只今松本城は耐震工事をしています。
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2024/10/07 15:32
耐震工事中の松本城 (2024/09/04 訪問)
只今松本城は耐震工事をしています。
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2024/10/07 12:03
118【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (2/4) -三の丸石垣と大手道) (2023/12/09 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑳です。
次は直政時代の大手口(氏邦時代の搦手口)である虎稻門(写真①②)から入り、鍛冶曲輪を通り三の丸へ登ってみました。
ここには直政が築いたという石垣が多く残っていました。直政は信長より安土城に招かれた22才の時、石垣というものを初めて見たと思います。あれから8年、安土で学んだ石垣の構築技術を、ここ箕輪で初めて城主になり実践したものと思われます。まず鍛冶曲輪の石垣がありました(写真③)。そしてさらに登り三の丸には、氏邦が敷いていた石から、直政がその上に野面で積み上げたという石垣がありました。その高さは発掘調査の結果4.1mあったそうです(写真④⑤⑥)。そしてその石垣の斜面をさらに登った先の本丸との間、氏邦時代の大堀切には、直政が掛けたという木橋がありました。なるほど🤔・・・木橋を落とせば登ってきた敵は堀に落ちるという事ですね(写真⑦⑧)。その木橋の下の掘も、直政は石垣で補強していました。
そして再び虎稻門に戻り、今度はその右側を見上げて見ました。直政は石垣の次は、ここから並行してまっすぐに伸びる大手道を作り始めます。私が想像するに、この発想は、安土城で見た信長への憧れからこのような道を作り始めたのではないでしょうか? 今では両側に木が生い茂り見通しが悪いですが、当時は木などないので見通しはよかったと思います(写真⑨⑩)。しかしこれはまだ途中の状態で、最終的にはこの大手道はもっと広くまっすぐにし、そして階段は石段できれいに整備し、そして大手道から見えるその先正面の本丸に、下から見上げると皆が圧倒するような大天守を築こうと考えていたのではないでしょうか? しかしわずか8年(1590-1598)しか居城せず、またその8年間の多くは朝鮮出兵のため肥前名護屋で暮らし、実際に箕輪に居たのは、最初の1年と文禄と慶長の役の合間の2年(計3年間)くらいではないかと思います(その2年に弁之助(直孝)にも初めて会う))。そして秀吉が死んだ1598年、家康の命で居城は高崎に移ります(この時も実質は伏見に滞在)。よって結局大手道はこのような作りかけの中途半端な状態で終わっってしまったのではないかと私は思いました。あと20~30年じっくりと腰をすえて箕輪を居城としていたら、ここは安土城にも劣らぬほどの立派な天守を伴った総石垣造りの城になっていたのかも?・・・などとふと想像してしまいました。
次は、この大手道を登り、本丸へ上がってみようと思います(熊出没注意?😱)。
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2024/10/06 23:04
どうせなら山城も世界遺産に‥ (2024/09/29 訪問)
山城の鬼ヶ城は城郭大系にも載っています。ふもとの駐車場のあたりが居館だったのでしょうか? 世界遺産の「鬼ヶ城」との関係も気になります。残念ながらあまり地元では山城としての認識はないようです。石見銀山の山吹城みたいに「城郭」として世界遺産に登録されれば良かったのに‥時代が異なるのかな? 登城道に桜の木がたくさん植えてあり、少し遠回りしながらジグザグ城址に向かって道が続きます。なんにせよ、この時期はちゃんとした道が付いているのは有難いです。もう直登は一生分ぐらいやった気がするので、できれば遠慮したいのです(危ないし)。主要な郭は二つで、北側の高い位置にある郭を主郭とすれば、南にある大きな郭はニの郭になります。二の郭の先には見晴らし台のある郭があり、その先の南側にも腰郭が付いています。
主郭の北側には熊野古道松本峠に向かう道が続いていて、その先には郭と堀切があるようです(未確認)。城郭大系には有馬忠親が跡継ぎとして甥の河内守忠吉を養子に迎え、隠居所として築いたと記載がありますが、天然の要害にあることから「北方に対して作戦的な意味合いがあるとも考えられる」と記載があります。確かに隠居城とするにはいささか物々しくはあります。
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2024/10/06 22:47
御園御門から名古屋城訪問 (2024/05/18 訪問)
最初に訪れた21年前は、有料エリアのみの観光。
その名古屋城を、外堀、復元された御殿、前回見逃した西北隅櫓などを含めて5月に再訪問してきました。
今回は三之丸御園御門からスタートし外堀沿いに東へ北へ。外堀北端は下り坂となっており、名古屋城が台地の端に築かれていることを実感。
続いて遺構はないが県内に移築門が残るという清水門から中堀を南へ西へ。中堀は無数の石材から成る長い石垣が印象的。
正門(榎多門)から西之丸に入ると、本丸周囲の曲輪を繋ぐ土橋が守りの特徴。天守の再建も良いが、個人的には本丸南の馬出(大手馬出)復元を希望。
最後は御殿を見学し、広い水堀の北側へ。水堀の西側からは天守も望むことができ、多くの観光客がこれを見逃すのは勿体無いような。
滞在時間は7時間。
21年間のモヤモヤを晴らすことが叶った1日でした。
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2024/10/06 22:21
幕末も好きな時代ではあるけれど‥ (2024/05/05 訪問)
岡部陣屋は元・今川家臣で徳川家康に仕え活躍した安倍信勝が5250石の領地を受けたのが始まりとされます。慶長2年(1649)信勝の子・信盛(岡部藩初代藩主)の代に1万石の加増を受けて大名の格式になりました。岡部藩三代・信友の代には2万2千2百石となり陣屋は土塁と空堀を巡らしてあったようです。
幕末には砲術家の高島秋帆が岡部藩にお預けとなり現地には「高島秋帆幽囚の地」の案内板が立っています。たしかに大河ドラマ「青天を衝け」に出ていた気がしますが、あまりよく覚えていません。一応見ていたのですが戦国時代以外あまり興味がないんですね。
最後の写真はなんだ?と真顔で聞かれると返答に窮するのですが、今日は10月6日‥つまり「ドム」の日にちなんで、そのへんにいたやつを連れてきました。
ちなみに 3月9日‥「ザク」の日
9月2日‥「グフ」の日
9月9日‥こじつけで「ゲルググ」の日になります。
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2024/10/06 20:23
獅子ヶ城散策2/2(本丸~南三の丸~出丸) (2024/07/06 訪問)
九州難読駅名筆頭格の厳木(きゅうらぎ)駅から,猛暑の中を徒歩で攻城しました。林道入口の碑まで,徒歩約40分。さらに城域までは,約15分。猛暑参考タイムということで…。
往路は延々と登り坂が続きます。バス停は残っていましたが,時刻表が掲載されていないので,たぶん廃線となったと思います。ま,最初からアテにしていませんでしたが…。
城内は比較的暑さを凌げて快適でした。城内で暑かったのは,本丸西側虎口ぐらいでした。
ここは石垣好きにはたまらない城だと思います。
攻城後,佐賀市内に戻りましたが,気温が36℃を超えていて,この日の次の攻城予定を取り止めました…<泣>。
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2024/10/06 20:10
獅子ヶ城散策1/2(北三の丸~井戸曲輪~本丸西側櫓台) (2024/07/06 訪問)
九州難読駅名筆頭格の厳木(きゅうらぎ)駅から,猛暑の中を徒歩で攻城しました。林道入口の碑まで,徒歩約40分。さらに城域までは,約15分。猛暑参考タイムということで…。
往路は延々と登り坂が続きます。バス停は残っていましたが,時刻表が掲載されていないので,たぶん廃線となったと思います。ま,最初からアテにしていませんでしたが…。
城内は比較的暑さを凌げて快適でした。城内で暑かったのは,本丸西側虎口ぐらいでした。
ここは石垣好きにはたまらない城だと思います。
攻城後,佐賀市内に戻りましたが,気温が36℃を超えていて,この日の次の攻城予定を取り止めました…<泣>。
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2024/10/06 17:48
今回は「名生館官衙遺跡」として探訪です (2024/10/05 訪問)
米どころとして名高い宮城県北大崎地方も稲刈りがすすみ、新米が出まわる季節になりました。この夏から始めた古代東北の城柵遺跡訪問の五ヶ所目として「名生館官衙遺跡」を訪ねました。この遺跡は「名生館」の名が示す通り、中世にこの地方を治めた奥州探題、斯波大崎氏の拠点の一つ名生城があった場所でもあります。名生城としてはこれまでに数度訪問しており、この欄に投稿済です。これまでは中世城館としての縄張りや遺構の確認が目的でしたが、今回は古代城柵をイメージしての訪問です。
ここは7世紀末から平安期まで使われた「玉造柵」に比定される古代城柵です。昭和55年の発掘調査では四面庇付き瓦葺き建物の遺跡も見つかっており、その瓦の製造された年代が多賀城跡のものより古く、多賀城創建(今年は多賀城創建1300年です)以前からこの地方が律令政府の支配にあったことを物語っています。
大崎地方の北西部、標高40m、比高10mの丘陵に位置し、東西700m、南北1100mの広さで、古代城柵としての規模は大きいといえるでしょう。古代東北蝦夷の三十八年戦争時代には征討軍の中継基地としても利用されたようです。宮沢遺跡(宮城県大崎市)は北東に9.4km、伊治城(宮城県栗原市)は北に30km、蝦夷の拠点胆沢(岩手県奥州市)までは北に82kmあります。
周辺はいま、民家や田畑となり、官衙としての遺構はありません。農家さんの倉庫脇にある説明板の推定復元図を見、政庁跡の平場から遥か北方を望み当時の威容を思うばかり。
東北自動車道古川ICから4km(9分)
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2024/10/06 15:56
実在したのかどうなのか (2024/02/12 訪問)
土気・東金酒井氏に属した黒熊大膳という実在したのか否かが定かではない武将が後北条方に傾いた酒井氏と仲違いして攻め落とされたとか。居館跡であろう蓮福寺を囲む丘陵全てを城塞化し岩盤を削った姿がいかにも上総っぽい。
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2024/10/06 15:39
城びと未登録のお城攻め「大森氏館」?の巻き。 (2024/10/06 訪問)
先日、『北条 氏照フェス』に参加しました。
100名城の「八王子城」・続100名城の「滝山城」の城主が、北条 氏照さんです。氏照さんは北条家当主でなく、三男。なのに、信頼あって広大な領地を任されていました。
Googleで、氏照さんの領土を確認していたら、私の行動範囲内に『大森氏・加藤氏宝篋印塔』を見つけました。
他のサイトでは「大森氏館」と紹介されていたので、久しぶりの脱線投稿ができると出陣。
場所は
埼玉県 入間市 宮寺 2595-6 です。
駐車場はありません。路駐しました。
入口には案内板があります。ここから細い道を歩きました。巨大クモの巣と3戦し到着。
まさしく、大森氏と加藤氏の宝篋印塔があります。
大森 好長さんは、大坂の陣での功績で、この地に来たようです。
加藤氏は、大森氏の奥様の実家なんだそうです。
御寺があったようですが、幕府の許可無く建立したので廃寺になってしまったんだとか。
厳しいでしょ、徳川さん。許してあげて、と心の声。
奥と向かって右手に土塁があり、館の雰囲気がありました。
で、北条 氏照さんが置いてきぼり。
ぜんぜん、時代が違いました。
でも氏照さんのお陰で、また先人の功績に触れられた「大森氏館」攻めでした。
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2024/10/06 13:55
種垂城 (2024/09/14 訪問)
【種垂城】
<駐車場他>駐車場4台分程あり。
<交通手段>車
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画の旅7城目。現地説明板によると種垂城は500年前の室町時代にはここに城があったようです。菖蒲城の支城であった説があり、また騎西城主小田顕家の隠居所としていたようです。
現地は城址公園となっていますが遺構は残っていません。以外にも城びとマスターの方4名しか投稿されていませんね。前回の方より4年以上経っており、さらに公園は草が茂っておりました。石碑も銘が草で隠れて気が付かず遠目で撮影しました。
<満足度>◆◇◇
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2024/10/06 07:51
空堀の迫力に脱帽 (2023/12/28 訪問)
JR常磐線 東海駅から徒歩約40分。
城跡は石神城址公園となっており、城址の北側と西側に駐車場があります。北側の駐車場にはトイレも設置されています。(西側駐車場にはトイレがないので注意)
東から順に曲輪Ⅰ(遠見城)・曲輪Ⅱ(御城)・曲輪Ⅲの三つの曲輪で構成されています。今回は北側の駐車場側から一番西の曲輪Ⅲに入り、遠見城を目指して攻城‼
① 城の北側
谷底の湿地帯になっています。湿地帯を抜けて曲輪Ⅲに登ると、公園入口のところでいきなり空堀がお出迎え!! 見事な空堀で、この時点でテンションMAXになりました。
② 曲輪Ⅲ
特に西側に空堀、土塁が良好な形で残っています。また曲輪Ⅱ(御城)へ向かう土橋の手前に説明板が設置されています。
③ 曲輪Ⅱ・御城
曲輪Ⅲから土橋を渡ると、食い違い虎口になっています。土塁と空堀がきれいに残り、程よく整備されていて非常に見やすいです。
④ 曲輪Ⅰ・遠見城
③の御城から当時は木橋でつながっていたと思いますが、現在はないので、空堀を登降して入ることができます。(かなり急ですので、足元に十分注意して空堀を登り降りしてください。)
遠見城でも曲輪の周囲に土塁が良好に残存しています。
遠見城の周辺の空堀は迫力満点です!!個人的に好きなポイントとしては、遠見城の南側の空堀です。写真(2枚目)だと分かりづらいかもしれませんが、西側の空堀よりもさらに一段深くなっています。これには思わず唸ってしまいました!!(遠見城の木橋跡から空堀の堀底に沿って南に行くとあります。)
なお空堀内は一部、倒木があったので、見学される際は注意してください。
全体的に保存状態もよく、空堀の迫力がとにかく凄いので、皆さんにもおすすめのお城です。
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2024/10/05 23:59
畠山重忠 波乱の人生 (2024/09/29 訪問)
(URL)https://ranzan-shiseki.spec.ed.jp/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E7%B4%B9%E4%BB%8B-1/%E8%8F%85%E8%B0%B7%E9%A4%A8%E8%B7%A1
菅谷館跡という城跡が埼玉県比企郡…武蔵嵐山駅から徒歩で15分ほどの場所に存在します。そこはかつて…鎌倉時代に幕府の御家人の1人、畠山重忠の館があったとされてる場所🏠
城跡の三の郭…つまり入口側に埼玉県立嵐山史跡の博物館があります。今回はそこのお話。ここの入場料が大人100円
受付を済ます前に、菅谷館は続日本100名城に登録されており、お約束のスタンプが用意されていたので、真っ先にスタンプ帳に押しました✌️ それから受付で御城印の購入(詳細は後ほど)
展示室に入ると…まず(1枚目の)畠山重忠人形…。「鎌倉殿の13人」では中川大志というイケメン俳優が演じていたので、それと比べると…どうしてもおじさん感があります🧔♂️
展示室の規模は小さめでしたが、展示品はそこそこ揃っていました。重忠に関する展示が多めになっており、彼の怪力伝説(相撲をとった時に、強いと評判の力士の肩を砕いてしまった…一の谷で奇襲攻撃をおこなった際に、馬を担いで急な坂を降った)
秩父平氏の系譜を引くことから、最初は平家側として戦ったが程なく頼朝に降り、それからはずっと源氏側として従軍…一の谷…屋島…壇ノ浦の合戦で功績を上げた…と紹介(2枚目)
「鎌倉殿の13人」では義経が命じた「平家軍の漕ぎ手を射る作戦にて、最もそれをおこなっていたそう(史実通りかはさておき、本人は最初…「世間から(卑怯者として)笑い物になりましょう」と躊躇っていた😅
出口付近に重忠の墓と伝わる五輪塔(レプリカ)もありました(3枚目)…頼朝の死後、幕府内で北条氏によって有力御家人が次々と粛清される内ゲバがあり、畠山氏もその一環として…滅ぼされました
平賀朝雅(北条時政と奥方の牧の方が、三代将軍実朝を廃して将軍に据えようとしていた男)と重忠の息子重保の間で揉め事があり、それを朝雅への悪口=幕府への謀反の疑いと見做した時政と牧の方にハメられる形で、鎌倉ではまず重保が殺され、そして謀反人を討ち取るための準備がなされた
鎌倉で騒ぎが起きてる事を伝える書状が届き、嫌な予感は多かれ少なかれしたかもしれないけど(おそらく敵意はない事を示すために)少数の兵で鎌倉へ向かった重忠🧔♂️👨🦳👨🦱🐴
しかし二俣川(同じ神奈川県内なので鎌倉の近くと言えば近く)で北条義時率いる幕府の大軍が待ち受けており、重忠は菅谷館には戻らずに武士として潔く散る事を選ぶも…多勢に無勢で…奮戦しつつも最期は討ち取られてしまう💀
(参考Wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%BF%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1
展示を見終えてから少しだけ時間があったので…自分で御城印を作ってみる…というのをやってみる事にしました
まず文字が印刷されただけの紙を渡され、それに自分で北条氏の家紋などのスタンプを押して…それから日付を筆で書いて完成(4枚目)
実は御城印を1枚買う毎に、自分で作る用の紙を1枚もらっていたので、購入した御城印に合わせる形でスタンプを選んで押印…それから来場日の日付を筆書き(書道に精通してるわけじゃないから、字が少し崩れちゃった)🖌️
最後に紹介するのがこの施設で購入した御城印(5枚目)…4種類あり、そのうち3種類は地元の学生と共同で考案して作成したデザインと紹介されていました
一つ目はスタンダードタイプ(5枚目右)をまず選び、二つ目は菅谷館跡と書かれたものの中から…重忠像が載っているものが私に「これだ!」という印象を与えたので…それを選ぶことにしました
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2024/10/05 22:56
2024/10/05 22:49
2024/10/05 22:32
2024/10/05 22:12
知ってはいましたが (2024/10/05 訪問)
高槻市の最北端に位置する樫田地区にある桂香寺の裏山が城址です。
ぴーかるさんの投稿で登城が不可であることは承知していましたが、近くまで来たので行って来ました。「私有地のため登山はご遠慮ください」と書かれた説明板の写真を撮り登城は遠慮しました。登城口のある桂香寺まで行きましたが、寺の説明板にも裏山が城址であったことの記載があります。またアンタコという地域の地名伝承の案内板もありました。
JR高槻駅前よりバスに乗り樫田校前バス停で下車。徒歩1分くらいのところに説明板があります。
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2024/10/05 07:48
三好氏の居城 (2024/09/16 訪問)
勝瑞駅から徒歩で10分、駐車場もあります。
旧吉野川の堤防上に築かれ、回りを今切川と湿地帯で囲まれていました。
勝瑞城は三好氏の菩提寺、見性寺の境内になっていて三好氏四代の墓や勝瑞義家碑があります。
城を囲む堀の他、一部土塁が残っていました。
道路を挟んだ斜向かいに勝瑞館跡があります。
鉄工所の跡地だそうですが、発掘調査が続いています。
濠跡や建物礎石、枯山水庭園等が復元された広大な公園になっています。
史跡勝瑞城館跡展示室が隣接し、ここにスタンプやパンフレットが置いてあります。
遺構だけみると続100名城としては物足りないかもしれませんが阿波の実権を握った三好氏の居城として歴史的には重要な城だと思います。
中富川の戦いで長宗我部氏に攻められ落城、その後は阿波も長宗我部氏が支配することになりました。
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2024/10/04 22:27
このお城の真価は (2024/02/12 訪問)
山の下から見上げれば格好いいのに下半身が無防備に見える天守風展望台がやたら目立つがこのお城の真価は山の中腹に広がる断崖状の切岸にあると思う。もう少し遊歩道が綺麗になったら見栄えもよいのだろうけれども。
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2024/10/04 21:19
周辺観光 (2024/09/28 訪問)
結婚記念日ランチで袋井市中心街に出掛けましたので、久野城、遠州三山の法多山、法多山では厄除団子を購入、油山寺を序でに訪ねました。
遠州三山は下記の通り
Ⅰ:法多山 静岡県袋井市豊沢2777 厄除団子が有名 久野城から南東に約5.5km。
Ⅱ:油山寺 静岡県袋井市村松1番地 目のご利益、掛川城大手二の門が移築 久野城から北に約2.3km。
Ⅲ:可睡斎 静岡県袋井市久能2915-1 春の牡丹、近くのユリ園 久野城から北西に約1.3km。
今回可睡斎には雷が鳴り始め雨に成り寄りませんでした。
又、袋井市内には城びと登録の馬伏塚城が在ります。
Ⅳ:馬伏塚城 静岡県袋井市浅名1156 久野城から南へ約6.4km。(最終訪問令和5年3月10日、投稿令和5年4月20日をご覧ください)
投稿写真は①久野城大手門橋近くに在る松下期の久野城復元図。
②~⑦油山寺の掛川城大手門移築の山門、同解説板、山門櫓への登り階段、山門の主柱副柱梁等の木組み、切通堀切、高土塁の様な土塁法面。
⑧~⑩法多山本堂、仁王門、厄除団子。
記念ランチを入れて約6時間ほどの城探訪と法多山、油山寺参拝でした。結婚記念の食事も年々簡素に成って来ましたが達者で長生きが一番です。
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