宮本武蔵の続き(11)です。
19才になったたけぞう(武蔵)は、この頃から名前を「宮本武蔵(むさし)」と名乗るようになり、諸国を転々とします。武蔵が21才の時に吉岡一門との決闘した場所、京都一乗寺の下り松へ行ってきました(写真①②③)。叡山電鉄「一乗寺」駅から徒歩10分の所にありました(写真⑦⑧)。
吉岡一門は、室町時代に将軍足利家の剣術指南役を務めた名門です。最初は京都洛外の漣台野で、吉岡家の当主「清十郎」と対戦し一撃で倒します。次はその弟「伝七郎」をも一撃で倒します。面目をつぶされた吉岡の門弟たちは、敵討ちと称しこの場所に武蔵を呼び付け決闘しました。しかし武蔵は、ここで100人以上の門弟を相手にした決闘を制し、全国にその名を知らしめたようです。さらに5分程登ったところにある「八大神社」は、決闘の前に武蔵が祈願した場所だとされ、武蔵の銅像がありました(写真④⑤⑥)。
しかしここから8年間の武蔵の足跡がよくわかりません。この間、60余回戦いをして一度も負けなかったと自ら語っています(小倉碑文より)。24才の時鎖鎌の使い手「宍戸梅軒」や、奈良で槍の使い手「奥蔵院」と決闘し勝ったという話もあります。しかしそれらは、後世になって書かれた二天記に記述されており、直接本人が語った小倉碑文には、有馬喜兵衛・吉岡一門・岩流小次郎との決闘以外、60余回の内容は書かれていないので、真相はわかりません。
でもこれだけ決闘すれば、名声が上がる一方で、あちこちから恨みも買い命も狙われるでしょうね。そのためか、武蔵は風呂に入らなかった(入る事を嫌った)という言い伝えがあります。風呂に入るためには刀を置かねばならず、命が最も狙われやすいからです。なので武蔵は相当臭かったらしいです(笑)。
その後1612年、29才になった武蔵は、当時まだ中津にいた父の無二斎の要請で、小倉へ行く事になります。そこであるゴタゴタに巻き込まれてしまうのです。
次は、小倉城(巌流島の決闘)に続きます。
+ 続きを読む










