まつおじょう

松尾城

福岡県朝倉郡

別名 : 小石原城
旧国名 : 筑前

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ろっし

お城探訪 (2022/11/26 訪問)

竪堀が草に覆われて見れなかったものの、それ以外は草刈りがされているので良く見てまわれます。

草刈りをされている方にはいつも感謝です。

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ryu

英彦山登山と松尾城 (2021/10/02 訪問)

英彦山登山の帰路、黒田六端城のひとつである小石原にある松尾城を訪問する。

松尾城は戦国時代、秋月氏の家臣と考えられる宝珠山山城守の居城と伝えられ、黒田家入国後は、黒田六端城の一つとして仲間統胤が城主となったが、一国一城令で廃城となる。

標高は510mくらいだが駐車場からの比高は50mほどである。
城址までの山道は整備されていたが、主郭内部は丈の高いススキで覆われて入るのを躊躇われ、遺構もよくわからなかった。主郭南側の石垣、虎口の石垣を見て下る。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 8城目 (2020/11/17 訪問)

一城だけなら午前中に巡れると踏んで、遠回りであるが日田の夜明地区から小石原へと向かう。
脇を流れる大肥川では2017年の豪雨災害の復旧と思われる工事が今も続けられていた。
小石原焼といえば ”飛びカンナ” だが、いろんな作風のものが道の駅で展示販売しており
ステキなコーヒーカップが目にとまり手に取ってみたが、値札をみて そっと 棚に戻した。

この松尾城、筑前六端城の一つだが、比高も低く趣きがかなり違うそうな。
残る五端城の城将は黒田24騎といわれる1万石以上の大身であるのに対し、この松尾城は
黒田氏の豊前入封後に家臣となった禄高2500石の中間六郎衛門統胤である。
黒田氏が豊前入国の直後におきた「豊前宇都宮氏(城井氏)」に代表される国衆一揆の際に、
当初は一揆に加担したがすぐに恭順(寝返り?)し軍功を立てたそうだ。
新参ではあるが黒田の姓を賜っているのでそれなりに信頼されているのだろうが、他にも24騎に
連なる武将が大勢いるはずなのに彼がなぜ選ばれたのだろう?

駐車場から10分ほど登り進むと右手の林の中に削平地が数段見えてくる。
これらは秋月氏時代の物らしいのだが、黒田氏時代にも当然利用されていたことだろう。
木々が切れたところで、主郭の石垣と草に覆われてはいるが南側の畝状竪堀が見えてくる。
枯草がわずかだがうねっており、そこが畝状竪堀になっているのがかろうじて分かる。
(写真では、分かりにくいかもしれません。 ゴメンナサイ)

最初にお目にかかるのが虎口南側の破城の様子を残した角の石垣である。
整備工事の案内板によると、方針により南北の虎口修復具合を、あえて変えているそうです。
こういう見せ方もあるんだなと感心しました。
説明書きによると、畝状竪堀群や三重堀切があるがこれらは秋月氏時代の物と推測されており
黒田氏時代は主郭部の石垣・土塁・虎口の強化だったようである。
その三重堀切や畝状竪堀群はススキに覆われており見ることができなかった。
時期になったら保全のための草刈りや山焼きが行われているのだろうが見られず、残念。

他の端城は未踏なので確かなことは言えないが、ここは規模も小さく一見して防御性はあまり
高くないようにも見える。   しかし北側や東側斜面は案外急で、遮るものが無い斜面を登る
敵を迎え撃つのは容易そうである。
城は、大きければ良いといううものでも無さそうだ。

それにしても黒田家は、なぜあのような掟破りの所業にでたのだろう? 
筑前六端城に対し、豊前細川家はあからさまに新規に築城をしてないように思えるのだが・・・ 
(私の知識不足かもしれないが)
細川家は、大人の対応をしたということなのかナ?

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昌官忠

九州遠征 (2019/10/15 訪問)

松尾城駐車場(33.470256、130.824473)に駐車して攻城。
筑前六端城のひとつです。公営住宅の脇道を通ると登り口があり、そこを登ると本丸にすぐ着きます。こじんまりとした城跡ですが、石垣、畝状竪堀、堀切、土塁、虎口、櫓台などが確認でき説明板もある良く整備された城跡です。攻城時間は30分くらいでした。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 黒田長政
主な城主 宝珠山山城守、中間統胤
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、堀切、枡形、虎口、櫓台、礎石建物跡、畝状竪堀群
指定文化財 県史跡(松尾城跡)
再建造物 説明板
住所 福岡県朝倉郡東峰村大字小石原