野田城に隣接する法性寺から階段を登って行くと武田信玄が撃たれたという場所にたどり着きます。案内板には元亀4年(1573)野田城を攻めていた信玄は、毎晩城内から流れてくる笛の音にここで聞きほれており、そこを鳥居半四郎という鉄砲の名手に狙撃され、その傷がもとで間もなく亡くなったと伝えられていると書かれています。野田城内には本丸から信玄を狙撃したと伝わる場所に案内板が立っており、当時の銃の性能や空気抵抗の大きそうな丸い弾丸で良く当たったものだと、伝承ながらも感心したりします。
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2025/09/16 20:06
伝・信玄公 撃った場所・撃たれた場所 (2025/09/15 訪問)
野田城に隣接する法性寺から階段を登って行くと武田信玄が撃たれたという場所にたどり着きます。案内板には元亀4年(1573)野田城を攻めていた信玄は、毎晩城内から流れてくる笛の音にここで聞きほれており、そこを鳥居半四郎という鉄砲の名手に狙撃され、その傷がもとで間もなく亡くなったと伝えられていると書かれています。野田城内には本丸から信玄を狙撃したと伝わる場所に案内板が立っており、当時の銃の性能や空気抵抗の大きそうな丸い弾丸で良く当たったものだと、伝承ながらも感心したりします。
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2025/04/27 19:32
本丸虎口がステキな野田城 (2025/03/09 訪問)
遺構が大きく改変されているとの認識で後回しにしてきた愛知県新城市の野田城を3月に訪問。
東三河を流れる豊川の中流域、その北側の段丘の殿田川と杉川に挟まれた比高約18mの舌状の丘に築かれた城。
伊那街道が通るポイントで、南西の三河湾や豊川平野と北東の遠江や信濃を結んだ地。
田峯菅沼氏出身の菅沼定則が1500年代初期に築いたとされる野田菅沼氏3代の居城。
1573年には武田の侵攻を受け、信玄を狙撃したことや武田金掘衆によるもぐら攻めのエピソードが伝わっており、1590年には従属していた徳川の関東移封に伴い廃城とのこと。
現在の城跡は西側が特に改変されているようだが、本丸の遺構は比較的クリアに残り、二の丸と三の丸にも周回見学路が設置されている市指定史跡。
訪問時は、本丸南西側の交差点に新設された駐車場に車を止め、三の丸からスタート。
三日月堀は古絵図とは異なる小さなもので、新設されたか堀の一部が残ったものでしょうか。
三の丸の方が二の丸より1段高く、その境で三の丸側を楕円形に削った遺構も謎。
本丸側は二の丸との境界部が最大の見どころで、立派な堀を渡る土橋には横矢が掛かる構造。
周囲の急峻な崖も印象的で、想像される守備力は事前の予想以上。
移築門が存在する法性寺も含めて滞在時間2時間越えの、私の城郭巡りの199城目でした。
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2025/03/11 22:16
信玄公狙撃の伝説 (2025/01/18 訪問)
野田城は当城を攻めていた武田信玄が狙撃されたことで有名な城ですね。城好きや歴史好きはもちろん、特に城めぐりをしていない人たちの間でも認知度は高まってきていると思います。NHKなどの番組などでも何度か放送されているのではないでしょうか。
本丸には狙撃場所の標識があり、笛の名人・村松芳休の笛の音につられた信玄の耳に銃弾が命中したとされていますが、実際には定かではありません。延宝5年(1677)に作成された「菅沼家譜」には鳥居三左衛門が鉄砲を放った後、武田陣中が騒がしくなったとされていますが、後世の創作の可能性も示唆されています。実際の所はどうなのでしょうか?
城址は積極的な遺構の再現や整備などはされていないようですが、本丸周辺には見事な空堀が残っています。小牧・長久手の合戦の後に豊臣秀吉の来襲に備え徳川方が改修を施した可能性もありますね。
最期の2枚の写真は長篠城の近くの和食の店で取った昼食です。
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分類・構造 | 連郭式平山城 |
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築城主 | 菅沼氏 |
築城年 | 永正5年(1508) |
主な改修者 | 菅沼定盈 |
主な城主 | 菅沼氏 |
廃城年 | 天正18年(1590) |
遺構 | 曲輪、横堀(空堀) |
指定文化財 | 市史跡(野田城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 愛知県新城市豊島字本城 |
問い合わせ先 | 新城市教育委員会設楽原歴史資料館 |
問い合わせ先電話番号 | 0536-22-0673 |