本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
山崎城から車で20分弱で、登城口(35.417415、134.313263)前の公民館に着きました。
築城年は定かではないようですが、室町時代前期、因幡毛利氏によって築城され、以後同氏の本拠地となったようです。
毛利氏は大江広元を祖とする一族で、毛利元就で著名な安芸毛利氏とは同族です。市場城(私部城)の毛利氏は鎌倉時代頃に入部し地頭として在地しました。
1479年(文明11年)毛利次郎貞元は因幡国守護山名豊時に対して反乱軍を起こし、細川氏や赤松氏と結んで山名氏と戦いましたが、翌年には但馬国守護山名政豊によって鎮圧されます。
1489年(延徳元年)第2次毛利次郎の乱を起こした城主・毛利貞元は山名豊時に攻められ市場城(私部城)にて自害しました。
1504年(永正元年)私部志谷口合戦では毛利方と思われる土師四郎左衛門尉が山名豊重方の武将・北川与三左衛門尉によって討捕らえられています。
1560年(永禄3年)山名宗詮方の武将・中村政重父子らと毛利氏との間で合戦が行われ(私部表合戦)、毛利左近丞らが戦死しています。
1564年(永禄7年)経緯不明ですが、但馬山名氏との関係改善がなされたようで、山名宗詮が市場城に入っています。
その後も毛利氏・尼子氏・山名氏などが複雑に入り乱れる情勢が続き、尼子勝久・山中幸盛の挙兵以降、因幡毛利氏は尼子方に属しました。
1573年(天正元年)幸盛の娘婿(養女)の亀井茲矩が城を任されている。その時、茲矩はまだ17歳だったそうです。
1574年(天正2年)山中幸盛が入城し、「安芸毛利氏と対抗するための拠点」として利用していますが、翌年には安芸毛利氏の猛攻によって二の丸・三の丸まで攻め込まれ落城しました。
因幡毛利氏は落城後、安芸毛利氏に降りましたが、1580年(天正8年)には羽柴秀吉によって落城させられ、城主・毛利豊元らは山名豊国の鳥取城へ逃れたそうです。
1581年(天正9年)当城は安芸毛利方の包囲下に置かれ、秀吉方は長期の籠城を余儀なくされており、当城に但馬からの兵糧が運ばれたものの、城内の士気は低下していたそうです。
毛利豊元の退城の後、但馬有子山城から山名氏政が領地替えとなり入城し、当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わりました。
山名氏政は当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わった。
1582年(天正10年)山名氏政は播磨加古郡へ再び領地換えとなり、市場城は廃城となりました。
市場城は市場集落の南方の山頂に築かれており、市場集落から登山道が山頂まで続いています。
登山道は落葉で滑り易く、雨がふったら危険だと思います。
登山道は「カエル岩」を経て山頂の主郭に至るようですが、西の郭付近で赤テープを見失い迷子の危険性があるので引き返しました。
登城口前にある案内板に縄張図とともに説明がされています。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=布勢天神山城に向かいました。
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