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城好き

登り石垣が素晴らしい (2025/07/16 訪問)

10年以上ぶりに松山城を訪れました。
片道のリフト券を購入し、往路のみリフトを使用しました。
復路は、全国でも珍しい登り石垣を眺めがら、徒歩で下山しました。

見所の多い松山城ですが、私が個人的に素晴らしいと思っているのが、
天守と登り石垣です。
松山城の天守は、連立式天守となっており、
現在確認できるのは、姫路城と和歌山城と松山城のみだとか。
登り石垣も壮大でした。洲本城や彦根城にもあるらしいですが、
全国でもあまり見られないということと、松山城のものは全国で
最大規模(全長約233m)なのだそうです。

✳︎登り石垣のある城:岩国城、彦根城、洲本城、松山城、米子城など

【松山城概要】
・慶長7年(1602年)、戦国時代の勇将で賤ヶ岳七本槍の一人、
 加藤嘉明により築城
・勝山城山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸を整備した
 広大な規模の城郭
・江戸時代に建築再建された天守や城門、櫓など21棟が重要文化財
 に指定されている
・天守は、現存天守。連立式であり、現存天守12のうち、最も新しい
かつ現存天守で唯一、瓦に徳川家の葵紋が付されている

【情報】
(本丸広場)
無料

(天守観覧)
大人: 520円
小人(小学生):160円

(松山城ロープウェイ(リフト))
大人:往復 520円
   片道 270円
小人(小学生):往復 260円
        片道 140円

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ヒロケン

三木氏の冬城 (2025/07/05 訪問)

桜洞城(さくらぼらじょう)は、松倉城を築城し居城を移すまで、飛騨国を支配した三木氏の居城でした。桜洞城は往時、四方150m程のほぼ方形の館城(平城)で土塁と堀に囲まれていたとされています。遺構としては、石垣、土塁、堀がわずかに残っています。

皆さんの投稿にあるように、41号線を北上し桜谷公園を目指します。桜谷公園駐車場を利用させていただき、案内に沿って桜洞城を目指し、駐車場から飛騨川を跨ぎ徒歩10程で桜洞城城址碑に辿り着きます。土の城と思っていましたが、飛騨川から運んだと思われる丸みを帯びた石積みがありました。(後世のものかもしれませんが)
城址の南隅の一部(石垣、土塁、堀)のみが残っており、大半は田畑になっていました。

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しんちゃん

安倍十二柵 (2025/01/05 訪問)

鳥海(とのみの)柵は11世紀に奥六郡(胆沢・江刺・和賀・斯波・稗貫・岩手)を支配した安倍氏一族の築いた安倍十二柵の一つで国の史跡に指定されています。柵主は安倍氏の当主頼良の三男・宗任とされ東に北上川、北と南に宿内川と胆沢川が流れ、北上川と合流しています。
また北上川が出てきました。この地域の城柵(郭)と北上川は密接な結びつきを持っているようです。城柵同志の連携にも便利ですね。
頼良は前九年の役で源頼義に味方した安倍富忠との戦いで流れ矢にあたり、鳥海柵に戻り亡くなりました。安倍氏は厨川柵で滅び、宗任は捕えられて九州に流され、大島で亡くなりました。
柵跡は東の国道4号と西の東北自動車道に挟まれ、駐車場から北の郭を訪問できます。郭は広く、掘立柱建物跡や竪穴建物跡があり、深い堀を挟んで南部に主郭が有ります。主郭には東北自動車道の手前の細い道を南下すれば到達でき、普通車でも一応通行は可能です。

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november

富士山が綺麗に見えました🗻 (2025/05/04 訪問)

お茶の香りがする御城印がいただけます。紅葉山庭園はとても綺麗に手入れされていて、歩くのも楽しいし、お抹茶と生菓子がとても美味しいのでオススメです。公園内からは富士山が綺麗に見えるスポットがあります。

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november

楽しめる仕掛けがいっぱい! (2025/06/07 訪問)

重ね刷り版画やクイズ(コースターの賞品付き)など、楽しみながら学べる仕掛けがいっぱいありました。家康館とのセット券がおすすめ、館の中では武将さんが解説してくれました。売店のグッズや岡崎みやげがとても豊富です。

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november

筋肉痛😂 (2025/07/17 訪問)

ずっと行きたかった松本城へ。急な階段にびっくり!翌日は筋肉痛になりました。チケットは事前購入がおすすめですが、登城は平日だったので当日購入の人も待ち時間はなかったようです。御城印は売店横の事務所で頒布しています。登城後は城下町巡りが楽しめます。

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MTB

猫がかわいい (2025/07/17 訪問)

日帰り岡山小旅行で、岡山の日本100名城と続日本100名城を5つ巡った。備中松山城、その中では間違いなく一番良かった。
ふいご峠に車を停め、15分くらい山を登る。長らく山城には行ってなかったので、体力の低下を実感しながら、途中途中にある看板に元気をもらいながら進む。中太鼓櫓が見えて来て、城に来たことを体感(遅)。江戸時代には山上の城と山麓の尾根小屋の情報連絡の中継地転としての役割を果たしていたらしい。←日本城郭検定にも出たことある  んで登っていくと豪壮な大手門跡が!ずっと見ていられます。何段にも連なった石垣がさながら岩村城のよう。実は当初は岩村城に行く予定だったが、岐阜は雨が降りそうなので急遽岡山に変更した。岡山でも眼福物が見れて嬉しい。真田丸のオープニングにも使われたそうな。写真は二の門跡から撮ってます。
現存土塀を横目に見ながら進むと、さっきみた石垣がどのような配置になっているかよくわかる。
本丸に入ると猫が寝そべっていた。人に慣れているらしく、私のことは意にも介さずグダーッとしている。
天守内はご存じ、囲炉裏や装束の間、御社殿が残っており面白かった。
ニの門、三の門、四の門…十の門を順番に見ていくのも面白いのでぜひやってみて欲しいです。
天守背後の二重櫓周辺には蜂がいるので注意。
この城は山田方谷推しが強く、大河ドラマにしてもらいたがっている。調べてみると藩の財政を立て直した凄い人らしい。
ついでに岡山城では宇喜多推しが強かった。

良い城でした。縄張りは山城なのに近世城郭というギャップもgood。写真はプロフィール画像から見てください

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にのまる

初チャシ (2025/06/29 訪問)

新青森駅前の東横インに前泊。
釧路まで8時間の列車旅に耐えられるか少し心配でしたが、車窓を流れる美しい景色と脳内リフレインする「北の国から」のメロディに浸りながら快適に過ごしました。

釧路駅から路線バスで釧路市立博物館へ。
受付で史跡釧路川流域チャシ跡群のリーフレットをいただきました。
ハルトルチャランケチャシは博物館の近くです。
右手に春採湖を見ながら歩いていると少し出っぱった緑の森が見えてきました。
ここだ!
ドキドキしながら道路側からアプローチ。
大きく弧を描く2条の壕がここが特別な場所であることを教えてくれます。湖畔に佇むと切り立った崖の上であることも認識でき、外界との違いを肌で感じることができました。
人生初・チャシとの対面は「お城」の世界観をぐっと広げてくれました。

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しんちゃん

安倍一族は北上川に拠る 国指定史跡 (2025/01/05 訪問)

白鳥館は白鳥舘遺跡として国の史跡に指定されています。湾曲する北上川に突き出した丘陵上に築かれており平安時代末期には安倍頼時の八男・白鳥八郎則任の居館が置かれていたようです。
奥州藤原氏時代にも「川湊」として機能していたようで、平泉の関連で世界遺産の暫定リストに記載されています。このままごっつぁんゴールが決まると良いですね。
しかし「白鳥」って、名前が良いですよね・・響きが美しいし、まあヤキトリも悪くは無いのですが。
戦国時代にも使われていたようで、本丸と二の丸の間には堀切が残っていて、二の丸は広く白鳥神社が祀られ西側に土塁が残っているようです。本丸の北側は崩壊していて往時の姿を窺い知ることは出来ません。城址東側には扁平地(曲輪)が複数配されています。
藤原氏の時代には城址の北端で白鳥川が合流していたと考えられており、南北二ヵ所に「川湊」を備えた要衝で「かわらけ」などを焼く窯や掘立柱建物などがあったようです。

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しんちゃん

豊岡陣屋表門 お城ガチャ (2025/07/01 訪問)

豊岡陣屋の表門は兵庫県豊岡市出石町の福成寺に移築されています。此隅山城に行くついでに寄って来ました。できれば有子山城も登りたかったけど暑かったので。兵庫県の写真はあまり残っていないのだけどリピートでコツコツ廻っています。
豊岡陣屋は豊岡藩の藩庁で寛文8年(1668)京極高盛によって豊岡城跡の山麓に築かれました。

タムタムによったついでにお城ガチャをやって見ました。全五種でカラー彩色版とゴールド版の2種類があるようです。ゴールドってただの手抜きやん・・
7回やった結果は
大阪城・・ゴールド 1ヶ
熊本城・・彩色 1ヶ ゴールド 1ヶ
上田城・・彩色 2ヶ ゴールド 2ヶ ってなんじゃこの結果は!!? 上田城多すぎじゃ
いくら真田好きだからって、上田城はこんなにいらんぞ。

とりあえず並べてみた・・多聞櫓みたい・・ 熊本城を囲ってみると熊本城の四方を守る門&城壁のようだ・・
これでいいのか上田城??

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天守無しがアツい

小山大返し (2025/07/17 訪問)

徳川家康は大軍を率いて上杉景勝討伐に赴いていた…下野国小山(栃木県小山市)に滞在していた最中…

(早馬)申し上げます…石田三成殿挙兵…東へ向かっているとのこと🏇
(家康)なんと…こうしてはおれん…上杉討伐は中止じゃ…軍を引き返したい…皆を集めて軍議じゃ
(家康の部下)はっ!

この地にて家康ならびに諸将による軍議がおこなわれ…「城を明け渡してでも家康殿に付き従う」という山内一豊らの決意により…家康率いる東軍の主力は西へ進軍…関ヶ原に陣を敷いて三成率いる西軍と開戦

兵数こそ不利だったが…西軍の諸将を次々と寝返りさせる事に成功して…見事勝利を収めたわけである

秀吉の中国大返しならぬ…家康の小山大返し…もしこの時、三成挙兵の知らせが遅れたり…家康が(三成を無視して)上杉討伐に固執していれば…挟み撃ちとなって徳川の天下は無かったかもしれない

当時この辺りには…諸将による軍議のための建物が急遽造られたと石碑に書いてある…その建物は現存しないが代わりに小山市役所がそびえ立つ🏙️

(参考URL)https://www.city.oyama.tochigi.jp/sp/kankou-bunka/rekishi_bunka/bunkazai/page000011.html

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ぴーかる

太田道灌城 (2025/05/17 訪問)

【太田道灌城】
<駐車場他>未調査
<交通手段>神谷町駅から徒歩

<感想>1泊2日江戸満喫旅2城目。1日目の江戸城外濠巡りのついでに来ました。太田道灌城は城とはあるが、江戸城の南を守る塁だったそうで、江戸時代は出石藩仙石家の藩邸があったそうです。遺構は残っておらず現在は説明板も無し、虎ノ門ヒルズが建っている。城びとポイントのみ撮影しました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

奥州藤原氏より続く歴史、岩屋堂伊達家 (2025/01/05 訪問)

みなさん「えさし藤原のさと」の写真を投稿されてますね。わたしも勿論行ってますが、写真がまだ残っているかな?
岩谷堂城の歴史は古く、平安時代末期には藤原経清と子の清衡が居住していました。藤原氏を顕彰する目的で本丸には八角堂(二清院)が建立されています。藤原氏以外にも多数の城主がいますが、なんといっても奥州市は藤原氏が強いですね’(昔は江刺市だったのだが)。
城址は人首川の西の丘陵に面していて、人首川にはドクロがいっぱい流れています(ウソ)。
夜中に訪れた人首城にはドクロがいっぱい転がっていました。。(ウソ)
二の丸東門は興性寺に移築されていて、参拝したら参拝者用にミカンが置いてありました。檀家さんが優先だろうし、ここは我慢しようとおもったのだけど。。

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しんちゃん

織田家の為の陣屋と言って良い。 (2025/07/01 訪問)

柏原陣屋は柏原藩の陣屋で政庁です。慶長3年(1598)織田信長の弟・信包が3万6千石で入りました。嗣子が生まれず三代で途絶え、しばらくの間天領として管理されますが元禄8年(1695)織田信雄の孫・信休が父・信武の自害「宇陀崩れ」の咎で宇陀松山藩より2万石に減封され移って来ました。正徳4年(1714)に柏原陣屋が完成し明治まで続きました。
陣屋の入り口にある長屋門は正徳4年(1714)に建てられたもので文政元年(1818)の火災を逃れた幸運な遺構です。現在の御殿が文政3年(1820)に再建されたもので、明治維新で解体され、今は1 / 5程が残されています。

この日は某アプリで「雪舟」を捕まえにやって来ました。ちょうど近くにいたので、このタイミングを逃す手は無いと思いましたね。無事「黒井城」で登用でき、暑い中「黒井城」に登っています。

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しんちゃん

また行きたい。

ちょっと古い写真なんですが、しばらく行けないかも知れないので載せさせて。。現存十二天守では一番比高の高い所にあり登城も結構しんどかった記憶があるけど、いまならスイスイじゃないかな・・要は「慣れ」ですね。山城のしんどいところを幾つかクリアしていくにつれ、心構えもできてペース配分も上手くなっていくんじゃないかな~。
最近丸亀城の日本一小さい天守アピールが強くなって来てるけど、あっちは三階、こちらは二階ですからね。石垣の中もあるけど本当に小さい。どっちの天守も小さくて好きですけどね。天守代用の小峰城の三階櫓もそうだけど、天守は雰囲気も大事だと思います。

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しんちゃん

太鼓門 (2025/07/01 訪問)

細川氏が関ヶ原の合戦の功関で豊前国中津へ転封となったのち、京極氏が最初に田辺城に入り、宮津城を修復して居城としました。宮津港に面した海城で本丸は市街地に埋もれ、周囲に二の丸・三の丸を配していました。藩校・礼譲舘は城の外堀の南にありました。
大手川沿いにある宮津小学校は礼譲舘の跡地とされ城の南側に有った太鼓門が移築されています。川沿いに白壁が続くエリアは「しらかべの道」と呼ばれているようです。

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しんちゃん

一色氏最後の城 (2025/07/01 訪問)

弓木城は東に阿蘇海を臨み、南に野田川が流れる丘陵上に築かれており、現在は城山公園として整備され駐車場も用意されています。北の小学校もかつての城址・北曲輪郡とされ遺構は消滅していますが、南曲輪群は遺構を残しています。
古い書物には「いみの木」の城主が「稲富どの」と記されていて、この「いみの木」が「弓木」になったのではないかと思います。稲富氏は最初は山田氏を名乗っていたようです。
最後の城主は一色氏とされ、天正10年(1582)9月に一色義有は細川氏に殺され、弓木城も落城したようです。最高所が本丸とされ「水無水神社神輿庫」が置かれ北西には「城山稲荷」のある曲輪があります。南東に細長い曲輪があり大手が付いていますが、大手道はかなり急坂です。大手から東にも曲輪が続き、周辺にも曲輪が残っています。

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しんちゃん

洞玄寺 (2025/07/01 訪問)

石原(いさ)城は戦国時代に大槻安芸守政治という豪族が舘を構えていたとされています。城址とされる洞玄寺は周囲に土塁と堀を残していて高台に築かれている様子から一目で城址とわかります。
洞玄寺を築いたのは二代目の与門(洞玄)とされています。寺の縁起所には天文年中に当地に城を築いた人物は以仁王十二臣の一人と同名の大槻光頼となっているようです。高津から石原にかけては大槻氏の一族が支配した土地とされ、中間にあたる観音寺にも大槻氏の城があったようです。

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朝田 辰兵衛

崩落部を上から撮影したら…📷 (2025/05/05 訪問)

甲府駅1番のりばから🚌に乗り,小笠原下仲町バス停下車。所要時間は約40分で,運賃は800円(IC可)。小笠原下仲町バス停から登城口まで,徒歩約120分。舗装道路ですが,ほぼほぼ登山。久しぶりの標高1000m超。マイペースでゆっくりと…。途中,富士山を眺望できるスポットがありました🗻
中野城ですが,東側急崖は一部崩落しており,散策には注意が必要です。私はギリギリまで接近して,真下を撮影しました。しかし,ただの竪堀か空堀道か…という,緊張感の伝わらない画像になってしまいました…<泣>。

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トク

【筑紫広門】(6)八女福島城(広門最後の居城) (2025/05/17 訪問)

筑紫広門の続き(6/6)です。八女(やめ)市にある福島城を訪れてきました。八女と言えば、今では日本有数の「ひな人形」の産地として有名です。

猫尾城のある黒木から堀川バス(羽犬塚駅行)で少し戻り、途中の福島で下車しました。西鉄久留米駅からは西鉄バス八女営業所行に乗り福島で下車しても交差点を挟んだ場所に停車します。そこから徒歩5分の市役所前にある八女公園が、福島城の本丸があった場所です。現在は本丸の櫓台跡が残っていました(写真①②)。

1588年に秀吉から上妻郡1万8千石を与えられた広門は、いったん蒲池氏の支城であった山下城に入りますが、山城で手狭であったため、翌年新たに麓の平地に福島城を築き居城としました。

そして広門は、この福島城から秀吉の命で二度朝鮮へ出兵します。そしてその後の関ケ原では西軍に付き、毛利秀包(久留米城主)・立花宗茂(柳川城主)らとともに関ケ原へ向かいますが、大津城で京極高次の足止めにあい、1日の差で本戦に間に合わず、福島城へ引き返します。しかし帰郷してすぐ、家康から改易されてしまいました。関ケ原の後、ここは筑後柳川に入った田中吉政の領地となり、吉政はこの福島城とその城下町の整備を行い、三男の田中康政を城主として入れますが、その後の一国一城令で廃城となったようです。

吉政は三重の堀で城を囲み。商人を集めて城下町を形成したようです。その堀は現在ほとんど埋められていますが、わずかに残っている場所もありました(写真③④)。また歩いて5分の所にある八女民俗資料館には、吉政当時の天守の鯱が保存されていて、当時の模型なども展示されていました(写真⑥⑦)。白壁の町並みは今でも城下に残っており、散策するにはとてもよい所でした(写真⑧⑨)。さすがは吉政! 本当に城下町作りの名人ですね(写真⑩)。

改易された広門は、黒田・加藤・細川を頼り転々と流浪して亡くなったようです。同じく改易された立花宗茂は3代徳川家光の時に柳川藩主に復帰しますが嫡子がなく、弟直次の子忠茂が柳川藩2代藩主となります。そしてその血筋が幕末まで代々柳川藩主を務めます。そしてその末裔の方が今でもいらっしゃいます。広門には養子がいて、大坂の陣でも活躍し、旗本として3000石が与えられますが実子ではなかったようです。

つまり、直次の妻は広門の娘なので、広門の血は立花家の中で流れ続け、そして400年以上たった今でも彼の血は絶えずに流れ続けているという事になるのです。おそらく広門は、立花家の中ではあれど、血を絶やすなという家訓が守られている事に安堵し、あの勝尾城の山頂からこの筑後の街を見守っているのかもしれませんね😊。

以上、全6回読んでいただきありがとうございました。
 

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