山口城から東北に尾根筋を歩いて行くと法林寺城に行くことができます。城びとには未登録の城址です。望郷の展望台として整備され防災通信施設が建てられていました。途中に堀切があります。主郭に西側に降りたところにも堀切がありました。東側に下りたところにも堀切がありましたが、浅くなっていました。登城路はハイキングコースとして整備されています。
歴史は記載してある記事など見つけられず詳細不明です。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2025/05/04 09:15
法林寺城(岐阜県本巣市) (2025/05/03 訪問)
山口城から東北に尾根筋を歩いて行くと法林寺城に行くことができます。城びとには未登録の城址です。望郷の展望台として整備され防災通信施設が建てられていました。途中に堀切があります。主郭に西側に降りたところにも堀切がありました。東側に下りたところにも堀切がありましたが、浅くなっていました。登城路はハイキングコースとして整備されています。
歴史は記載してある記事など見つけられず詳細不明です。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2025/05/04 09:03
山口城(岐阜県本巣市) (2025/05/03 訪問)
岐阜県本巣市にある城址で茶人としても有名な武将古田織部正重然が生まれた城と伝わっています。城びとには未登録の城址です。
文殊の森公園の駐車場からしばらく舗装された道を歩くと登城口があり山口城址の石碑がありました。その石碑から登って行くと迷うことなく城址へ行くことができます。途中に中の城があり山口城の出丸と考えられています。削平地以外に遺構はないと思いますが、展望台が設置されていて眺めはよかった。
中の城から少し登ると主郭に行くことができ主郭には説明板がありました。周囲には帯曲輪が配置されていて、少し下ったところに井戸跡もありました。
登城口の石碑には山口城址の横に城主 梶原景時の記載がありました。江戸時代初期の『美濃国諸旧記』に鎌倉時代初期に梶原景時が城主であったと記されているためですが、否定的な説もあるようです。石碑の裏に古田織部生誕の地と書かれていました。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2025/05/04 07:36
2025/05/04 00:54
小峯御鐘ノ台中堀切の「クランク」が素晴らしい (2025/03/09 訪問)
中堀切部分は道路になっているので歩ける。横矢掛りできるように堀がクランクになっているのがよくわかる。また、東堀と連結している構造が珍しく、入り組んだ堀により敵を翻弄する狙いがあると思われる。尚、中堀と東堀の間は通行禁止になっている。中堀に比べて東堀がかなり深いので安全対策のためだろう。観光客が増えると立ち入り禁止になる部分が増えてくるのがもどかしい。自分もその一人なので、文句を言える立場にないのだが。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2025/05/03 19:55
2025/05/03 19:51
ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑧ (2025/04/27 訪問)
津久毛橋城からの転戦です。安倍貞任ゆかりの城のようですね。しかも現在のダムの位置に岩石や丸太を積んで水をためて戦ったとは。敗退したとはいえ、その発想は見事というほかはありません。今回の宮城の城めぐりでは、至る所で美しい春紅葉を目にしていたのですが、城の写真になかなか入ってくることがありませんでした。ここより美しい春紅葉は幾つもあるのですが、このあたりで春紅葉の写真も投稿させていただきます。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2025/05/03 19:43
ゴールデンウィークに地元の友人と日帰りで近江の城を攻めよう その② 安土城 (2025/05/01 訪問)
ゴールデンウィークに帰省し、地元の友人と日帰りで近江の百名城・続百名城のうち未攻略の3城を攻めてきました。2城目は安土城。
観音寺城攻略後、昼食を食べて体力を回復して安土城の石段に臨みました。しかし流石に信長公の城、体力はあっという間に消耗してしまい、へろへろになりながら天主に辿り着きました。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2025/05/03 19:31
ゴールデンウィークに地元の友人と日帰りで近江の城を攻めよう その① 観音寺城 (2025/05/01 訪問)
ゴールデンウィークに帰省し、地元の友人と日帰りで近江の百名城・続百名城のうち未攻略の3城を攻めてきました。最初は観音寺城。
朝食を取らずに早朝6:30に名古屋を出発し、予備知識を殆ど入れずに行ってしまったのですが、なかなかの山城で、大石垣に辿り着く頃には汗だくで疲労困憊でした。あと二つも山城が残っているのに最初から体力を消耗してしまいました。ただ、大石垣は一見の価値があると思いました。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2025/05/03 19:25
【春の長崎天草を巡る⑪】島原から天草へ (2025/04/01 訪問)
春の長崎を巡る旅、島原(原城)から天草(大矢野島)までのルートです。
カズさんの鈴木重成の投稿で思い出し、急に富岡城も見たくなったので、原城の島原半島からフェリーで天草へ渡り、大矢野城、本渡城を経由して富岡城までを目指す事にしました。
原城からまた同じバス加津佐行で島原半島南端の口之津港で降り、そこから島鉄フェリーに乗り30分鬼池港に到着です(写真③④)。口之津はヴァリニャーノ神父が日本で初めて上陸した場所だそうです。ヴァリニャーノ神父と言えば、日本を去る時、織田信長が安土城に松明を飾って盛大に見送った話は有名です。でも上陸地点はここ口之津だったのですね。上陸して島原領主の有馬晴信に出会ってここで布教を許され、セミナリヨを建て修道士を養成しながら3年間を過ごし、キリスト教を広めて行きます。それで島原の領民は大半がキリシタンとなったのです。それから大村(大村純忠)や豊後(大友宗麟)や京(高山右近)などに立ち寄りながら、安土の信長に会いに行ったようです(写真①)。
口之津港の2階には歴史資料館があり、キリスト教との関わりや有馬時代のポルトガルとの貿易の歴史や、明治時代には石炭積出港として栄えた歴史などが紹介されていました。出航までちょっと時間があったので見学しました(写真②)。
また鬼池(苓北町)は、天草四郎が天草から島原へ渡った地でもあります。鬼池港には銅像がありました(写真⑥)。フェリーの上からは原城が見えました(写真⑤)。天草四郎も船上からこの景色を眺めながら、あそこへ渡ったという事になります。感慨深い景色でした。
そして鬼池港からバスに乗って本渡へ行き、本渡バスセンターで熊本行の快速あまくさ号に乗り換え、天草五橋の途中の大矢野島で途中下車して、「天草温泉ホテル亀屋」(写真⑦)に宿泊しました。露天風呂は地下1000mから汲み上げた太古のにがり成分を含む美肌の湯だそうで、確かに男の私でも肌がつるつるになりました。ここ大矢野島は天草四郎が生まれ育った場所だとされています。ならば私も四郎のような美少年に戻れるかも🤔?(笑) そして海を眺めながらの露天風呂を堪能した後は、レストランでの海の幸バイキング! これはもう最高でした😊(写真⑧⑨⑩)。
ホテルの近くには「大矢野城」と「天草四郎メモリアルホール」があるようなので、明日はそれらと本渡城を見学してから富岡城へ向かおうと思います。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2025/05/03 19:21
2025/05/03 19:20
見事な破風とひこにゃん (2025/04/19 訪問)
駐車場からひこにゃんソングが流れ城内に入るとひこにゃんがお出迎え。やっぱりアイドル可愛い。天秤櫓の橋を通り門を抜けて天守閣へ。入母屋破風、切妻破風、唐破風と多種多様な破風の天守閣は見事でした。現存の木造は当時の趣きを実感でき素晴らしかった。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2025/05/03 19:17
2025/05/03 16:10
新しい『真武根陣屋遺址』に、おめでとう。 (2025/05/01 訪問)
東京の端っこからアクアラインを使って「真武根陣屋」に着陣しました。
写真を写して退陣する予定だったので、目の前にある霊園の駐車場をお借りしました。
石碑と説明板がありました。
「真武根陣屋」は1850年、林 忠旭さんが築いたそうです。遺址には、もう少し古い林家の歴史が刻まれてます。
『真武根陣屋遺址』の裏手は写真③のような広場。ここに陣屋があったのでしょうか?
遺址の裏側にも、何やら刻まれてます。
発起人のお名前があり、室。家老、重臣、陣屋建築棟梁のお孫さんたちのお名前。
令和元年に倒壊し、令和5年4月に再建したようです。
ふ~ん。て、この前じゃん!(もう令和7年になっていた事に、この時は気付いてません)
俄然、林家に興味が湧いてきました。
林 忠旭さんの子、忠崇さんは『最後の大名』と言われたようです。
取り潰された大名は多いけど、自ら藩主を捨てた大名は、忠崇さんだけなんだとか。
戊辰戦争の時には新政府軍に抵抗し陣屋を焼き払い出陣します。大政奉還があり、蟄居。
その後いろいろあり、忠崇さんは豊島区のアパートで94歳でお亡くなりになりました。
江戸、明治、大正、昭和まで、大変なご苦労があった事でしょう。
『真武根陣屋遺址』を再建した発起人の方々のおかげで、4時代を駆け抜けた先人に出会う事ができました。
私は、昭和、平成、令和を颯爽と駆け抜けて来たであろうか?
ブレブレの人生を見つめ直し、恥ずかしくなった「真武根陣屋」攻めでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2025/05/03 15:01
2025/05/03 14:38
午後だと逆光 (2025/05/01 訪問)
昼下がりに着いたのですが、ちょうど逆光になっちゃいました
+ 続きを読む
♥ いいね
7人が「いいね」しています。
2025/05/03 14:34
山里口御門 (2025/05/01 訪問)
山里口御門がキレイな復元されてます
+ 続きを読む
♥ いいね
7人が「いいね」しています。
2025/05/03 14:13
市場城 (2025/03/08 訪問)
【市場城】
<駐車場他>登城口西側の駐車スペース<35.417868,134.311660>に駐車しました。
<交通手段>車
<見所>舌状曲輪連段・切岸・巨石・大城郭
<感想>転送したら写真全滅だった件、の再訪城1城目。現地説明板を要約よると市場城は「草創年代不詳、鎌倉時代因幡国守護の大江氏の一族である毛利氏(因幡毛利氏)が来国、この地方の地頭となります。城郭的形態を整えたのは鎌倉時代後期と考えられる。戦国時代には山名氏・毛利氏・尼子氏と複雑に従属や合戦が入り乱れ、羽柴秀吉の鳥取城侵攻に伴い1581年、十余代の毛利豊元を最後に城は落城」とあります。
案内を詳細に記述します。登城口は<35.417415, 134.313263>、背後に手書きで書かれた素晴らしい縄張り図、説明板があります。登城口の道を真っ直ぐ山に向かって突き進むと墓地に入ります。墓地に入ると右手に丸太階段があるので登ります。荒れた墓地の上段に出ます。奥に竪堀(現地縄張り図に記載されている)があるので竪堀かその脇を直登(ストック・手袋要)します。竪堀を登り切ったら北西の麓付近の曲輪に取り付けます。あとはもう主郭まで曲輪群が連なっているので遺構を観つつ登れます。
カエル岩へは、岩の切岸壁がある曲輪の1つ下段の曲輪、東側の奥が谷の斜面があり木々が少し薄くなっていて谷の斜面を横断できるので横断すると舌状曲輪に入れます。そこから北方向へ巨石の連段曲輪を下っていくとカエル岩があります。
ほぼ独立した山全体が城跡となっていて、山の北側全体の尾根筋に連段の曲輪を多数配置しています。主郭から南東の尾根筋は比較的平坦で3条の堀切を設けています。主郭の東下段に巨石が多くあり蔀の役割をしていたかと。そこから北へ急峻な岩場を下っていくと最北東側の曲輪段に出ます。舌状の広い曲輪が連段になって山の中腹まで落ちています。切岸も垂直気味に高さがあるので見応えがあります。2時間半散策しましたが主郭から真北に落ちる2条の連段曲輪群は行き方が分からず行けませんでした。大城郭の見応えある城跡でした。散策楽しかった。
<満足度>◆◆◆
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2025/05/03 11:12
楠木正行築城 (2025/04/26 訪問)
堀城を終えて、阪急宝塚線沿線の未踏の城探訪ラスト三津屋城を目指す、城びと投稿者にては徒歩で訪ねたと有り、スマホナビを見ながら進行、約1.3km程、私の足では20分位かなと、阪急神戸線沿いの道を神崎川駅方向へ、淀川区第1576号線を西へ、三津屋小学校辺りで光専寺を目指す。スマホナビを見てると後の距離、時間が出て励みになり、疲れた足腰も和らぐ感じがします。
三津屋城跡である光専寺山門に到着、門は閉まって入れません、山門前に説明プレートが2枚、光専寺縁起プレートが山門西袖塀に据付られて居ます。
三津屋城はよく調べて無く、楠木正行の名前が出てきてビックリしました。
説明プレートには、「三津屋城跡伝承地」南北朝時代の城で楠木正行によって延期年間(1336~38年)頃に築城されたと言われる。現在の光専寺の一帯に「字 城之前」の地名が伝わり、城郭の詳細は不明ながら、この付近に存在したと推定される。(大阪市教育委員会)
もう1枚の説明プレートには、明治18年の地籍図付きで「三津屋城跡伝承地」この地にある光専寺の周辺は「字 城之前」と呼ばれており、付近には「字 馬洗」の地名も存在した事から、この一帯が城跡であったと推定される。かっての城郭の状況については不明で、変遷やいつ廃城となったのかも明らかでない。
光専寺は本願寺派の真宗寺院で、文安5(1448)年に楠木正行の末裔である末弘治郎左衛門が蓮如上人に帰依し、廃朽した城跡に建立した寺院と伝わる。(大阪市顕彰史跡第197号)抜粋
三社山 光専寺 縁起のプレートにも、楠木正成が子、楠木正行が築く三津屋城の址に楠木一族の末裔末弘治郎左衛門が蓮如上人に帰依し一宇を草創せしを始祖として現在に至る。元禄年間建立の総欅造りの本堂は昭和20年6月の空襲で焼尽、現在の本堂は昭和40年再建、山門は戦災にも焼け残り、昔日の面影を伝え残す唯一の遺産と成った。(縁起プレート抜粋)
山門が閉まり入れないので門前で参拝、各プレートを確認読んで、撮影し今回の阪急宝塚線沿線の未踏の城探訪は三津屋城で終了です。
光専寺から阪急神戸線神崎川駅へ650m程、スマホナビ頼りに痛い足を引きずりながら約10分。
最近完成した大坂城豊臣石垣館へ向かいます。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2025/05/03 10:44
長慶の櫓跡発見! (2025/03/08 訪問)
築城時期は不明ながら小泉荘を領する小泉氏が築いた城で、三好長慶が細川晴元と対抗するために改修して洛中の拠点とし、織田信長が上杉謙信に贈ったと伝わる狩野永徳作の洛中洛外図屏風にも「さいのしろ」として描かれています。長慶の死後も松永久秀や三好三人衆配下の城として機能しましたが、信長の上洛に際して自焼し、廃城となったようです。
遺構はもとより石碑や説明板すらない城ですが、6年前には比定地とされる西院春日神社を見落としていたので、お参りして写真を撮って再訪完了。早々に次へと向かいました。
…などというだけの再訪の投稿をしても仕方ないよなぁ…と思っていたら、城びとの✕から西院城発掘調査のポスト(https://x.com/Shirobito_jp/status/1918089992750203295)が流れてきました。西院城って小泉城のことだよな? と思いながら元記事を見てみると、城びとでの小泉城の位置情報の少し東あたり(たぶん)で共同住宅建設に伴う発掘調査があり、櫓とみられる高い柱と大型の礎石を備えた建物と石組みの溝の跡が出土したとのこと。洛中洛外図屏風に描かれている建物に近い形状で、四条大路をまたぐように建てられていることからも長慶が改修した際のものと考えられるようです。現地説明会の有無等は記されていませんが、調査の後に埋め戻されるのは仕方ないとしても、これまでは本当に見るところのない城だったこともあり、せめて調査場所に発掘調査の説明板だけでも立ててもらえないかなー、と。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2025/05/03 09:45
堀城跡伝承地 (2025/04/26 訪問)
今西氏屋敷(今西家土居屋敷)を終えて、阪急服部天神駅から阪急十三駅へ、阪急宝塚線沿線未踏の城探訪ラス前「堀城」を目指す。
阪急十三駅西側より阪急神戸線沿線沿いの道を神崎川駅方向に約250m程で武田薬品工業東門へ着く、東門の東手に説明プレートが2枚据え付けられている。
説明プレートには「堀城跡伝承地」とあり、室町時代後半に築城された城で、元亀元年の織田信長による野田・福島攻めでは将軍・足利義昭が入城した。現在、かっての城郭を示すものは地表に見る事は出来ない。(大阪市教育委員会)
もう一つの説明プレートには、明治8年の地籍図付きで堀城跡伝承地が破線で示されている。十三渡北岸の要地であった城、細川氏、三好氏、織田氏との抗争が有り、野田合戦では足利義昭が入城、廃城後も樹木は残り「堀の森」と呼ばれた、現在地南西方向の十三公園巨木はその名残と伝わる。「大阪市顕彰史跡第198号」の抜粋
企業の門袖にプレート2枚を据え付けて頂けて、史跡の説明、跡を訪ねる個人としては大変ありがたい。余裕が有れば十三公園にも出向きたかったのですが、足腰、足の裏も痛みが出始めて先を急ぎました。
駐車場は有りませんし周辺は住宅地商業地工業地ですので徒歩或は自転車、オートバイが良いようです。
次はラストの三津屋城を徒歩で進行。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。