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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:松坂城 (2025/06/05 訪問)

阪内城から自転車で50分くらいで、①来迎寺入口(34.571018、136.531816)に着きました。
そこから以下の順番で巡りました。
 ②来迎寺移築城門(34.57144、136.532690)来迎寺裏門
 ③御城番屋敷土蔵(34.575076、136.527304)
 ④本居宣長からくり人形(34.575076、136.527304)

松阪城は今回2回目の攻城です。1回目は2018年8月7日に来ました。
前回は松阪公園を中心に攻城しましたので、今回はその他の建造物を巡りました。
最後に見学した「本居宣長からくり人形」ですが、歩道に電話ボックスのような物があり、その中に本居宣長の人形があり、特定の日時に動くようです。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、松阪駅の松阪市観光情報センターに自転車で向かい、自転車を返却した後、ホテルに向かいました。
歩行歩数=23439歩、歩行距離=16.4Kmです。
ちなみに、夕食は牛肉弁当(松阪駅の駅弁です)を食しました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:阪内城 (2025/06/05 訪問)

岩内城(城びと未登録 三重県松阪市)から自転車で45分くらいで、「天守・ガイコツ峠」の案内表示(34.522837、136.435169)に着きました。
そこから阪内城を攻城した後、城阯碑と城跡・坂内御所跡の説明板(34.523143、136.433439)に向かいました。

1415年(応永22年)北畠雅俊によって築かれました。 伊勢国司北畠氏の一門である雅俊がこの地を治め坂内氏を称しました。
坂内氏は北畠一族として有力な勢力を誇っていましたが、1576年(天正4年)七代具義が北畠信雄(織田信長次男)の謀略によって田丸城で殺害され城も廃城となりました。

坂内御所と呼ばれる平時の居館が、現在の子育て支援センターの場所にあったといわれています。遺構は残っていませんが、碑と説明板があります。
詰城の坂内城は、御所の東にある山の頂上にあり、山頂と南と西にわずかな削平地があります。
本丸の北側には堀切が残っており、山頂部分の曲輪跡には小社があり坂内城遺構の石碑も建っています。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=松坂城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:岩内城(城びと未登録 三重県松阪市) (2025/06/05 訪問)

枳城から自転車で10分くらいで、瑞巌寺入口(34.572767、136.460613)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、北畠氏の一族で北畠13人衆の一人であった岩内主膳正光安が城主であったと云われています。
岩内氏は一時廃絶しましたが、1512年(永正9年)年に再興されました。
1569年(永禄12年)の織田信長伊勢侵攻に対しては、北畠氏は岩内城に光安ら兵500を置いて迎撃態勢をとります。
光安は信長の降伏勧告に応じなかったが、織田勢は軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったそうです。
光安は1576年(天正4年)に田丸城にて織田信雄によって殺され家は断絶しましたが、光安の子息・玉千代は2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称しました。
成人した玉千代は北畠荘門光吉と名乗り、北畠の遺臣に守られて伊勢山田に住まいしたそうです。

登城口がわからず、途中で断念しました。
攻城時間は35分くらいでした(30分は登城口を捜している時間です)。次の攻城先=阪内城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:枳城 (2025/06/05 訪問)

高城から自転車で15分ちょっとで、分岐点(34.584816、136.464287)を右折し、この場所(34.585213、136.461295)に自転車を置きました。
そこから、登り口(34.585310、136.460721)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に北畠氏により築かれたと考えられ、高城とともに阿坂城の出城のひとつとされます。
1569年(永禄12年)織田信長軍が阿坂城を包囲し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧妙な策によって開城された際に運命をともにしたと考えられています。

細長い主郭をもつ単郭の城で、東西両尾根が堀切で遮断されています。
要所要所で案内標識があるので迷わず辿り着けます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=岩内城(城びと未登録 三重県松阪市)に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:高城 (2025/06/05 訪問)

八田城から自転車で15分くらいで、西側入口(34.599403、136.4666667)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に北畠氏により築かれたと考えられ、枳城とともに阿坂城の出城のひとつとされます。
1569年(永禄12年)織田信長軍が阿坂城を包囲し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧妙な策によって開城された際に運命をともにしたと考えられています。

「ほりこし観音・高城跡」の標識のあるところを登ってゆき、墓地の先へ行くと、高城跡に着きます。
主郭は東西に虎口が開いており、周囲を土塁が囲んでいます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=枳城に自転車で向かいました。

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天守無しがアツい

御三層櫓 (2025/07/01 訪問)

忍城のシンボル的存在…御三層櫓は行田市郷土博物館と隣同士(というか本丸のあった位置に博物館が建っている)

それぞれの一階が渡り廊下で繋がってるのでダイレクトに移動ができる

櫓…と言っても江戸時代のものそのままではなく…昭和63年に再建されたもの…だから中はコンクリ製…中央に段差の低い階段があり、それを上がっていく造りが…小田原城などに似てる

あくまで博物館用に造られた…再建された城機能🏯

展示は2階と3階でおこなわれており…2階は江戸時代の忍城…3階は明治以降の忍城ならびに行田市…明治初期におこなわれた城の取り壊しにより、忍城の建物もほとんどが無くなってしまった

最上階からは行田市の街並みを一望できる…近所に学校があるようでそこからの掛け声が聞こえた…「虫が入るので網戸を開けないでください」という窓もあった

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朝田 辰兵衛

丸根砦からの転戦です。 (2025/03/22 訪問)

丸根砦からの転戦です。クマのモニュメントがある公園側から入り,長寿寺側に抜けました。簡単には落ちそうもないな…と思いましたが,緒戦で全滅とのことです。

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しんちゃん

留守ですよ。 (2025/01/02 訪問)

岩切城は高森山の山頂から伸びる尾根上に自然地形を利用して築かれています。
平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣・伊沢将監家景を陸奥国留守職に任命し、伊沢氏は留守姓を名乗りました・・ってそのまんまやん。
留守氏は岩切城を居城とし、後に室町幕府内部でで足利尊氏と弟・直義の対立が激化すると、留守氏は尊氏の勢力に加担しますが正平6年(1351)の「観応の擾乱」にて、岩切城での合戦に敗れ岩切城は落城し、留守氏は衰退しました。後に留守氏は伊達氏の一門に加わり勢力を回復し、留守氏が居城を利府城に移すと、岩切城は廃城になりました。

西尾根上に連なる郭群の脇から登城道が伸びています。主郭には東屋があり、南側に土塁を備えた郭が有りました。主郭の脇から東尾根に向かって道が続いていて、堀切が間にありました。虎口らしき箇所を抜けると所々に土塁を備えた東の郭群があり、南の方にも道が伸びています。余湖さんの縄張り図を見ると東の尾根を進んだ先に堀を備えた枡形の様な虎口があるようです。

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しんちゃん

郷六氏 (2025/01/02 訪問)

郷六城は仙台宮城ICの出口周辺、国道48号線や県道31号線が複雑に絡み合う部分のやや北側の丘陵上に築かれていました。北側の道路沿いに空堀が良く残っており、主郭への入り口があり、標柱が立てられています。
主郭はやや広めの単郭のようですが、道路の向こう側に位置する宇那禰神社も城址の一部だったのかもしれません。

郷六氏は国分盛氏の庶子・盛政を祖とし、宮城郡国分荘のうち愛子・郷六の二郡を有し郷六城を居城にしていたようです。天正年間に国分氏が伊達家家臣に組み込まれてからは、郷六村を没収され愛子村に移り住みました。郷六氏は慶長3年(1598)森田と姓を変え屋敷と家中屋敷23軒を持っていたようです。

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しんちゃん

主郭には訪問。雪のない時期にリトライしたい。 (2025/01/02 訪問)

季節感が無い写真ですが、訪問したのは正月なのでカンベンしてください。リア攻めならずというのは、某アプリの位置情報が衛星とリンクしなかっただけで、主郭と思しき場所には一応、訪問しています。遺構も草木もすべて雪の下に埋まっているので判別の使用が無い。
土塁と堀らしきものが残っていますが、後世に造られた部分もあるようなので、一概には言えません。

鎌倉時代から平賀氏の館とされ、伊達氏の家臣である馬場氏(平賀氏)の屋敷もあったようです。

※城郭放浪記さん&ニッポン城めぐりから位置情報を得て訪問していますが「城びと」の位置情報はこれらとは異なっているようです。
念のため積雪の無い時期に標高405m地点も訪問したいとは思っていますが、正直遺構などが有るとは思っていません。
なので土塁等が見つかったらめっけもんだと思っています。

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イオ

西の城(藤白城) (2025/04/20 訪問)

(続き)

東の城から西の城へは尾根伝いに徒歩10分の距離で、堀切っぽい地形はあるものの、明瞭な城郭遺構は見られません。

西の城は大野城とは別個の城として藤白城とも呼ばれ、曲輪群の最高所が主郭にあたります。主郭の北裾には帯曲輪がめぐっていて、遊歩道を北に下って行くと北尾根を堀切で遮断していました。主郭から西に一段下の曲輪から南に下りた先には、何段かの腰曲輪の下に横堀がめぐらされています。横堀は西側上段から東側下段まで斜めに落ちながら続いていて、浅くなってはいるものの見応えがありました。横堀を越えた先は南尾根を堀切で断ち、堀切の両端は竪堀となって続いています。

西の城をひとめぐりすると、東の城を通り抜け、来た道を戻って雨の森へ。雨の森展望台から眼下の大野守護所跡を見下ろして、大野城を後にしました…って、東の城の東尾根の曲輪に行くのを忘れてたーっ! いつの日かリベンジします…。
 

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赤い城

海陸の交通の要衝を押さえる古代山城 (2025/06/22 訪問)

世田薬師から道路を挟んだところに登城口があります。
こちらも良く整備されたハイキングコースで夏でも歩きやすいです。
ただしこの日は暑かった💦

登り始めてすぐに南西部城壁があります。
ここも整備されています。
さらに南部頂上から永納山山頂を望みます。
ここから見るとまだ遠い・・・
が、そこを目指して進みます。

南東部頂上を経て復元された城壁に。
城の外側から復元土塁と列石を見学することができます。
同行した城友さんは幼いころここで遊んでいたとのこと。
当時は手つかずの山肌だったと思いますがなんとも羨ましい。
近くには鍛冶遺構もあります。
現状は広場ですが今後発掘調査も進むのだとか。
新たな遺構が出てくるのかな?

ようやく山頂に到着、見晴らしは良く達成感がありました!
しばらく眺望を楽しみながら休憩し、北東側に向けて下山しました。
北東側の登城口には列石が残る城壁を見ることができます。
遊歩道整備で見上げるようになっているのが残念ですが登城口からの遠望はなかなかのものでした。

【見どころ】
 ・山頂からの眺望
 ・復元城壁
 ・北東登城口から見る城壁


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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:八田城 (2025/06/05 訪問)

須賀城(城びと未登録 三重県松阪市)から自転車で20分くらいで、登城口(34.615541、136.449563)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉期に相模国から移住した三浦五郎左衛門尉盛時が築城したと伝えられます。
その後、子孫は大多和氏を名乗り北畠氏の家臣となっています。
1569年(永禄12年)には織田信長の伊勢侵攻に対して大和多監物が籠城しました。しかし、北畠具教は織田信長と和睦したため、城を開城しました。
1576年(天正4年)国司滅亡後、大和多氏は城を出て下之庄に住み土着し、再び三浦と改めた。

登城口には模擬櫓や木橋が築造されています。
主郭南側に堀切があり、その上を丸太橋が架かっています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=高城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:須賀城(城びと未登録 三重県松阪市) (2025/06/05 訪問)

舟木家の長屋門(城びと未登録 三重県松阪市)から自転車で20分ちょっとで、土塁前(34.626427、136.492032)に着きました。

築城者、築城時期は定かではないようですが、この地は古くから流通の重要地だったようで、須可庄の名が平安末期の史料にあるようです。
1468年(応仁2年)政権争いで足利義視が伊勢に逃れた際、北畠氏に庇護され、積善寺で接待を受けたという記録があるようです。この時の佐波近江守とされます。
1584年(天正12年)以降、蒲生氏郷が松阪を領した時期は坂源左衛門尉が居城したとされます。

積善寺山門前に大土塁が残ってます。
主郭の範囲は積善寺周囲のようですが、その外側の遺構として、土塁と用水路になっている堀跡があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=八田城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:舟木家の長屋門(城びと未登録 三重県松阪市) (2025/06/05 訪問)

松阪駅の松阪市観光情報センターで電動自転車を借りました。(電動自転車が有ってほっとしました)
松阪市観光情報センターから自転車で10分ちょっとで、入口付近(34.597276、136.516047)に着きました。

舟木家は、南北朝時代から続く名家で、江戸時代には久米村惣庄屋、津藩無足人となり、その後紀州藩主より「津領地士」としてお目見を許されるまでになりました。
舟木家の格式を示す長屋門は1794年(寛政6年)に建設され、1834年(天保5年)に改修されたようです。

門の正中央より下の部分に施された海鼠壁(なまこかべ)が特徴です。
舟木家にある海鼠壁(なまこかべ)は、文政年間(1818年~1829年)に造られたものだそうです。
今も舟木家の子孫が住んでいらっしゃるようです。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=須賀城(城びと未登録 三重県松阪市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:木造城 (2025/06/05 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、八太城(城びと未登録 三重県津市)と木造城を攻城しました。
桃園駅から徒歩30分弱で、城址跡(34.658824、136.497666)に着きました。

木造城は2024年9月25日に攻城する予定でしたが、バス遅延により乗り継ぎがかなわず断念しました。今回はリベンジです。
1366年(貞治5年・正平21年)木造顕俊によって築かれました。 顕俊は北畠顕能の次男で木造城を築き木造氏を名乗ったそうです。
二代目の俊康は京都に住み足利将軍と親しかった為、本家北畠氏の南朝と対立しました。
1569年(永禄12年)織田信長の南伊勢侵攻時は、それに従い信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣ぐことで和解した後は、それに従いました。

田園の中の土盛りの上に石碑と説明板が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=舟木家の長屋門(城びと未登録 三重県松阪市)を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:八太城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/05 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、八太城(城びと未登録 三重県津市)と木造城を攻城しました。
ホテル最寄りの松阪駅から電車で川合高岡駅に向かい、そこから徒歩10分くらいで、川沿近道(34.653151、136.440816)経由で水道施設入口(34.652522、136.440899)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に田上玄蕃頭によって築かれたとも云われています。
田上氏は北畠氏に属していましたが、1576年(天正4年)北畠氏が滅亡すると羽柴秀吉に仕えた。北畠氏が滅亡した後は、織田信雄の家臣日置大膳亮が入っていたといいます。

主郭は広く楕円形で西側に幅広の土塁があり行者様が祀られています。
主郭背後の尾根に小さな二条の堀切がありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=木造城を目指す為、川合高岡駅から電車で桃園駅に向かいました。

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しんちゃん

伊達政宗の晩年の居城。 (2025/01/02 訪問)

若林城は仙台藩主伊達政宗の晩年の居城であるのですが、現在は宮城刑務所の敷地になっています。Oh~~!なんてこったい。しかも刑務所北側の水路はかつての水堀と同じ形をしています。
内部には政宗の居所の他、櫓も建てられ、庭園も造られていました、政宗が朝鮮出兵の際に持ち帰ったとされる「朝鮮ウメ」は今でも刑務所の中にあるそうです。現在の宮城刑務所の前身である宮城集治監は明治12年に当地に建てられたのですが、これは明治政府の指示によるものでしょうか?

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しんちゃん

開発で遺構は消滅 (2025/01/02 訪問)

小鶴城は舌状台地の上に築かれていました。かつては周囲を水田で囲われ、遺構も残っていたようですが仙台市の中心部に近いため開発が進み、今では公園の一角に土塁が残っているだけのようです。
本丸の西に二の丸、東側にも曲輪があったようです。北西隅に空堀や土塁が残っていたと見られ、かつては城の周囲を囲っていたものと考えられています。城主は伊達氏の家臣・留守氏の重臣である逸見丹波とされています。

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朝田 辰兵衛

大高城から見通せたので…👀 (2025/03/22 訪問)

大高城から見通せたので,今度は丸根砦から大高城を見通したくなりました。この距離感は一触即発。「油断したほうが討ち取られるだろう…」と,想像を巡らせました。
歴史の結果は大高城の勝ちでしたが…。

にのまるさんへ…
私と入れ替わりで新潟入りされたんですね。残るは羽越本線のみで,新潟県内を完乗するのではないでしょうか…?
さて,「潤」はここ数年で燕の地位を確立させました。それまで燕といえば「抗州飯店」。個人的にはここのギョーザがスキでした。抗州飯店は店舗が火災に遭ったことで衰退しております。
新潟県のラーメンは地域によって多種多様です。個人的には上越「松茶屋」の豚汁ラーメンがスキです。上越ではラーメンのあとにソフトクリームを食べる文化があり,ほとんどのラーメン屋さん店内で注文できます。健康診断前は控えなければいけませんが…<笑>。
画像がなくてスミマセン。

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