ひざわじょう

干沢城

長野県茅野市

別名 : 樋沢城、安国寺城
旧国名 : 信濃

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にのまる

この城とこの地の歴史を伝えたいと願う方々の思いが伝わってきます。 (2023/04/08 訪問)

18きっぷ最後の一日は中央本線で長野へ。
久しぶりに降り立った茅野駅は……寒い(*_*)
諏訪大社上社前宮までは徒歩約30分。
道標をいくつも設置してくださっているので迷うことも不安になることもなく山登り。(そんなに高くないです。)
登りきると空堀の左手に三郭・四郭。右手に二郭・一郭。それだけでなく、帯郭がいくつも巡っていて、美しいとさえ思ってしまいました。

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小城小次郎

大祝の詰めの城として (2022/05/01 訪問)

諏訪大社上社前宮は諏訪の神が最初に降り立った地であり諏訪大祝(おおほうり)が精進潔斎した地でもあった。前宮の隣にあった干沢城はそんな大祝の詰めの城で周辺には町屋も栄えていたが、武田氏侵攻で全てを失ったようだ。

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諏訪大社上社前宮方面より (2022/03/19 訪問)

 諏訪大社上社前宮方面より登城しました。道は整備されていて登り始めれば5分くらいで城域に入ります。2郭と3郭の間の堀切の所にでます。主郭から4郭まで一部堀切を挟んで段々に配置されています。
主郭から貯水塔のある谷を挟んで長林砦があり堀切を見ることができます。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:干沢城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の1城目は干沢城です。
林道入口(35.985728、138.140217)から進入して、終点の貯水タンク前に駐車する予定でした。

干沢(樋沢)城は諏訪大社上社大祝の諏訪氏が築城した上社前宮の東隣に位置する山城です。
諏訪氏は大祝(おおほうり)として信仰を集めたが、神郡である諏訪郡から外に出ることは禁忌とされていました。
このことから幼少時に大祝なり、長じるとその職を辞して惣領を相続する慣わしであったが、南北朝期から室町期の戦乱に際して郡域外への出陣が増えたため、諏訪満有の子、信満の系統が惣領家を、頼満の系統が大祝を嗣ぐこととなった。
当初両家は諏訪大社上社前宮の神殿(ごうどの)に居住していたが、1456年(康正2年)惣領諏訪安芸守信満と大祝諏訪伊予守頼満が対立して兵火を交え、惣領諏訪家は上原に居を移した。
上原城の原型はこの頃築かれたと思われる。一方の大祝諏訪家は干沢城を築いたとされます。
1483年(文明15年)正月8日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺しました。
しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰めます。
干沢城は落城し、継満の父・伊予守頼満は戦死、継満は高遠へ追放された。
継満は翌1584年(文明16年)5月3日、小笠原貞宗ら下伊那の豪族の支援を得て諏訪に侵攻し武居城に陣取って干沢城と対峙したが、大祝の地位は奪還できず、惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続したそうです。
その後、1542年(天文11年)に 武田信玄が諏訪に侵攻した時、 干沢城は武田勢と呼応する高遠勢に占領され、安国寺付近は焼き尽くされるなど、戦乱に巻き込まれた城のようです。

貯水タンクに向かう林道で脱輪してしまいました。警察/レンタカー会社/レッカー会社に連絡し3時間かけて脱出。
雨が降り濡れた落葉&急坂の悪条件。警察の方も「晴れた日なら大丈夫なんでしょうが、こんな日は四駆でないと無理かも」と言われてました。
以上より、今回のルートは晴れた日&普通車(軽はお薦めしません)で攻城することをお薦めしますが、本当は山麓の諏訪大社方向から登るのが正規ルートだと思います。
攻城時間は3時間くらいでした。(攻城は途中で断念しましたので、脱輪脱出の時間です)

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 諏訪氏
築城年 不明
主な城主 諏訪氏
遺構 曲輪、堀切、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財 市史跡
再建造物 石碑、説明板
住所 長野県茅野市宮川安国寺2491-1