「蜂起せよ! 鬨の声聞く 鳥越城」
(ほうきせよ! ときのこえきく とりごえじょう)
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2025/09/02 11:18
【赤色立体地図かるた】
「蜂起せよ! 鬨の声聞く 鳥越城」
(ほうきせよ! ときのこえきく とりごえじょう)
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2025/09/02 10:54
西の丸Ⅱと西の丸Ⅰ探訪 (2025/02/25 訪問)
二俣城の西の丸は二の丸、本丸天守台の西側下へ旧二俣川と天竜川の合流地点へ突出た尾根筋の下に在ります。二の丸と南の丸Ⅰ間の堀切3号堀を西に降りる登城路より入り、南の丸Ⅰ西下に在る2号竪堀が確認されて、上に西の丸Ⅱ続いて西の丸Ⅰと成って居ます。
現在は旧二俣川は河川改修されて二俣橋より南に直進して天竜川へ流れる様に成り、旧二俣川は塞がれて堤防に成っており、堤防道を進むと鳥羽山城への山坂道登城路で鳥羽山城への近道です。
西の丸Ⅰの南側と西側には2014年2015年の発掘調査で土に埋まっていた石垣を発掘発見されました。丁度探訪日は草刈、落ち葉掃除で整備されて見易く、護岸コンクリートへの落ち葉も掃かれて滑る事も無く石垣に近づく事が出来ました、但し近づくにはやや危険の為慎重な歩行が求められます、現地には石垣への案内は有りません。
石垣探訪は歩行に気を付けてご確認ください。
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2025/09/02 09:30
不等辺五角形がカッコいい (2025/08/24 訪問)
姫路城の外観が白くて白鷺城といわれるのに対し、岡山城は外観が黒く、烏城と呼ばれます。明治時代、御殿や櫓、門の大半が取り壊され、さらに二次大戦の空襲で天守等が焼失しました。設計図や戦前の写真が残っており戦後、外観を復元した内部コンクリートづくりの外観復元天守です。月見櫓、西の丸西手櫓が焼失を免れ現存しており、国の重文に指定されています。また一帯は城址公園として整備されています。
地形に沿った形での不等辺五角形の形がかっこいいと思います。まず6階に上がって順に下る形でそれぞれの階の展示を見ることで、築城当時の宇喜多秀家、小早川秀秋の関ヶ原の戦い前後、池田氏の江戸時代、幕末、そして明治以降の岡山城を取り巻く歴史が体系的に理解できるくふうがされています。展示の監修はテレビの歴史番組にも多数出演されている、岡山出身の歴史学者磯田先生で、展示の所々に磯田先生の深い洞察ややちょっとした豆知識が書かれていて面白くわかりやすく理解できました。復元とはいえ岡山城は市のランドマークにしてシンボルなんですね。
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2025/09/02 08:02
【赤色立体地図かるた】 (2018/06/23 訪問)
鳥越城 雑賀の一族 抵抗す
(とりごえじょう さいかのいちぞく ていこうす)
城主の鈴木出羽守は本願寺から派遣された鈴木重秀(雑賀孫一)ら鈴木氏の一族とされ、発掘調査では鉄砲玉の鉛なども発見されているそうで、鳥越城が最後まで抵抗を続けられたのも、雑賀衆の鉄砲隊の力によるものなのかもしれませんね。
そういえば、来週末の山城サミット白山大会は鳥越城(と二曲城)でしたっけ。久しぶりに行きたいけれど…ちょっと難しいかなぁ。
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2025/09/02 06:56
北海道&東日本パスで青森の城めぐり⑤ (2025/08/17 訪問)
聖寿寺館からの転戦です。廃校となっている剣吉小学校の裏手に剣吉城址公園として整備されていますが、草刈りなどの手入れはあまり行われていないようです。相撲王国青森だけあって土俵なんかもあるのですが、草が生えてしまっていました。小学校が廃校となって訪れる人も殆どいないように感じられました。この城の城主は高橋克彦の「天を衝く」にも登場する北信愛(きたのぶちか)。九戸政実と対立し、見事に南部利直を南部家の跡目に据えることに成功した北信愛は、南部家にとっては最高の忠臣と言えるでしょう。「天を衝く」を読み進めているときには九戸サイドに立っていた私にとって、にっくき敵役だったのではありますが。
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2025/09/01 21:52
【赤色立体地図かるた】 (2013/12/25 訪問)
「さんじゅーろー 其の名の由来 新選組(さんじゅーろー そのなのゆらい しんせんぐみ)」
城名はどうしたって? さんじゅーろー=松山城なので・・むしろ猫城主の方が有名だったりして。
猫城主さんじゅーろーの名前は備中松山出身の新選組七番隊組長・谷 三十郎に由来しています。といっても、あまり有名じゃない。さんじゅろーのおかげで谷 三十郎の名を覚えた人も多いのではなかろうか。
イラストは新選組コスのさんじゅーろーをイメージしています。断じて仕事ネコではありませんぞ(汗)いやマジで・・
「さんじゅーろー 漫画くまみね(先生) 松山城」
「さんじゅーろー 天下一品 仕事猫」
・・大丈夫だよね めっちゃリスペクトしてますよ。
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2025/09/01 19:55
千々石ミゲルと橘中佐 (2025/01/26 訪問)
釜蓋城(長崎県)を掲載。天正遣欧使節千々石ミゲルの生誕地である千々和にある釜蓋城は「かまぶた」が正しい読み方。天守風の模擬建築が辛うじて城跡感を醸し出す。千々石はまた軍神橘中佐を生んだ土地でもあり中佐を祀る橘神社が釜蓋城の麓に鎮座する。
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2025/09/01 19:47
日新館 (2024/09/17 訪問)
会津若松城の西側に史跡・日新館天文台跡がありますが、現在公開されている日新館の中にも展望台があり、周囲を良く眺望できます。
日新館は元々、若松城の西隣にあったとされるので、今公開されているものは少し離れた場所に復元されたものになりますかね。
実際、若松城の周辺は開発が進んでいるので、やむを得ないですね。おかげで集客に苦労しているようですが、訪れて絶対に損は無いと思います。白虎隊の団結の強さを見ると、日新館での生活は厳しいながらも充実し、楽しいものであったと思います。
明治2年(1869)9月、旧会津藩松平家に家名再興が許され、松平容保の嗣子の幼少の容大を伴って斗南3万石で封じられました。
藩領は青森県下北半島の一帯・十和田湖の東側と、北海道の後志支庁瀬棚町のあたりで実質7千石程度であったようです。そんな僻地に17327人もの人が移り住んだので、非常に苦労したそうです。
正直、明治政府って陰湿だと思うんですよ。石高詐欺とかありえんし。
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2025/09/01 18:47
得意の途中下車で…🚉 (2025/06/28 訪問)
JR笠岡駅で途中下車。ところが,コインロッカーは「小」のみ…<泣>。猛暑の中,キャリーバッグ持ちはキツイな…と思って,周囲を見渡したら「笠岡市観光協会」を発見❢
早速,キャリーバッグを預かってもらえないか交渉…。結果,レンタサイクル利用で預かってもらえることとなりました。1日単位の貸し出しで,電動は【1,500円】,普通は【700円】。暑かったので,少々高額と思いつつも電動をチョイスしました。
あっという間に山頂にたどり着いたので,少々拍子抜け状態でした。
ま,熱中症回避のための出費ととらえました。
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2025/09/01 15:30
会津藩校日新館 (2024/09/17 訪問)
日新館は享和3年に完成した会津藩の藩校です。広い敷地内に日本最古と言われる水練場も備えていました。会津藩の子弟に対しエリート教育を行い、白虎隊の隊士達もここで教えを受けました。彼らは十歳になってから日新館に通いますが、六歳から九歳までの男子は十人前後で「什(じゅう)」と呼ばれるグループを作り、リーダーである什長によって「什の掟」などを教え込まれたようです。
最後には例の「ならぬことはならぬものです」で締めくくるのですが、ちょっと危ないですな。
敷地内の幕末慶事記念室には会津落城時の展示も有り、砲撃でぼろぼろになった若松城の模型もあります。小田山(城)は若松城を砲撃できる好所にあり、ここを官軍に奪われたことで若松城に砲弾が降り注ぎました。小田山城は元は蘆名氏の本城でしたが廃城後は蘆名氏や会津藩の家老の墓地になっていました。「小田山とられて戦はするな」という伝承が残っていたようですが、結果その通りになってしまいました。
幕末から明治にかけては高所から敵地に砲撃を仕掛けることは有効と見られ、旅順攻囲戦における203高地もそれに当たると思います。
私の考えでは関ヶ原の南宮山周辺や自害ヶ嶺のあたりも砲撃戦の陣地を想定していたのではと考えます。
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2025/09/01 14:00
2025/09/01 12:44
【宮本武蔵】(3)岩国城(小次郎伝説-その1) (2025/08/25 訪問)
宮本武蔵の続き(3)です。
まず武蔵の最大のライバル、佐々木小次郎の話から始めます。小次郎の出身地には3つの説があります。
① 越前説(福井市一乗滝)
② 周防説(岩国市錦帯橋)
③ 豊前説(添田町岩石山)
越前説は、「二天記」によるものです。朝倉家の剣術指南役であった富田勢源に指南を受け、一乗滝で燕返しは編み出されたとされています。しかしこの二天記は、二天一流の兵法を継ぐ細川藩松井家(八代城主)の家臣が、武蔵没後130年も後になって、小倉碑文を基に数々の言い伝えを書き加えたもので、実際に彼が見聞きした話ではないので、信憑性に欠けるのではという意見もあり、また勢源・小次郎・武蔵の互いの年齢のつじつまも合わないなど、多くの疑問も残されているようです。
周防説は、吉川英二さんの小説によるもので、小説の中でのみで岩国の地名が出てきます。他のどの資料にも岩国の地名は出てきません。岩国城に天守があったのは1607-1615年ですから、小次郎がいた時期とは一致していますが、錦帯橋ができたのは小次郎が没してから60年後の1673年なので、錦帯橋の柳の下で燕返しを編み出したとする小説の内容には、少し矛盾があるようです。よってこの説は吉川氏の創作ではないかと言われています。しかし今ではドラマなどで大々的に岩国は宣伝されており、地元の観光の目玉にもなっているので、山口県の方々のためにも、そっとしておきたいと思います。この日は気温35度、私はあまりに暑かったので、佐々木小次郎商店のアイスに引かれ、巌流ゆかりの柳の下で燕返しを想像しながら食べました(😊冷たくておいしい)(写真⑥⑧⑨)。
この佐々木という苗字も実はうそだそうです。小倉碑文には、小次郎の苗字が佐々木だなどとは書かれていません。岩流の小次郎とのみ記されています。岩流は流派のようです。佐々木は1730年頃(江戸中期)に小次郎役を演じた歌舞伎役者が佐々木という役者名だったので、それから佐々木の小次郎と呼ばれるようになり、その後1776年に出た二天記の本文には岩流小次郎(注釈には佐々木小次郎)と書かれ、吉川氏の小説のみ佐々木小次郎が使われています。よって私は小次郎で通したいと思います。小次郎が若くてイケメンだったという話も、ドラマを面白くし女性の視聴者を獲得するために、テレビ局が脚色した話ではないでしょうか? よって(写真⑦)のように本当に若くてイケメンだったのかは、これも私は謎のままとしておきたいと思います🤔。
もう一つは、まだ人気のないマイナーな説ですが、豊前の岩石山(がんじゃくやま)で生まれたという説があります。私は九州人なので、あえてこの説で次の話を進めて行こうと思います(すいません、小次郎も謎多き人物です)。
次はその豊前説が残る「岩石城」を訪れます。
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2025/09/01 10:44
西の丸Ⅲの曲輪はどこかな? (2025/02/25 訪問)
今年の2月25日、冬枯れ、灌木伐採、草刈されて居るのだろうと、各遺構、石垣、土塁、空堀、曲輪が写真撮り良い頃と探訪へ出かけました。予想通り灌木伐採、草刈整備され、晴天でも有りベストコンデションでした。
さて以前より西の丸Ⅲの曲輪跡が気に成り何処なのかな?と西の丸を何回となく登り降りしていますが良く分かりません、浜松市文化財課発行の二俣城跡実測縄張図(本丸跡の案内板に記載が有ります)に依ると、本丸天守台西下尾根先?、西の丸Ⅰ、Ⅱの北上に位置するようですが現地では良く分からない、天守台下の灌木など伐採されているが覗いても良くは分からに、二の丸と南の丸Ⅰ間の堀切(三号堀)より西の丸方向へ降り、二の丸下本丸天守台下への細い道でもないかと探すが無い、西の丸Ⅰ、Ⅱから北へ直登かな?頭をよぎったが脚力に自信がない、見渡してよく見ると虎ロープで仕切られて立入禁止の注意書が貼られてる。
結局は西の丸Ⅰ、Ⅱより北側の尾根稜線が西の丸Ⅲ曲輪の稜線なのだろうと了解した次第? 発掘調査現地説明会でも有ったら訪ねてみたいと思っております、現状は直登り禁止で足場は大変危険です。
尚、天守台西下から西の丸Ⅲ方向を覘いた写真4,5,6,7は当日撮り切れていなかったので、4月9日にスマホで撮影したものです。西下方向へ降りれそうですが虎ロープ、ザイル支持で降りて行かないと滑りそうで危険でした、で覗くだけとしました。
沢山写真を当日撮っていますので、折りを見て各曲輪、遺構別に投稿させて頂きます。
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2025/09/01 08:25
金沢城 (2013/08/11 訪問)
金沢城の投稿ですが、初めて訪れた時なので写真が古いです。天守閣は無いのですが、いろいろと感銘を受けたのを覚えています。改めて見ると、まさに石のテーマパークです。百間堀は長さ270m、幅68.4m、水深2.4mの水堀跡で今は道路になっています。大阪城の高石垣ほどの迫力はありませんが、ここの石垣も見事なものです。東ノ丸北面石垣は城内でも最も古い物で「野面積」で築かれた利家の時代のものです。個人的には野面が一番好きですね。
城内には様々な「石積」の展示が有り、石川門の石垣は左右で積方が異なっています。左は打込接ですが右側は切込接で明和2年(1765)の改修によるものと考えられています。あまりに綺麗に詰んであるので、初めて見た時は戦後に機械で削って積んだものかと思いました。
これを人の手で加工して積んだのかと考えると、びっくらポンですわ。
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2025/09/01 08:04
円通院 (2015/05/05 訪問)
宮城県の松島町にある円通院は伊達政宗の孫である伊達光宗の菩提寺です。光宗の母は徳川秀忠の養女・振姫で振姫の実際の両親は、池田輝政と督姫です。督姫は徳川家康の次女でこの人の最期も少し怪しいんですね。
バラが有名で「薔薇寺」の名でも知られますが、訪問時には咲いていませんでした。それでも境内の青紅葉は綺麗だったし、境内を廻っているといろいろ興味深い物もあります。
岩穴には伊達宗高の宝篋印塔と殉死者たちの供養塔が有ります。宗高は伊達政宗の七男で寛永13年(1626)20歳の若さで京都で天然痘にかかり亡くなりました。赤坂兵部をはじめ侍女を含む十名が殉死したとされています。
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2025/09/01 07:02
北海道&東日本パスで青森の城めぐり④ (2025/08/17 訪問)
平ヶ崎館からの転戦です。国の史跡だけあって見応えのある館跡でした。南部氏発祥の地ということで町名も南部町になっています。南部家の菩提寺・三光寺は境内への立ち入りは勿論、写真撮影も禁止するという観光客を寄せ付けない寺院ですが、その先にある聖寿寺館跡案内所にて申し込めば、南部利直が目をかけていたという南部利康の霊屋を300円で見学することができます。重文の霊屋は撮影禁止でしたが、もちろん見学してきましたとも。
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2025/08/31 21:37
権現山合戦 (2024/12/30 訪問)
権現山城は現在は幸ヶ谷公園になっていて、遺構は残っていません。かつては青木城も権現山城に組み込まれていたようで、線路で遮断されている部分が堀切だったようです。
古くは観応3年(1352)足利尊氏が新田義宗・義興らに追われて鎌倉を逃れ武蔵狩野川の城に立て籠もったとされますが、それが権現山城ではないかと言われています。
永正7年(1510)には権現山合戦の舞台にもなりました。伊勢新九郎長氏(北条早雲)は長尾景春と共に、越後守護代長尾為景に通じ、扇谷・山内両上杉氏と敵対しました。権現山城には長氏に扇谷上杉氏からの離反を促された上田政盛が蜂起し、上杉方の二万の軍勢が権現山城を取り囲んだそうです。今でこそ面影はありませんが、権現山城の守りは堅く9日に渡って敵の猛攻に耐えますが、ついには火がかけられ落城したようです。
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2025/08/31 20:41
タケヤブラー (2025/06/28 訪問)
現地の案内板によれば鎌倉時代の武士(岩野氏)の館跡で東西に二つの屋敷跡が残っているとの事です。訪問してみると主要部の周辺にも土塁が残っています。西側の館跡の方が土塁や虎口の形状が良く解り、館の周囲には堀も残っています。見たところ西側の館跡が主郭のようで北側に虎口が付いています。
いかんせん、竹が密集していて、移動がシンドイので土塁の上を歩きながら形状把握に努めました。
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2025/08/31 19:33
銀閣寺・東山慈照禅寺 (2013/09/22 訪問)
慈照寺は室町幕府8代将軍・足利義政によって文明14年(1482)~延徳2年(1490)にかけて建てられました。城びとだと中尾城の入り口あたりになりますが、中尾城へは訪問していません。
三代将軍足利義満が北山山荘(北山殿 現金閣寺 ・鹿苑寺)を築いて4代将軍足利義持の後見を行ったように、義政も時代の将軍(義視→義尚)の後見を東山山荘(東山殿 現銀閣寺・東山慈照禅寺)で行うつもりでいたようです。義政は東山山荘の完成の前に亡くなりますが、完成する前からここで生活をしていたようです。金閣に代表される華やかな義満時代の文化を「北山文化」といい、わび・さびの効いた渋めの義政時代の文化を「東山文化」と呼ぶようです。
足利義政というと、政治から目をそらして「引きこもり」してたイメージがありますが、実はいろいろと忙しかったようです。そりゃ、今の時代の「引きこもり」と一緒にしちゃいかんわな。
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2025/08/31 18:36
岸和田のステキな天守と本丸虎口 (2025/06/21 訪問)
真夏日の6月に訪れた大阪府岸和田市の岸和田城。
大阪平野南部、海沿いの比高5mほどの段丘の縁に築かれた城。
段丘の縁を二の丸、縁から離れた方を本丸とし、その2つをコの字型の二の曲輪と三の曲輪で囲んだ縄張。
大阪から堺を経て紀伊国に至る海岸沿いの陸上交通に加え、大阪湾の海上交通も監視したでしょうか。
築城時期は定かでないが、1500年代は和泉松浦氏や中村一氏などが城主となり、小出秀政の時代に大改修で天守を建設。
徳川の時代になると1640年からは岡部氏13代が城主を務めました。
現在は、本丸と二の丸の水堀と石垣が残り、天守や本丸隅櫓、本丸櫓門が復元されている続100名城。
周辺も公共施設などが建つが、遺構の可能性がある石垣が僅かに点在。
実際に訪問すると、東側から見た三層復元の天守が予想以上に優美。
本丸南側の多段の折れを有する石垣も見応えがあり、更なる個人的な見どころは本丸虎口。平面図では平虎口だが、櫓門をくぐると1段高い本丸が壁となり直進を許さず、侵入するには左右の坂と階段を上るシステム。
そんな本丸虎口におもしろさを感じた、私の城郭巡りの209城目でした。
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