堀城を終えて、阪急宝塚線沿線の未踏の城探訪ラスト三津屋城を目指す、城びと投稿者にては徒歩で訪ねたと有り、スマホナビを見ながら進行、約1.3km程、私の足では20分位かなと、阪急神戸線沿いの道を神崎川駅方向へ、淀川区第1576号線を西へ、三津屋小学校辺りで光専寺を目指す。スマホナビを見てると後の距離、時間が出て励みになり、疲れた足腰も和らぐ感じがします。
三津屋城跡である光専寺山門に到着、門は閉まって入れません、山門前に説明プレートが2枚、光専寺縁起プレートが山門西袖塀に据付られて居ます。
三津屋城はよく調べて無く、楠木正行の名前が出てきてビックリしました。
説明プレートには、「三津屋城跡伝承地」南北朝時代の城で楠木正行によって延期年間(1336~38年)頃に築城されたと言われる。現在の光専寺の一帯に「字 城之前」の地名が伝わり、城郭の詳細は不明ながら、この付近に存在したと推定される。(大阪市教育委員会)
もう1枚の説明プレートには、明治18年の地籍図付きで「三津屋城跡伝承地」この地にある光専寺の周辺は「字 城之前」と呼ばれており、付近には「字 馬洗」の地名も存在した事から、この一帯が城跡であったと推定される。かっての城郭の状況については不明で、変遷やいつ廃城となったのかも明らかでない。
光専寺は本願寺派の真宗寺院で、文安5(1448)年に楠木正行の末裔である末弘治郎左衛門が蓮如上人に帰依し、廃朽した城跡に建立した寺院と伝わる。(大阪市顕彰史跡第197号)抜粋
三社山 光専寺 縁起のプレートにも、楠木正成が子、楠木正行が築く三津屋城の址に楠木一族の末裔末弘治郎左衛門が蓮如上人に帰依し一宇を草創せしを始祖として現在に至る。元禄年間建立の総欅造りの本堂は昭和20年6月の空襲で焼尽、現在の本堂は昭和40年再建、山門は戦災にも焼け残り、昔日の面影を伝え残す唯一の遺産と成った。(縁起プレート抜粋)
山門が閉まり入れないので門前で参拝、各プレートを確認読んで、撮影し今回の阪急宝塚線沿線の未踏の城探訪は三津屋城で終了です。
光専寺から阪急神戸線神崎川駅へ650m程、スマホナビ頼りに痛い足を引きずりながら約10分。
最近完成した大坂城豊臣石垣館へ向かいます。
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