日本100名城

ひらどじょう

平戸城

長崎県平戸市

別名 : 亀岡城、亀甲城、(日之嶽城、日の岳城)
旧国名 : 肥前

投稿する
平戸城
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

トク

【春の長崎天草を巡る④】(4)平戸城 (2025/03/27 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(4城目)は「平戸城」です。

前日は佐世保に宿泊し、翌朝の「松浦鉄道」(写真⑨)に乗りのんびり走る事1時間20分、日本最西端の駅「たびら平戸口」(写真⑩)に到着です。そして駅前からバスに乗り真赤な平戸大橋を渡って平戸島に入りました。平戸城は島にあるんですよ! 皆さん御存知でしたか?

私は猶興館高校前で下車し、大手門から入りました。大手門前に駐車場はないので、車の方は標識に従って右折し、直接亀岡神社の駐車場に入って、天守だけを見て帰ると思います(ちょっともったいない)。大手門からは二ノ丸大手門との連続する立派な石垣が残る桝形虎口があり、これを突破すると広い二ノ丸に出て正面に亀岡神社が見えてきます。二ノ丸を突き進み、神社で健康と金運(🤔?)を祈願してから、その先の本丸にそびえる天守を攻める気持ちで進みます。すると右に懐柔櫓と見奏櫓、左に乾櫓と狸櫓と北虎口門が海からの攻撃に備えるようにして天守を守っているのが分かります。このように大手門から攻めると、山鹿流の縄張りが分かりますので、私はオススメです。

平戸城は二度建てられました。いずれも二人の松浦鎮信が建てています。天守に入るとシアターでその二人の鎮信が語ってくれます(写真④)。

一人目の鎮信は、ポルトガルとの交易をしていたせいか、1599年に(写真④)のような西洋風の天守を建てたようです。しかし勝本城築城や朝鮮出兵などで活躍し豊臣恩顧の大名だった鎮信は、関ケ原では自らは東軍に付くも嫡男は西軍に付くなどしたため、徳川家康からは疑われていたようです。1613年に天守は火災で焼失しますが、自ら天守に火を放ったという説があります。大坂の陣の1年前になり、家康から「我と秀頼どちらに付くのか?」と問い詰められ、忠節を示すため自ら火を放ってしまったのかもしれないと、私は想像してしまいました。

それから100年後の1707年、二人目の鎮信は老中になったのをきっかけに、異国船監視を理由に築城が許可されます。鎮信は山鹿素行と交流があり、それで山鹿流の縄張りで設計されたようです。しかし明治の廃城令で取り壊されたので、現在は模擬天守が立っています。

平戸城の魅力は、やはりこの天守からの絶景ですね! いや~とても爽快な眺めです。桜もとても綺麗でした(写真①⑧)。眼下には、東は見奏櫓や懐柔櫓や遠くは平戸大橋まで(写真⑤⑥)、西には平戸桟橋や、藩主が暮した平戸御館、三浦按針が晩年を過ごしたオランダ商館が見えました(写真⑦)。

次は、北虎口門から平戸桟橋の方へ下って行き、(5城目)その平戸御館とオランダ商館を見学しようと思います。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

平戸藩と山鹿素行 (2014/01/08 訪問)

平戸城の築城は古くは松浦鎮信による日之嶽に築いた城とされます。慶長18年(1613)に火災に会い、長らく平戸藩は「城なし」の状態でしたが元禄15年(1702)に再築城を願い出て翌年に許可が下りました。
二の丸の乾櫓が天守代用とされ、今は模擬天守が建っています。また狸櫓と北虎口門(搦手)は現存の建造物として残っています。
四代藩主・松浦重信は「武家時記」の作者である山鹿素行と親交が有り、平戸に招こうとしますが果たせず、後に一族の山鹿高基・義昌を藩士として迎え入れます。平戸城築城指導は義昌によって行われ、山鹿流軍学に基づく縄張りが成されているとのことです(wiki参照)。

話は変わりますが、白峰教授が論文の中で「武家事記」記載の関ヶ原の合戦図と、参謀本部の作成した「日本戦史関ヶ原役」を比較しています。非常に細かい部分まで丁寧に説明してくれているので、明治に神谷道一氏が書かれた「関原合戦図志」が「武家事記」を参考にしていることが良くわかります。
神谷氏は「武家時記」記載中の矛盾点も修正し、自らの視点を南宮山の布陣に反映させるなど非常に真摯に歴史に向かい合っています。
残念ながら、「武家事記」の内容そのものの信憑性が乏しいので、「関原合戦図志」の布陣図も正解とは思えないのですが、参謀本部に都合よく改修された現在の関ヶ原の布陣よりは、よほど好感が持てます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

東海茶飯駿

御城印初GET! (2024/03/26 訪問)

平戸城へ昔の会社の仲間と行きました。
当然御城印ももらいました。
この御城印。「ごじょういん」と読むものとばかり思っていましたが、「おしろいん」なのね。

+ 続きを読む

HKISD

平戸城散策 (2024/03/24 訪問)

平戸城を散策。見晴らし最高でしたね。松浦家の歴史も学べました。オランダとの貿易も学べました。

+ 続きを読む

概要

平戸藩の4代藩主である松浦鎮信が幕府から築城許可を得て、5代藩主の棟によって完成。軍学者の山鹿素行の助言で行われた縄張は、山上部に小さな本丸と大きな二の丸、海岸に面した山麓部分に船着場を設けるなど、水軍松浦氏らしいもの。北虎口門とそこから延びる土塀の石狭間と狸櫓が貴重な遺構として今も残っている。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 慶長4年(1599)
築城者 松浦鎮信
主要城主 松浦氏
文化財史跡区分 県史跡(亀岡城跡)
近年の主な復元・整備 松浦棟
天守の現況・形態 乾櫓[3重3階/1707年築/破却(廃城令)]、複合式層塔型[3重5階/1962年築/RC造模擬]
主な関連施設 模擬天守、櫓、石碑、説明板
主な遺構 櫓、門、曲輪、石垣、曲輪、横堀(空堀)
住所 長崎県平戸市岩ノ上町1473
問い合わせ先 平戸城
問い合わせ先電話番号 0950-22-2201