たかなわじょう

高縄城

愛知県豊橋市

別名 : 大津城、老津城
旧国名 : 三河

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城址碑
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しんちゃん

三河戸田氏 東三河西部拠点の城 (2023/06/10 訪問)

東三河の武将 戸田氏が田原城に移る前に本拠としていた城です。
立地は少し高台になっていて、その分だけ守りには適しています。
本丸は豊橋市立家政高等学校になっていますが金曜午後6時近くということもあり
人影はありません。おかげで安心して近くを散策できます。
舗装された道路を通って学校の裏手に入ります。
学校裏の土地も大きな郭のようになっていて背後には土塁らしき土の壁がそびえます。
こっそり登ってみますが先日の大雨のせいで足元が危ういです。
すぐに下に降り城跡に敬意を払いつつ家に帰りました。
ちなみにここが我が家から一番近い城人3000城です。

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じゅんじん

学校 (2022/02/28 訪問)

校門前に城址碑がありました。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:高縄城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の16城目は高縄城です。
宇津山城から転戦。太平寺入口前空スペース(34.688212、137.336493)に駐車しました。
豊橋市立家政高等専修学校の正門前(34.690063、137.336350)まで徒歩3分位です。

高縄城は戸田氏の最初の居城として知られています。
戸田氏中興の祖とされる戸田弾正左衛門宗光は今川義忠に従い渥美半島に進出すると、1475年(文明7年)この城を築きました。
その後、1479年(文明11年)に田原城を築いて居城を移しましたが、以降も田原城の支城として維持されたようです。
「桶狭間の合戦」後の1564年(永禄7年)には三河統一を進める徳川家康によって攻略され、家康は戸田忠次を城主に任じています。
しかし、1590年(天正18年)の家康の関東移封にともない、忠次も伊豆下田に移ったため廃城となりました。

現在城址は豊橋市立家政高等専修学校の敷地となっており、校内に入らずとも正門脇に城址標柱は確認できます。また学校の北側に堀跡を確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。

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カズサン

先達の情報頼りに初登城 (2020/07/16 訪問)

 昨日西尾城の二の丸木造復元丑寅櫓と復元続き屏風折れ土塀、土塁を11日公開後初めて見学探訪し、その帰路往路を逆に岡崎バイパス、23号線バイパスを経て高縄城初登城。
 老津駅近くの踏切を渡る辺りに城下の字が有り近くに城跡が有るのだとと言うワクワク感、前情報が女学校「家政高等専修学校」と有るのでうろうろも出来ず、前の道も狭く露駐出来ず、車を停めれそうな北側の道に入り学校裏西か?行き止まりで幅広道に路駐、体育館の横です。

 そこに出ると皆さんの投稿写真に在る土塁?と曲輪(畑)?西側と南側は崖上で下がって居り段丘の先端を利用して城郭を造った様、グーグルマップの航空写真を確認すると渥美半島付け根の丘陵先端と良く分かります。
 戸田氏が渥美街道の見張り、田原城と二連木城の中間拠点の抑え城と活用した城なのかと想像する。
 学校外側周辺を回って投稿写真に在る案内標柱を探しますが見つからず学校正面門を撮影して同じ丘陵、または以前は高縄城の城域か?と思われる太平寺に寄る。
 
 太平寺は案内板によると臨済宗妙心寺派寺院で田原城主の戸田氏、今川氏の帰依、後家康吉田城攻め(永禄7年1564年)により徳川支配となり篤く保護された。
 寺域は広く方丈は荘厳で大きく庫裏、鐘楼、門も二つ有り格式を感じる立派な寺院です。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 戸田宗光
築城年 文明7年(1475)
主な城主 戸田宗光
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁
再建造物
住所 愛知県豊橋市老津町字西高縄