痘にかかり亡くなりました。赤坂兵部をはじめ侍女を含む十名が殉死したとされています。
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2025/09/01 07:02
北海道&東日本パスで青森の城めぐり④ (2025/08/17 訪問)
平ヶ崎館からの転戦です。国の史跡だけあって見応えのある館跡でした。南部氏発祥の地ということで町名も南部町になっています。南部家の菩提寺・三光寺は境内への立ち入りは勿論、写真撮影も禁止するという観光客を寄せ付けない寺院ですが、その先にある聖寿寺館跡案内所にて申し込めば、南部利直が目をかけていたという南部利康の霊屋を300円で見学することができます。重文の霊屋は撮影禁止でしたが、もちろん見学してきましたとも。
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2025/08/31 21:37
権現山合戦 (2024/12/30 訪問)
権現山城は現在は幸ヶ谷公園になっていて、遺構は残っていません。かつては青木城も権現山城に組み込まれていたようで、線路で遮断されている部分が堀切だったようです。
古くは観応3年(1352)足利尊氏が新田義宗・義興らに追われて鎌倉を逃れ武蔵狩野川の城に立て籠もったとされますが、それが権現山城ではないかと言われています。
永正7年(1510)には権現山合戦の舞台にもなりました。伊勢新九郎長氏(北条早雲)は長尾景春と共に、越後守護代長尾為景に通じ、扇谷・山内両上杉氏と敵対しました。権現山城には長氏に扇谷上杉氏からの離反を促された上田政盛が蜂起し、上杉方の二万の軍勢が権現山城を取り囲んだそうです。今でこそ面影はありませんが、権現山城の守りは堅く9日に渡って敵の猛攻に耐えますが、ついには火がかけられ落城したようです。
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2025/08/31 20:41
タケヤブラー (2025/06/28 訪問)
現地の案内板によれば鎌倉時代の武士(岩野氏)の館跡で東西に二つの屋敷跡が残っているとの事です。訪問してみると主要部の周辺にも土塁が残っています。西側の館跡の方が土塁や虎口の形状が良く解り、館の周囲には堀も残っています。見たところ西側の館跡が主郭のようで北側に虎口が付いています。
いかんせん、竹が密集していて、移動がシンドイので土塁の上を歩きながら形状把握に努めました。
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2025/08/31 19:33
銀閣寺・東山慈照禅寺 (2013/09/22 訪問)
慈照寺は室町幕府8代将軍・足利義政によって文明14年(1482)~延徳2年(1490)にかけて建てられました。城びとだと中尾城の入り口あたりになりますが、中尾城へは訪問していません。
三代将軍足利義満が北山山荘(北山殿 現金閣寺 ・鹿苑寺)を築いて4代将軍足利義持の後見を行ったように、義政も時代の将軍(義視→義尚)の後見を東山山荘(東山殿 現銀閣寺・東山慈照禅寺)で行うつもりでいたようです。義政は東山山荘の完成の前に亡くなりますが、完成する前からここで生活をしていたようです。金閣に代表される華やかな義満時代の文化を「北山文化」といい、わび・さびの効いた渋めの義政時代の文化を「東山文化」と呼ぶようです。
足利義政というと、政治から目をそらして「引きこもり」してたイメージがありますが、実はいろいろと忙しかったようです。そりゃ、今の時代の「引きこもり」と一緒にしちゃいかんわな。
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2025/08/31 18:36
岸和田のステキな天守と本丸虎口 (2025/06/21 訪問)
真夏日の6月に訪れた大阪府岸和田市の岸和田城。
大阪平野南部、海沿いの比高5mほどの段丘の縁に築かれた城。
段丘の縁を二の丸、縁から離れた方を本丸とし、その2つをコの字型の二の曲輪と三の曲輪で囲んだ縄張。
大阪から堺を経て紀伊国に至る海岸沿いの陸上交通に加え、大阪湾の海上交通も監視したでしょうか。
築城時期は定かでないが、1500年代は和泉松浦氏や中村一氏などが城主となり、小出秀政の時代に大改修で天守を建設。
徳川の時代になると1640年からは岡部氏13代が城主を務めました。
現在は、本丸と二の丸の水堀と石垣が残り、天守や本丸隅櫓、本丸櫓門が復元されている続100名城。
周辺も公共施設などが建つが、遺構の可能性がある石垣が僅かに点在。
実際に訪問すると、東側から見た三層復元の天守が予想以上に優美。
本丸南側の多段の折れを有する石垣も見応えがあり、更なる個人的な見どころは本丸虎口。平面図では平虎口だが、櫓門をくぐると1段高い本丸が壁となり直進を許さず、侵入するには左右の坂と階段を上るシステム。
そんな本丸虎口におもしろさを感じた、私の城郭巡りの209城目でした。
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2025/08/31 17:09
城館造りの城 (2025/08/13 訪問)
鹿児島城(鶴丸城)は、72万9千石の大大名島津氏の居城です。72万9千石(前田家に次ぐ2番目の石高)の居城にしては、天守無し・重層櫓無し・高石垣も無し・水堀は狭く浅い、典型的な城館造りの城といえます。ただ島津家に「人をもって城となす」という言葉があり、物理的な城に頼るのではなく、人々を大切にし、育て、その力で国や地域を守るといった教えで、島津氏が人材の育成に力を入れていたことが分かります。
ただ、城山の麓に築城された鹿児島城(鶴丸城)は本丸と二の丸の二曲輪からなり、南北約750m、東西約200mの規模で構成されており、再建された巨大な櫓門、御楼門や鬼門除けの隅角を欠いた入隅石垣、西南戦争の銃弾跡が残る石垣等々見所も沢山ありお城ファンを楽しませてくれています。
今回、鹿児島県に初上陸し城跡や観光地巡り、温泉巡りを楽しみ3泊4日で帰宅しましたが、「鹿児島良いわ」(*^▽^*)霧島温泉の泥湯、指宿の砂蒸し温泉、黒豚しゃぶしゃぶ、さつま揚げ、白熊(かき氷)、種類が豊富な焼酎、雄大な桜島、霧島神宮、知覧特攻平和会館とまあ、見るもの食べるもの全て新鮮で、また直ぐ行きたい。
集中豪雨(線状降水帯)の影響で、一部地域で断水、道路崩落で一部通行止め等がありましたが、✌('ω'✌ )三✌('ω')✌三( ✌'ω')✌鹿児島旅行でした。
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2025/08/31 15:13
元気すぎる雑草 (2025/08/11 訪問)
津賀大膳の居城だった「津賀城」。広い駐車場が完備されている城址公園でした。
駐車場には先客。お隣にグラウンドがあり、サッカーをしている男子たち。
「津賀城」は鹿島アントラーズの本拠地、鹿嶋市にあります。
公園の案内板がありました。ビリビリ部が目立ちますが本丸であろう広場に向かって歩きました。
この日は雨の予報が、強風波浪注意報に変わりました。木が大きく揺れてます。
足元を見て歩くと、マンホールがありました。
アントラーズデザインかと思ったら『キジ』でした。鹿嶋市の鳥がキジなんだそうです。
最近、マンホールがカラフルで切り絵みたいなデザイン、ついつい見てしまいます。
ちなみに、私の住む東京の端っこは『キリン』でした。
キリンがメインの動物園があります。あとは多摩川の堰。
えっと、「津賀城」に話をもどします。説明板があり横には階段があります。
写真⑤です。登ると写真⑥、進めません。
断然、秋から冬をおすすめします。
こんなに酷暑なのに、雑草は本当に強いです。
只今、秋冬のお城シーズンに向けて、本丸を雑草が守っている「津賀城」攻めでした。
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2025/08/31 12:21
亀城とマンホールカード (2025/08/31 訪問)
猛暑の中、土浦駅から徒歩で登城。駅の観光案内所で道順を教えてもらい、途中埋め立てられた外堀や有形文化財の蔵や城下町を抜け、暑かったけど15分で到着。
櫓門をくぐると本丸跡、東櫓、西櫓を散策できます。
ちなみに土浦はマンホールカードが7種もあるので続100名城スタンプと共に楽しめました。
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2025/08/31 11:23
小早川秀包 (2014/01/07 訪問)
これも古い写真になりますが久留米城の投稿です。本丸跡に篠山神社が建てられ周囲には高石垣が残っています。天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定後に小早川秀包が13万石で入り、近世城郭に改修されました。関ヶ原の合戦で秀包は西軍についたため改易となり、筑後32万5千石に封じられた田中吉政は柳川城に入り、久留米城は慶長20年の一国一城令により一旦、廃城になりました。
田中氏が無嗣子改易となった後、有馬豊氏が21万石で入り、久留米城に改修を施し居城としました。二度目の改修も大規模なものだったようで、秀包時代の久留米城も見てみたい気がします。
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2025/08/31 11:09
鳥羽・伏見の戦いのキーポイント (2025/08/28 訪問)
京都の淀城に行ってきました。
京阪電鉄のガード下にある京阪パーキング 淀駅前に駐車しました。
眼前に天守台が見えます。
淀城は、本丸から右回りに二の丸、三の丸と曲輪を並べてゆく渦郭式の縄張りで、桂川と木津川が合流する水陸の要衝の地に築かれた平城です。
今はすっかり埋め立てられて、本丸の内濠と石垣の一部しか残っていません。
本丸址は現在公園で、与杼(よど)神社と藩祖の稲葉正成を祭神とした稲葉神社の境内も含まれます。
なお、豊臣秀吉が於茶々(後の淀殿、淀君)のために築いた城は淀古城址とよばれ区別されています。
位置も徳川の淀城より北にあったようです。
1868(慶応4)年1月に起きた鳥羽・伏見の戦いにおいて、敗走する幕府軍は淀城に助けを求めました。
しかし、淀藩は幕府を大きく裏切り城門を開けませんでした。。
当時の藩主であった稲葉正邦(まさくに)は、江戸幕府の老中を務めていたにもかかわらずの裏切りです。
しかし薩長軍から見れば勝利に大きく貢献したようで、このため、わずか数ヶ月後に明治天皇の宿泊にも使われています。
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2025/08/31 10:02
城下町 (2013/08/10 訪問)
ちょっと古いのですが一乗谷朝倉氏遺跡の写真です。一乗谷城は山城と麓の朝倉氏居館を中心とした城下町から成り、城下町をこれだけ解りやすく再現した遺跡はなかなか無いと思います。ひょっとして唯一の物ではなかろうか。山上の城には行っていません。
南北に城戸があり、その間の1.7kmの間に商家や町屋、武家屋敷などが整然と並んでいます。織田信長との闘いでこの町全体が炎で包まれたと思うと世の無常を感じます。
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