のだじょう

野田城

愛知県新城市

別名 : 三河野田城、根古屋城、上ノ山城
旧国名 : 三河

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にのまる

【城と看板】

「こちらが現場です。」みたいな。。。

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POYO58

武田信玄の最後の戦いを行った城 (2021/12/18 訪問)

この城は菅沼氏が築城した城です。徳川家康と武田信玄が最後の戦いをした城として有名です。堀がたくさん見られました。また井戸もありました。野田城の中には神社があります。ちなみに菅沼氏は明智光秀と同じ土岐氏の庶流で少し明智光秀と菅沼氏の関係が気になるところです。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:野田城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の21城目は野田城です。
牧野城から転戦。案内板前(34.882146、137.467998)に路駐しました。信玄公狙撃場所(34.881657、137.467753)はすぐ近くです。

1508年 菅沼定則によって築城され、居城とします。定則の子・菅沼定村、孫・菅沼定盈らも居城としました。
1561年 桶狭間の戦いの後、今川氏を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城退去。
1562年 定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に刻を費やされます。定盈は、仮本拠を大野田城に定めています。
1571年 武田氏の遠江・三河侵攻において武田家臣山県昌景・小笠原信嶺らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたといいます。(なお近年では元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されています。)
1573年 野田城の戦い。武田軍に水の手を断たれて、城主・定盈は開城降伏します。このとき武田信玄が城から聞こえる笛の音に聴き惚れていたら鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説があります。近くには「信玄狙撃の地」と呼ばれる小高い場所があり、小さな祠がひっそりと祀られています。
1590年 徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付随。その後、吉田城に入った池田輝政の代官が新城を利用し、野田城を破却。廃城となりました。

土橋、堀切が素晴らしいコンパクトな城です。着いたのは18:20くらいだったのですが、表はさほどではないですが、城内は暗くて撮った写真が見にくいのが残念。
攻城時間は15分くらいでした。

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カズサン

信玄狙撃伝聞で有名な城 (2015/05/15 訪問)

 平成27年5月中旬新城市城廻りファイナル、新城城を終えて国道151号線を南西に約3km超進行し旧道のR151「豊島」信号機を左折南東入る約200mで野田城の入口と案内板が有る、駐車場は無しぐるっと回ったが適当な駐車場は無く野田城の入口の若干の広い所に幅寄せして路駐。(交通量は少ない)

 武田信玄が野田城から鉄砲で狙撃された事で有名な城、案内板のある所から登城、二の丸、本丸、その間に堀切、土橋で繋がり、本丸に井戸、武田信玄狙撃の案内板、本丸北東虎口側に櫓台が有り横矢掛り、現櫓台には神社が鎮座、三の丸は藪状態、北西から南東に連なる半島状台地に連郭式、左右に川、沢が流れ南は豊川に繋がる守り堅固の城。
 天正元年(1573年)信玄三河侵攻最後の野田城合戦、田峯菅沼氏支流野田菅沼氏3代よく奮戦するが徳川の援軍無く開城、武田信玄狙撃の傷か病気の悪化かここで進行を止め甲斐へ引き上げ途中の信州で亡くなったと言われています。
 2年後に長篠、設楽ヶ原合戦、9年後には武田氏の滅亡と流れていきます。

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城
築城主 菅沼氏
築城年 永正5年(1508)
主な改修者 菅沼定盈
主な城主 菅沼氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(野田城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県新城市豊島字本城
問い合わせ先 新城市教育委員会設楽原歴史資料館
問い合わせ先電話番号 0536-22-0673