宇佐山城の戦いの舞台となり、和議の条件として破却されたという解釈が正しければ極めて短命なお城なのだが、京~近江の往来を制限し朝倉・浅井に存分に脅威を与えた点では存分にその役割を果たしたと言えるのだろう。
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2024/08/11 16:10
2024/02/18 21:35
宇佐山城 突発訪問 (2023/12/22 訪問)
この日は次回掲載する城が目的でしたが、その前に余裕ができたため急遽訪問した滋賀県大津市の宇佐山城。
琵琶湖南部の西岸の比高200m少々の宇佐山に築かれた城。
湖畔の西近江路から直接京都へ入る山中越の分岐点で、琵琶湖の水運と京都への往来を監視していたことでしょう。
1570年、信長の命により森可成が築城。
その可成が討たれた後は、明智光秀が城主に。
現在は、本丸にアンテナ施設が建つものの概ねの普請跡を残し、宇佐八幡からハイキングコースが整備されている城跡。
訪問時、麓から割と急勾配な道を登って行くと本丸東側の竪堀に到達。
そして目につく石垣を確認しながら現代版の烽火台が建つ本丸へ。
事前調査をしておらず、本丸に掲示されていた縄張図を参考に二の丸や三の丸を巡り1時間程度で下山。
その結果、帰宅後に二の丸東腰曲輪にある石垣の存在を知り、1番の見どころを見逃したことが発覚。
今も後悔を残している、私の城郭巡りの167城目です。
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2023/12/07 00:34
本丸石垣と三の丸テラス。森可成や明智光秀の眺めた絶景が広がる。 (2023/12/03 訪問)
宇佐山城は織田信長が家臣の森可成に命じて築かせた城で本丸には見事な石垣が残り、三の丸からは琵琶湖やその周辺一帯が一望できます。浅井・朝倉連合軍の侵攻を受け森可成が坂本で戦死した際には駆け付けた信長が入城したと考えられています。その後、明智光秀が守将となり延暦寺攻略を行ったとされています。
宇佐八幡宮から登城道が続いていて地元の小学生が設置した案内に従って城を目指します。小さい子供を連れた親子もおり、地元では眺望の良い山として結構人気があるようです。木の根道を登っていくと途中に尾根を利用した大きな竪堀が有ります。明らかに人為的なものでこの城を死守しようとする森可成の本気が伝わってきます。本丸には見事な石垣が残り、その上にはNHKの施設が鎮座しています。南には二郭があり本丸の北側には空堀が配され土橋がかかっています。その先が三の丸ですが見事な眺望で琵琶湖と滋賀の街並みが一望できます。
自分にとってはこの城は森可成のイメージが強いので「これが森可成の眺めた景色か」と思うと感慨深いです。もちろん織田信長や明智光秀もこの眺望を見ているはずなので感慨もひとしおと言ったところです。
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2023/04/15 17:57
浅井・朝倉軍の南進を阻止するために築城された名城を訪ねて (2023/04/02 訪問)
朝倉義景・浅井長政の南進を阻止するめに織田信長公が森可成公に命じて造らせた山城です。浅井・朝倉連合軍との宇佐山城の戦いでは三万の軍勢に対し千の軍勢で善戦しますが、延暦寺の僧兵も加えた大軍に森可成公、信長公の弟信治公は討死します。ただ城内に残った兵たちの抵抗で落城までには至っていません。森可成公の後には明智光秀公がここを拠点に延暦寺の焼き討ちを行ったと言われています。その後この地を治めることとなった明智光秀公が坂本城を築き移ったため廃城となっています。
三の丸跡からの琵琶湖の眺めが素晴らしく宇佐山テラスとも呼ばれています。
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分類・構造 | 山城 |
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天守構造 | 不明 |
築城主 | 森可成 |
築城年 | 元亀元年(1570) |
主な改修者 | 明智光秀? |
主な城主 | 森氏、明智氏 |
廃城年 | 元亀2年(1571) |
遺構 | 曲輪、石垣、櫓台 |
再建造物 | 碑 |
住所 | 滋賀県大津市錦織町487 |
問い合わせ先 | 大津市歴史博物館 |
問い合わせ先電話番号 | 077-521-2100 |