春の長崎天草を巡る旅、(4城目)は「平戸城」です。
前日は佐世保に宿泊し、翌朝の「松浦鉄道」(写真⑨)に乗りのんびり走る事1時間20分、日本最西端の駅「たびら平戸口」(写真⑩)に到着です。そして駅前からバスに乗り真赤な平戸大橋を渡って平戸島に入りました。平戸城は島にあるんですよ! 皆さん御存知でしたか?
私は猶興館高校前で下車し、大手門から入りました。大手門前に駐車場はないので、車の方は標識に従って右折し、直接亀岡神社の駐車場に入って、天守だけを見て帰ると思います(ちょっともったいない)。大手門からは二ノ丸大手門との連続する立派な石垣が残る桝形虎口があり、これを突破すると広い二ノ丸に出て正面に亀岡神社が見えてきます。二ノ丸を突き進み、神社で健康と金運(🤔?)を祈願してから、その先の本丸にそびえる天守を攻める気持ちで進みます。すると右に懐柔櫓と見奏櫓、左に乾櫓と狸櫓と北虎口門が海からの攻撃に備えるようにして天守を守っているのが分かります。このように大手門から攻めると、山鹿流の縄張りが分かりますので、私はオススメです。
平戸城は二度建てられました。いずれも二人の松浦鎮信が建てています。天守に入るとシアターでその二人の鎮信が語ってくれます(写真④)。
一人目の鎮信は、ポルトガルとの交易をしていたせいか、1599年に(写真④)のような西洋風の天守を建てたようです。しかし勝本城築城や朝鮮出兵などで活躍し豊臣恩顧の大名だった鎮信は、関ケ原では自らは東軍に付くも嫡男は西軍に付くなどしたため、徳川家康からは疑われていたようです。1613年に天守は火災で焼失しますが、自ら天守に火を放ったという説があります。大坂の陣の1年前になり、家康から「我と秀頼どちらに付くのか?」と問い詰められ、忠節を示すため自ら火を放ってしまったのかもしれないと、私は想像してしまいました。
それから100年後の1707年、二人目の鎮信は老中になったのをきっかけに、異国船監視を理由に築城が許可されます。鎮信は山鹿素行と交流があり、それで山鹿流の縄張りで設計されたようです。しかし明治の廃城令で取り壊されたので、現在は模擬天守が立っています。
平戸城の魅力は、やはりこの天守からの絶景ですね! いや~とても爽快な眺めです。桜もとても綺麗でした(写真①⑧)。眼下には、東は見奏櫓や懐柔櫓や遠くは平戸大橋まで(写真⑤⑥)、西には平戸桟橋や、藩主が暮した平戸御館、三浦按針が晩年を過ごしたオランダ商館が見えました(写真⑦)。
次は、北虎口門から平戸桟橋の方へ下って行き、(5城目)その平戸御館とオランダ商館を見学しようと思います。
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