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しんちゃん

「赤い奴」で見るとどうなる? (2016/08/12 訪問)

後瀬山城は大永2年(1522)若狭国守護の武田元光によって後瀬山に築かれました。主郭には石垣が配され愛宕神社が祀られています。案内板によれば主郭から山麓の現・空印寺の居館跡に通じる北側の陵線と、登城道に平行する東側の陵線に大小139ヵ所の郭が設けられているようです。「赤い奴」で見ると凄いことになりそうですね。
これらの陵線の郭の間を繋ぐ道が北東谷間に幾つも見られ「谷の横道」と呼ばれているようです。北側の陵線の先端に幾つもの防御機能を持たせ、丹後国守護一色氏を意識し西の小浜への入口の防御を意識しているようです。

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ぴーかる

佐倉城 (2025/05/18 訪問)

【百名城81城目】
<駐車場他>自由広場駐車場数十台分あり。
<交通手段>京成電車京成佐倉駅から徒歩

<見所>櫓跡礎石・土塁・堀
<感想>1泊2日江戸満喫旅ラスト7城目。2日目江戸城散策後、帰りの新幹線まで時間があったので来ました。大手門跡から通り、城址公園センターにてスタンプ押印⇒三の丸跡⇒二の丸跡⇒馬出⇒歴博にて御城印購入⇒二の門跡・一の門跡⇒本丸⇒台所門跡から清水出丸跡⇒北の出丸跡・薬医門⇒帯曲輪を通って戻り終了しました。角馬出と曲輪の内部は芝が植えられ比較的整備がされていますが、二の丸跡の空堀等は手入れされた様子がなく、堀の醍醐味が見られなかったのが残念でした。駅から歩くと結構坂を登っていくので、台地上に築かれた丘城なのがよく分かる感じになっていました。石垣が無い土の城跡、平たいので、現存建物が無いと少し寂しい感じがしました。もう少し散策したかったのですが、帰りの新幹線があるので終了としました。結局お昼ご飯抜きの強行軍で東京駅で駅弁(高い!)を買って夕食兼としました。

<満足度>★★★☆☆

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しんちゃん

大濠公園 (2024/01/06 訪問)

慶長年間に黒田長政が福岡城を築く際に博多湾の入り江であった草香江を外堀として利用しました。大濠公園はこれを池として活用し、浮島をはしで繋いで移動できるようになっています。公園内にある浮見堂は昭和24年の昭和天皇の行幸に伴って移設されました。
福岡市の一等地のど真ん中にこれだけ大きな池が有ること自体驚きですが、この規模の池を縦断できる公園はほぼ無いと言って良いと思います。

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しんちゃん

桧原湖 (2015/05/03 訪問)

桧原湖は磐梯山北側にある湖で「小野川湖」「秋元湖」とともに裏磐梯三湖と呼ばれています。明治21年(1888)の磐梯山の噴火で川が塞がれてできた堰止湖で磐梯朝日国立公園に属しています。
この時の噴火で会津・米沢街道の桧原宿が水没し、知っ買うに案内板が立っています。会津にはたびたび旅行していますが、早朝に立ち寄った檜原湖は張りつめた空気の中で幻想的な美しさを漂わせていました。

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しんちゃん

吉田松陰誕生之地 (2013/10/04 訪問)

吉田松陰は天保元年(1830)に家禄26石を持つ萩藩士・杉百合之助の次男として誕生しました。幼名は寅之助で吉田家に養子入りした際に大次郎を名乗っています。杉家と吉田家、久坂家は養子縁組や婚姻などでの親戚筋にあたるみたいです。
誕生地は団子岩と呼ばれる丘陵地にあり萩市内を眺望できます。写真にある小山は萩城の詰城のある山でしょうか。
吉田松陰の銅像の脇の人物は久坂玄随かな?と思いましたが、下田に同行した金子重之助(重輔)らしいです。下田海岸でペリー艦隊を眺望している時の姿を再現しています。
杉家は元々、萩城下の川島に住んでいましたが文化・文政の大火を機に俳人・八谷聴雨の別荘を父の百合之助が購入し当地に移り住んだようです。その後、嘉永元年(1848)一家は松本村清水口に戻り、現在の松陰神社の境内に居を移しました。家禄26石くらいあると、いろいろ引越しも出来るみたいです。実家も松陰さんが講義を出来るくらいの広さはあったようなので。

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todo94

三連休初日・献血後の攻城② (2025/07/19 訪問)

献血と熊本城で三連休初日のミッションは完了したも同然です。残った時間、熊本電鉄を利用してまずは須屋城へと向かいました。熊本城から徒歩で藤崎宮駅にアクセスし、新須屋駅にて下車。皆さんが投稿されている説明板を無事確認することができました。

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イオ

金森長近ゆかりの地 (2025/05/04 訪問)

室町中期に川那辺氏が開いた金森惣道場(金森御坊)を中心に寺内町が形成され、川那辺道西の頃には比叡山勢により大谷本願寺を破却された蓮如が金森御坊に身を寄せ、浄土真宗の拠点となりました。戦国期には蓮生寺(三宅城)と連携して城郭化を進め、織田信長の近江侵攻の際には、一向一揆の拠点として六角氏に味方して抵抗しましたが、佐久間信盛に攻められて開城しました。

金森御坊周辺は道が狭い上に入り組んでいて駐車できそうにないので、金森霊園脇に路駐して登城開始。城跡は宅地化していて遺構は消滅しており、寺内町の中心となった金森御坊や道西が開いた善立寺、道西坊旧址の石碑や金森御坊と中世の歴史遺産の説明板が見られるくらいです。また、金森御坊から東へ約100mの蓮如上人杖堀池には、蓮如が飲料水に困っていた住民のために杖で清水を掘り当てたとの伝承があります。その他、城跡の北辺・南辺・西辺を流れる川(水路)がかろうじて往時の堀の名残といえるでしょうか。

…と、ほとんど見るところのない金ケ森城ですが、この日は金龍紀行の一環として訪れました。金森長近は、土岐氏の内紛に敗れた父・大畑定近に連れられて美濃から金ケ森に移り住んで「金森」を称し、幼少期から青年期までを過ごしています。後に飛騨高山の城下町を開く際に金ケ森以来の付き合いの商人を招くなど、長近にとって金ケ森は単に名字の由来というだけでないゆかりのある地だったようです。
 

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しんちゃん

萩 松陰ゆかりの地 (2013/10/14 訪問)

萩市の吉田松陰墓所は維新ロード沿いの吉田松陰誕生の地に隣接しています。団子岩と呼ばれる小高い場所にあり、墓地には池田屋事件で命を落とした吉田稔麿の墓も有ります(松陰との血縁は無い模様)。久坂玄瑞には松陰の妹・文が嫁いでいて一族の扱いにあるようです。
吉田家・杉家など一族の墓の他に、高杉晋作の墓も有ったりしますが松陰門下双璧と言われる人物だけあって、違和感なく溶け込んでいたりします。
久坂も高杉も各地に墓所が有ったりするので、形式上の墓所になるのかもしれません。

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しんちゃん

萩周辺 松下村塾・松陰神社 (2013/10/04 訪問)

松陰神社は吉田松陰とその門人(松下村塾の生徒)を祭神としています。東京都にもありますが、山口県萩市の松陰神社の境内には松下村塾が現存し、吉田松陰歴史館や吉田松陰幽囚ノ旧宅もあります。松下村塾と旧宅は「明治日本の産業革命遺産」の構成要素として世界遺産にも登録されています。
吉田松陰は安政元年(1854)伊豆の下田でアメリカ軍艦での密航に失敗し、江戸伝馬町の牢獄から萩に送られました。翌年釈放となりますが父・杉百合之助のお預けとなり実家での謹慎生活に入りました。松陰は幽囚室で若者らに孟子や武教全書などを教え、やがて松下村塾を開くに至りました。

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しんちゃん

萩城周辺 (2013/10/04 訪問)

志都岐山神社は明治11年、旧本丸付近に萩の有志が山口の豊栄・野田良神社の遥拝所を建立したのが始まりとされています。祭神は毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳の五柱で、初代から12代までの萩藩主も祀られています。
花江茶亭は城址(指月公園)にある茶室で、13代・毛利敬親が三の丸内の橋本川沿いの別邸・ 花江御殿の中に造りました。明治維新後に払下げられますが、明治22年ごろに品川弥二郎らが買い戻して公園内に移築しました。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋は毛利一門の厚狭毛利家の武家屋敷の一部で、主屋が解体された後も長屋のみが残されています。無料駐車場の南の道路に面しているのですぐにわかると思います。

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しんちゃん

天守台 (2013/10/04 訪問)

萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築いたことから指月城とも呼ばれます。指月山は詰の城とされ、麓の城は平城で、本丸・二の丸・三の丸で構成されています。天守台にはかつては五層五階の壮麗な天守が建っていましたが明治7年に破却されています。
古写真を見ると一階が石垣より外に張り出した面白い構造をしています。五層にしては高さ21mと小ぶりですが、個人的に好感を持っています。JR東萩駅前は六分の一の模型が据えられているようです。

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トク

【竹中重利】(2)大分府内城 (2025/07/21 訪問)

竹中重利の続き(2/2)です。大分府内城は大友氏改易後の1597年、秀吉の命で府内(大分市)に入った福原直高(石田三成の妹婿)により、新たに築城された城です。故に大友氏とは全く関係のない城なのでお間違えなきよう。 直高はここに天守台を築きますが(写真③④)そこで1600年関ケ原へ出陣。西軍として大垣城の守備を任されますが、敗北し自害してしまいます。

関ケ原後の1601年、豊後高田から竹中重利が入り、直高が築いた天守台の上に四重の天守を建てました。ちょっと遊び心で想像図を作り妄想してみました。こんな雰囲気だったのではないでしょうか?(想像図⑩🤔)。

重利は内々堀・内堀・外堀と三重の堀を築き、内堀の外側の山里丸(現:松栄神社)に御殿を建て、御殿と本丸を廊下橋でつなぎました(写真⑤)。重利の頃は、北は海で東は大分川がある三角州に本丸があり、その本丸の北東側に天守がある悌郭式の縄張りだったようです。そして外堀で囲むように城下町を築いていきました。

その後1634年に下野国壬生より入った日根野吉明により、内堀に沿っての櫓や塀が白漆喰で塗られ、現在のような城の風貌が完成します。しかし、その後に入った大給松平氏の1743年に天守は火災で焼失、その他も1945年太平洋戦争の大分空襲で人質櫓と宗門櫓以外は全て焼失してしまいました。戦後から徐々に復興され、平成8年には廊下橋も再建されました(写真⑤)。

現在は大分城址公園となっていて、市民の憩いの場になっています。令和5年の豪雨で西ノ丸の石垣が壊れましたが、現在発掘調査を行いながらゆっくりと修復されているようです(写真⑥)。文化会館跡地も整備計画が示されていました。

重利は1615年54才で没し、松栄神社の傍らにある浄安寺に眠っています(写真⑨)。私は天守台に立ち、ぐるりと眺めてみました(写真⑦⑧)。四重の天守を完成させた重利は、どんな思いで天守からこの景色を眺めていたのでしょうか? 関ケ原以降、戦のない平和な世になった事に感謝しながら、そこから没するまでの約10年間、家督は子の重義に譲り、のんびりとここで・・・余生を過ごしていたのかもしれませんね。
 

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イオ

三宅城(滋賀県守山市三宅町) (2025/05/04 訪問)

三宅城(城びと未登録)は、戦国期に在地土豪の三品氏が居城とした城館で、織田信長の近江侵攻の際には、一向一揆勢が拠点とした金ケ森城の出城として信長包囲網の一角を担いましたが、佐久間信盛に攻められて開城しました。

三宅城跡は真宗大谷派の蓮生寺になっていて、境内が主郭と考えられます。主郭の南東辺から南西辺にかけて土塁が遺っていて、南東辺外周には堀も見られます。南西辺外周には堀代わりの堺川が流れ、北西辺にも土塁や堀の名残の水路があるようですが、民家の間にあるため確認できませんでした。

芦浦観音寺館と金ケ森城の間にあるため、ちょっと立ち寄ってみましたが、思いのほかしっかりした土塁が見られました。ただ、周辺の道は狭い上に駐車できそうな場所も見当たらず、邪魔にならない道路脇に路駐して駆け足での登城になってしまいました。
 

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赤い城

クイズの場所

にのまるさん、ご回答ありがとうございます。
仰るようにひとつ判れば後は出てくるかな?との意図もありました。
金沢城はもちろん正解、他は城中心部から少し離れた場所にあります。
水戸城は三の丸の土塁、茨城県警の裏手に残っています。
岡山城は旭川沿いに水の手筋を歩いて行くとあります。
二の丸伊木長門屋敷内櫓跡の石垣だそうです。

お付き合いありがとうございました。

ついでと言ってはなんですがこれも100名城の丸亀城。
7/21時点の石垣復旧工事現場の写真です。
まだ基礎部分なので進行はちょっとずつですね。

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HKISD

都於郡城散策 (2025/07/18 訪問)

とても広く三の丸、二ノ丸、本丸と凄かったです。

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しんちゃん

西郷頼母邸跡 (2024/09/17 訪問)

会津若松城周辺の投稿です。西郷頼母近悳は戊辰戦争の時の会津藩の家老です。西郷家は元々は保科家の支流で頼母は通称、代々の家老職になるようです。近悳は藩校日新館を優秀な成績で卒業し文武に秀でていたとされています。23歳で家老職に就き、藩政に携わりました。
近悳は会津藩の中でも穏健思考で藩主容保の京都守護職拝命に当たっても否定的な意見を述べ容保の怒りを買っています。戊辰戦争の際には白河口総督を務めますが、戦いに敗れ帰藩し和議を主張するも退けられました。
新政府軍が会津城下町に攻め込んだ時に家族ら21人は邸宅で辞世の句を詠み自決しました。頼母は長男・吉十郎とともに城を去り、米沢・仙台を経て榎本武揚の艦隊に合流しますが、函館で武揚は新政府に降伏しました。

他にも会津戊辰戦争終結の地や、白虎隊隊士・井深茂太郎の生家跡を訪れています。茂太郎は16歳で飯盛山で自刃し、ソニーの創始者の井深大氏は親戚にあたるそうです。

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HKISD

高城散策 (2025/07/18 訪問)

城に登っての見晴らしが良かったです。

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HKISD

高鍋城散策 (2025/07/18 訪問)

雨の中での散策だったので下がじゅるく大変でしたが見応えある城跡でした。

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あみりん

暑かった飫肥城 (2025/07/24 訪問)

大阪から人吉城からの飫肥城。
全て公共交通機関で。アクセスが悪くなかなか辿りつかない。片道1.5キロを徒歩で。
飫肥の城下町は水路に鯉も泳いでいました。
飫肥天も美味しかったです。
石垣の積み方も美しく素敵でした。

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しんちゃん

ペヤング (2025/06/30 訪問)

にのまるさん、お気遣い有難うございます。オカンも最近少し元気が出てきたようなので、涼しくなって来たら、あの手この手を使って近場の城攻めに行こうかなと企んでいます。
今の私はメンタル的に半分コですが、そんな私にちょうど良い城が有りました。その名も半分城です。詳細の不明の城ですが戦国時代の山城であったことは間違いなく、主郭から北の向山城・西の古志城・南の姉山城を眺望できるとされていることから、それなりの役目を持っていた城だと思います。
工業高校からアクセスを試みましたが、すべなく断られました。ネットで調べたら城址西側の道沿いに登城道と案内板がありました。比高はそれほどでもないので、すぐに主郭に到達することが出来ます。主郭周辺は比較的整備がされていて、この時期でも歩きやすい。
周囲にはうっすらと土塁が残っていて、主郭西側の段には鉄塔が建っています。東から迂回して北西の竪堀群を見に行こうとしましたが、樹木藪草で道が塞がっていて引き返しました。冬場なら進めたかもしれませんが、夏場でこれはきついです。

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