渋谷氏の城址である金王八幡宮には金王丸の伝承が残っています。「金王八幡社記」には源義家が河崎基家に渋谷を含める谷盛七郷を与えたされ、基家の子金王丸は源義家に従い、平治の乱の後は出家し土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔ったそうです。
その後、文治元年(1185)10月23日の夜、義経追討の命を受け義経の館で討死を遂げました。最期は残念ですが、義朝の代から源氏に良く使えた御家人だと思います。
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2025/01/18 09:52
金王丸 (2024/12/30 訪問)
渋谷氏の城址である金王八幡宮には金王丸の伝承が残っています。「金王八幡社記」には源義家が河崎基家に渋谷を含める谷盛七郷を与えたされ、基家の子金王丸は源義家に従い、平治の乱の後は出家し土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔ったそうです。
その後、文治元年(1185)10月23日の夜、義経追討の命を受け義経の館で討死を遂げました。最期は残念ですが、義朝の代から源氏に良く使えた御家人だと思います。
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2025/01/18 08:22
香川県の城びと登録城コンプリート達成 (2025/01/12 訪問)
寒霞渓には三笠山経由の登城口と説明板がありますが、2kmにも及ぶ道のりでかなり時間がかかってしまうということで星ヶ城園地の駐車場を目指しました。県道は融雪剤などの除雪が行われているようですが、県道から駐車場への道は雪で真っ白でした。斜度もかなりありとてもノーマルタイヤでの走行は無理です。幸い、県道脇に十分な駐車スペースがあったので車をとめて歩いて登っていきました。県道から歩いても寒霞渓からアプローチするよりははるかに短い距離で済みます。織田晃司さんが投稿されている舟形遺構は、急坂路の雪道だったので割愛しました。小豆島最高峰は東峰の方であやしげな祭祀遺構が鎮座していました。西峰の方が空堀がよくわかって遺構の見ごたえはあるかと思います。東西両方に阿豆枳島神社があります。これで漸く、香川県の城びと登録城コンプリートを達成することができました。吉川弘文館の「四国の名城を歩く」には未訪の城がいくつも載っていましたし、勝賀城など再訪したい城もありますので、またいずれ、香川県には足を運ぶと思います。
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2025/01/17 22:49
旦の光 浴びて一年 百の城 巡るを契り はや次を往く (2025/01/01 訪問)
“あさ” の “こう” あびて “ひととせ” ですね。あと「契り」と「千亀利」がかかっています。
2025年は岸和田城の朝焼けで幕が上がりました。
一昨年から、幼少期に懐いていた熱情を取り戻して再び城巡りに赴き、
昨年は一気にギアを上げ75の城を攻めたのでした。
タイトル通り、今年は100城攻城することを誓い、
次なる城(畠中城:大阪府貝塚市)へと向かいました。
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2025/01/17 22:19
幻の軍師・宇佐美定行 (2024/04/27 訪問)
幻の軍師・宇佐美定行の居城として知られるがそもそも宇佐美氏自体がここにいなかったのではないかとの説もあるらしい。現状は石碑一本だが「ここが琵琶島城かー」としみじみするためだけに訪ねる城旅があってもよいと思う。
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2025/01/17 20:21
秘密基地みたい (2024/09/14 訪問)
宇都宮城の始まりは平安時代に藤原秀郷または藤原宗円によって築かれたとされています。宗円は宇都宮氏の祖となる人物で、前九年の役にて功を立て、宇都宮大明神の座主の地位と、毛野川流域一帯の支配権を認められました。その後、長らく宇都宮城は宇都宮氏の居城となり、豊臣秀吉の小田原攻めの後も所領を安堵されますが、慶長2年(1597)に宇都宮国綱が突如改易され、その後蒲生秀行が18万石で入りました。その後も江戸時代末期まで城主が次々と入れ替わりますが、元和8年(1622)の宇都宮釣天井事件にまつわる謀反の疑いで本多正純が改易されています。
宇都宮城は本丸周辺が城址公園として整備されていますが、土塁にコンクリートで入口が設けられていたり、エレベータが設置されていたりで、コレジャナイ感が盛り盛りです。私は正直居心地は良くないですが、市民の皆さんが喜んでいるのならいいのかな?
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2025/01/17 19:54
2025/01/17 19:41
武蔵千葉氏の拠点 (2024/12/23 訪問)
赤塚城は赤塚公園の一角にある丘陵が城址のようで、城址碑のある場所が本丸、梅林のあたりが二郭になるようです。道沿いにどこからでも入れそうですが、麓から登ってみました、比高もさほど無く、すぐに本丸にたどり着きます。
康正2年(1456)古河公方足利成氏の軍勢に攻め込まれた千葉実胤・自胤兄弟は関東管領上杉家の助けを受け、市川城を逃れて赤塚城と石浜城に入場したと本丸の案内板には書かれています。
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2025/01/17 19:26
とぜう食べたい (2024/12/23 訪問)
領ヶ谷城址には名物の鰻料理で知られる幸楽園が建っています。私はどちらかというと珍しい「どぜう」や「なまず」の料理を食べたかったので寄って見たのですが、店の掃除のためにあけてあるだけで、まだ開店はしていませんでした。許可を得て何枚か写真を撮らせていただいています。源頼朝の蜂起に呼応した佐々木三郎守綱公がここに出城を造り、平行盛を破ったと案内板には書かれています。
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2025/01/17 13:34
急斜面の岩山 (2025/01/13 訪問)
花崗岩の急斜面の山体です。南東側から見ると、巨岩がたくさん露出しています(写真1)。鞍部で雨山城とつながってますが、独立性が高いです。まずは土丸城が作られて、その後、雨山城が作られたとあります。
土丸バス停近くの広場に説明板があり、その先のお宮の前の道に道標があります。道標に従って真っ直ぐ進み、高速道路の高架下の車道を渡った先に、土丸城、雨山城登城口表示があります(写真4)。保存会の方々が登山道に道標を設置し、道脇のシダを刈ってくれています。雨山城麓から登る登山道は、ハイキング向けに手が入ってますが、こちらは激しく登って行きます。途中に関空方面が見渡せる箇所や南東の大木地区(農村風景)が見下ろせる箇所が設けられています。
竪堀、土橋で守られた尾根から進入します。頂部の郭も急斜面を利用して、切岸が高いです。城びとレポートの本丸下の土塁はシダがこんもりした所か?
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2025/01/17 09:02
美しい眼鏡橋が残る諫早氏の城 (2024/12/11 訪問)
戦国時代に諫早の地を統一した「西郷尚善」が築き、高城と呼ばれたのが始まりだそうです。天然の岩盤の地形を巧みに利用した平山城で、今では諫早公園となっていました。
その西郷氏は、有馬氏・大村氏・龍造寺氏などから度々攻められるも何とか切り抜け、龍造寺隆信が沖田畷で敗れ死去した後、一時鍋島氏の配下となりますが、その後に豊臣秀吉の九州南下に従わなかったため、秀吉から所領を没収されます。
代わって城主となったのが龍造寺家晴(龍造寺の分家)です。家晴は蒲池城や柳川城の城主となって、本家の隆信とは少し距離をおきながら筑後を治め、攻めて来た大友勢の立花道雪や高橋紹運と戦います。秀吉が九州を制圧すると家晴は所領を没収されますが、秀吉に嘆願し、鍋島配下として諫早の地を与えられました。そして江戸時代に入りその子の直孝は独立した一万石の大名となり、龍造寺氏を改め「諫早氏」を名乗るようになります。しかし、病弱で江戸参勤が出来なかったためすぐに廃藩とされ、その後一国一城令で諫早城は廃城となったようです。しかし直孝は、佐賀藩の家老となる事で、諫早の地に居館を構える事が許され、諫早氏は存続する事ができしました。
天然の掘としていた本明川ですが荒れ川で洪水が多く、橋を架けてもことごとく流され続けたため、住民はかなりの不便を強いられたようです。江戸後期の1839年に、時の領主「諫早茂洪」は「絶対に壊れない橋を造れ!」と家臣に命じて石橋を造らせました。昭和に入り河川を改修し、川の流れは橋を通らないよう改善されたため、江戸期の橋は180年経った今では、庭園と共存する美しい橋として諫早市民に愛されています(写真①②)。
二の丸からは諫早市街を眺める事ができました(写真⑥)。中央の黄色い列車は島原鉄道(島原行)です。また現在は西九州新幹線もここ諫早駅に停車します。
夜は、諫早から北の海岸にある崎野自然公園のコテージに宿泊しました(写真⑧⑨)。海沿いで眺めがよく、コテージから見えた朝焼けの大村湾はとても綺麗でした(写真⑩)。
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2025/01/17 07:14
【大阪城残石記念公園】【寒霞渓】 (2025/01/12 訪問)
いよいよ星ヶ城攻略の日を迎えました。三連休の中日だけあって格安のニコニコレンタカーの予約をとることができず、不安を抱えての小豆島行きだったのですが、無事、レンタカーを借り受けることができました。星ヶ城に向かう前に大阪城残石記念公園に立ち寄ってみました。道の駅としてのポテンシャルはさほど高くはありませんが、大阪城石垣の石切場であった小豆島を知ることのできる資料的な価値はかなり高いと思います。近くにはいくつもの丁場跡がありますが、今回は割愛して寒霞渓へと向かいます。寒霞渓が近づくと路面に凍結部分が増えてきます。レンタカーはノーマルタイヤだったので少しでもスリップしたら引き返してロープウェイを利用しようと思っていました。安全運転に徹して無事、寒霞渓の駐車場にたどり着くことができました。展望台を巡る遊歩道は雪道でしたが、雪道には慣れているので転ぶことなく、日本三大奇勝の一つ、寒霞渓の絶景を楽しむことができました。
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2025/01/16 22:50
寿能城 (2024/12/23 訪問)
寿能城は岩槻城の支城として永禄3年(1560)ごろに築かれたとされています。かつての見沼が三方を囲み自然の要害であったとされ、寿能公園一帯がかつての本丸跡で、墓碑の建っている塚が物見櫓の跡と言われています。
岩槻の太田資正の子である潮田出羽守資忠の居城とされ、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城したとされています。近くにある大和田公園(大宮第二公園?)にも遺構があるというので、一応見に行ってみましたが、はっきりとわかる遺構は見つけられませんでした。土塁といえば土塁に見えないこともないし、違うと言えば違うし・・
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2025/01/16 22:37
2025/01/16 22:30
ぶらりと登城 (2025/01/16 訪問)
ぶらりと岐阜城へ行って来ました。昨年は岐阜の街は散策しましたが、山頂へは行かなかったので1年とちょっとぶりになります。岐阜城に最初に登城したのは小学生のときですが、高校生の頃、司馬遼太郎の「国盗り物語」を読み、この城に興味を持ち何回か登城しています。司馬遼太郎は国盗り物語の中で「美濃を制する者は、天下を制することになる」「美濃は、郡のかずでいえば十数。コメのとれ高は六十五万石はくだらない。その上、京に近く、かつ、街道は四通八達し、隣国の尾張に出れば東海道、関ケ原付近からは北国街道、東山道、伊勢街道が出ており、天下の交通の要地で、兵馬を用いるのにじつに都合がいい。」と書いています。小説の主人公である斎藤道三と織田信長が美濃の拠点としたのが、この岐阜城(稲葉山城)でした。
いつものように散策しようと思いましたが、この日は山頂施設解体にともない資材運搬用モノレールを設置作業のため本丸下の井戸を通るルートが通行止めになっていました。井戸周辺にいい石垣があるのに残念でしたが、仕方ありません。
平日でしたが多くの観光客の方がみえていました。
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2025/01/16 20:44
小栗一族 (2024/12/23 訪問)
大成館は十三歳で徳川家康の小姓となった小栗忠政の館とされています。忠政は近江姉川の戦いで攻めてきた敵に対し、家康所有の信国の槍を取って渡り合い、その褒美として信国の槍を賜ったとされています。後に武州安立郡大成村550石を含む2550石の領地を与えられ、死後は普門院に葬られました。
幕末に活躍した小栗上野介忠順は、本家政信の子孫で、新政府軍に徹底抗戦を主張し陸軍奉行及び勘定奉行を罷免されると、家宝の信国の槍などを普門院に預け、領地である上州権田村へ隠棲しますが慶応4年(1868)4月6日朝敵として捕えられ斬首されました。
館跡とされる普門院には忠順の供養塔と、野球のボールのような形状をした小栗上野介招魂碑が建てられています。
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2025/01/16 19:34
平城に匹敵する陣屋跡 (2024/12/23 訪問)
赤山城は現地案内板には赤山陣屋と記され、伊奈忠治が新たに赤山領七千石を賜ったことから元和4年(1618)に構築を始めた大規模な陣屋だったようです。城址碑と案内板のある場所の北側一帯が広大な陣屋跡(本丸に相当)で西側に二の丸、陣屋の北側に出丸が配され、周囲一帯に家臣屋敷地が配された、平城に匹敵する陣屋だったようで、城址碑の東西に整備された空堀跡が残っています。
周囲は道が狭いので離れた場所に車を置いてきたのですが、この日はハンドルロックのトラブルが継続的に続いて往生しました。
原因は大き目の変換機をソケットに接続していたためで、スターターが一時的な電力不足に陥っていた可能性があります。エンジンをかける際にソケットからプラグを抜くようにしてから、トラブルが無くなりました。
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2025/01/16 19:18
まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)
【城域2:曲輪群[2-4]】
<登城路>前投稿の曲輪群[2-1]の北面がハイキングコースになっているので曲輪群の東端からゆるやかに北方向に向かって進むと土橋に着きます。ここからが曲輪群[2-4]になります。
<見所>土橋
<感想>北東方向に伸びる尾根上に築かれた曲輪群で、南から進んで行くと上記の土橋が現れます。ここから城跡のようで、土橋は土塁上を渡るようになっています。土橋の北側に腰曲輪、南側は扇状の谷の削平地になっていて、土塁土橋はこの削平地の背後の渡り廊下的な感じになっていたようです。そこから北東方向に尾根斜面を登りますが、だいぶ曲輪段は薄くなっていてほとんど山になってしまっています。最頂部の主郭とその南下段(倒木が多い)曲輪は良く残存しています。主郭から北方向に下る小さかったろう曲輪群も今はほとんど無くなっています。さらに北側は広い平坦地の曲輪になっていて、北端に土塁と竪堀が残り、城域2全体の北側の虎口になっています。比叡山に抜ける最北の曲輪群なのでガチガチの堀切等の防御遺構は見受けられずちょっと緩めの基地感がありました。次の投稿はいよいよ主要部に入ります。城域1曲輪群[東ゾーン]です。
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2025/01/16 19:16
鎌倉公園 (2024/12/23 訪問)
鎌倉公園が館跡とされています。ここには岩槻太田市の家臣・松野氏がいたとされ、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に岩槻城主太田市に従って防戦したが敗れ、秀吉の軍門に降ったとのことです。翌年8月、徳川家康が関東に移封になると徳川氏に仕え、200石の旗本として旧領の御蔵村を賜り、幕末までこの地を支配したとのことです。
かつては東西に長さ40mほどの土塁があったようですが、現在は見当たりません。空堀も失われてしまったかな?
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2025/01/16 14:02
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