さくらいじょう

桜井城

愛知県安城市


旧国名 : 三河

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公園
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しんしんちゃん

桜井松平氏の本城。アスファルトの高まりに名残が残る。 (2023/07/02 訪問)

桜井城は文明3年(1471)松平氏の支配下に入り、6代 70年もの間
桜井松平氏の居城となりましたが、天正18年(1590)家康の関東移封に従い
城主六代家広が武州松山城に移り廃城になりました。
本丸のあたりが城址公園になっており神社が隣接しています。
縄張りらしい縄張りも無いのですが、余湖クンのホームページにあった
縄張りを参考に城の東側の宅地を見に行ってみると、アスファルトの形が
明らかに宅地側の方が高いので、この内側の宅地のあたりが二の丸だったと思います。
三の丸のあたりも微妙に高地にありますね。
時代が経っても地形に名残が残っていて、なんとなくニヤリとします。

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うさ

桜井城 (2023/04/19 訪問)

街中の公園としてひっそりとあります。

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じっぱ

2022年攻城もやっと6城目! (2022/10/20 訪問)

安城2代松平長親の三男信定が桜井松平初代となり、6代(約70年)にわたり桜井松平氏の居城となりましたが、1590年6代家広が徳川家康の関東移封に従い、武蔵国に移り廃城となりました。現在本丸の一部が城山公園として整備されており、土塁の一部が残っています。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:桜井城 (2022/08/03 訪問)

安祥古城からの転戦です。桜井駅より徒歩10分くらいで、城山公園入口(34.920872、137.092436)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、小浦喜平次忠重によって築かれました。
忠重は伊豆国から地頭としてこの地に移り住んでいましたが、文明年間(1469年〜1487年)に松平信光が安祥城を落とし居城としたことで、その家臣となりました。
松平親忠(松平信光の三男)は、はじめ四男の親房を城主としましたが、親房に子がいなかったため、松平長親の三男信定が養子となり、桜井松平氏の祖となりました。
1530年(享禄3年)宇利城攻めに参陣した信定は、兄福釜松平親盛とともに大手より攻撃したが、親盛を救援せず親盛が討死したことで清康の怒りをかったそうです。
信定はこれを恨み清康が尾張国守山へ進軍したときも、上野城より動かず、信定の子清定の妻が織田信秀の妹ということもあって、織田方へ内通したとの噂がたちました。
清康が尾張国守山で家臣に殺されると、信定は松平宗家の乗っ取りを企て、清康の子広忠は一時岡崎を離れて流浪しました。
1590年(天正18年)徳川家康の関東移封にともない、桜井松平氏は武蔵国松山へ10,000石で移封となり廃城となりました。

現在は城山公園として、一部残存している土塁の上に石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本證寺を目指す為、電車で桜井駅から南桜井駅に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 小浦忠重
築城年 大永7年(1527)
主な城主 小浦氏、松平氏
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 市史跡(桜井城址)
再建造物 模擬冠木門、石碑、説明板
住所 愛知県安城市桜井町城阿原