「城山に 青石キラリ 徳島城」
(しろやまに あおいしキラリ とくしまじょう)
「守りの要 支える舌石 徳島城」
(まもりのかなめ ささえるしたいし とくしまじょう)
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検索結果・・・「」を含む投稿
2025/09/13 14:10
【赤色立体地図かるた】
「城山に 青石キラリ 徳島城」
(しろやまに あおいしキラリ とくしまじょう)
「守りの要 支える舌石 徳島城」
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2025/09/13 13:45
歴史は謎 (2024/12/31 訪問)
木田範宗の墓は木田余城跡の一角に設けられています。木田余城は範宗によって築かれたとされ範宗は主君・小田氏治と対立し、氏治の命を受けた菅谷氏に誘殺されたと書物に記載があるようです。
時期は手這坂の戦(1569)の後とされますが、被疑者にも被害者にも諸説あるようです。結局謎につつまれているのだけど、歴史の真否に関しては、なかなか断言できることではないですね。大事なのは考えることだと思います。
常に新しい情報を入れて、考えまくることが重要だと思います。私は、城人ならではの形で様々な歴史に対しての「気づき」が有るのではと考えています。実際に自分の目で見て考えねば解らないことがあると思いますね。
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2025/09/13 10:11
馬籠宿 (2019/03/09 訪問)
馬籠宿の投稿です。特徴的な水車と坂の写真を目にした方も多いと思います。城ではないのですが古い日本の風景が広がっていて私は好きです。城びとを始めてからは城ばかりになってしまいましたが、それまでは神社や寺、旧跡めぐりも精力的に行っていました。
古い日本の歴史を丸ごと飲み込んでやろうというエネルギーが有ったのですね。若かったな~(今より)
馬籠宿は中山道43番目の宿場で妻籠宿と並んで人気の観光名所です。妻籠は落ちついた雰囲気がありますが、馬籠は賑やかな所で、観光客がいっぱい来ています。坂を登って行くと石畳の両脇に資料館やカフェなどがひしめいています。この狭さ密度が馬籠の華やかさを増しているのだと思います。
旧本陣跡は藤村記念館となっています。ここは島崎藤村の生家跡で子供時代の勉強部屋なども残っています。お坊ちゃんだったのですね。残念ながら生家は明治28年の大火で焼失してしまいますが、地元の方によって昭和22年に記念館が立てられました。
馬籠は豊臣秀吉の傘下の木曽義昌が治める所となり小牧・長久手の戦いの際には義昌は木曽路の防衛を命じられました。義昌は兵300を送り、山村良勝に妻籠城を守らせ、島崎重通が馬籠城を守りました。
この重通が島崎藤村の祖先にあたり、ここでも歴史が繋がっています。馬籠城も訪問しているのですが写真が消えてしまいました。城の造りとしては妻籠城の方が印象に残っています。
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2025/09/13 09:35
黒井城 (2014/07/21 訪問)
兵庫県の黒井城の最初の訪問時の写真です。南東から東曲輪・三の丸・二の丸・本丸と続き石垣が良く残っています。堀は少ないですが、二の丸から本丸に至るまでに三箇所の折れ曲がりがあり侵入を妨げているとTVで言ってましたね。現状だと判別がしづらいですが縄張り図を見ると確かにそうなっています。
続百名城の城は登録される前に6~7割は訪問していたのですが、スタンプを押す際にもう一度再訪してます。城びとを始めてからも可能な限り再訪し600くらいは周ったかな? 新規を合わせると2年ちょっとで1200城ほど廻っています。さすがに全部再訪は厳しいけど、できれば廻りたいね。
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2025/09/13 09:13
四谷の千枚田・新城市 (2015/05/24 訪問)
愛知県新城市の四谷の千枚田の投稿です。お城とは全く関連性が無いのですがご容赦いただきたい。鞍掛山の麓の斜面に約400年前に開墾された美しい棚田が広がっています。現在420枚ありますが最盛期には1296枚の田があったそうです。
日本の原風景と呼ばれる光景で、地元や契約者の方々が今でも稲を育て、景観を保っている姿はちょっと感動です。当地の案内板には明治37年に20日あまりも雨が降り続いて、鞍掛山とびんぼう山(通称)の谷間に溜った泥水が山津波を引き起こし、11人の死者が出る惨事になったそうです。そのあと復興に立ち上がった村人たちに寄って、荒れ地を田に変えた(再開墾?)のがこの千枚田と書かれています。
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2025/09/12 18:13
丘 (2024/12/31 訪問)
南に天の川が流れ、北東に御館川が流れる大字中佐谷の台地上に笠松城は築かれていました。西以外を河川で守られた要害の地にあります。北側に土塁が有るようですが確認はできていません。案内板によれば正元年間に常陸大掾資幹の孫の佐谷郷の地頭・佐谷左衛門尉実幹によって築かれたとのこと。案内に沿って台地を登って行くと城址碑のある扁平地にたどり着き、そこが主郭のようです。
民家の石垣らしきものがあるけど、当然城址とは無関係です。城の石垣なら良かったんだけどねえ・・
慶長7年(1602)から約40年、志筑藩主本堂氏が居住し笠松城を称したようです。とはいえ本堂氏は8000~8500石の大身旗本で志筑藩はかすみがうら市中志筑あたりになるので、あくまで居住していただけらしい。正保2年(1645)に志筑陣屋が築かれ、寛文8年(1668)本堂玄親の代でようやく本領に引越すことが出来たようです。
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2025/09/12 17:44
掻上げ? (2024/12/31 訪問)
本丸の案内板には「この城は、堀と土塁で防備をかためる「掻上げ(かきあげ)城」で・・」と書いてある。なんじゃ? 掻上げって?
スーパーの特売でうってるやつか?(それは掻揚)
土塁はよくわからなかったが、周囲の堀は確認できました。文亀年間(1501~1504)には小山田氏の有力な家臣・菅谷隠岐守貞次が城主でした。菅谷氏は天正元年(1573)7月佐竹氏の攻撃を受け佐竹氏の家臣となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替えによって廃城になったようです。
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2025/09/12 14:38
2025/09/12 14:18
名古屋城 (2024/04/06 訪問)
名古屋城は豊臣家の大阪城への抑えとして慶長15年(1610)2月より天下普請で工事が行われました。石垣の普請は年内にほぼ終了と言う異様なほどのハイペースです。かほどな速さで石垣が積まれたので石材も様々な産地から調達しています。高石垣の中に砂岩や花崗岩が混在している城もあまりないでしょう。
特徴的な部分として二之丸大手二之門の石垣は複数の史料に記載があります。1枚目の写真がそれですが、右下が幡豆石、赤茶けた石が竜山石、幡豆石の上の大きな石が山陽帯花崗岩らしいです。
竜山石は凝灰岩の一種で白亜紀以降の火山活動の堆積物が固まったもので、加工のしやすさから古くから使われているようです。
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2025/09/12 10:46
二の丸内部と土塁 (2025/02/25 訪問)
先に二の丸大手門跡石垣とその周辺の写真投稿しましたが、二の丸内部、南側の土塁、西側の土塁、南側土塁から南の落ち込んだ切岸、ここも見所、二の丸に鎮座する城山稲荷神社、木々の葉っぱが落ちて見通し良くなった内部の写真投稿致します。
二の丸へは本丸より中仕切門跡からと西端の土塁上から進入、又東側の大手門階段からの進入、南西堀切からの坂道進入の4ヶ所あります。
冬枯れの良い一日でした。
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2025/09/12 10:23
二の丸大手門跡石垣辺り (2025/02/25 訪問)
冬枯れ、草刈、灌木伐採されて見易く成った頃かなと今年の2月25日に二俣城跡見学探訪写真撮影に出掛けました、先に西の丸Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、南の丸Ⅰ、Ⅱ、本丸天守台、本丸東石垣、本丸内部と写真投稿させて頂きましたが、二の丸投稿です。
二の丸は本丸の一段下がった南側に在り、東に石垣造りの大手門跡が在り見所の一つです、少し崩れていますが大手門北側石垣の東面は本丸北門・搦手門跡までの東側石垣として伸びて居た模様。
二の丸大手門跡の南側石垣は北より比高が有り、櫓台が在った様な広さが在ります、二の丸の南側の土塁と続き西側に伸びて北に土塁が続きます。
また二の丸南の土塁が南の丸Ⅰ間の堀切・3号堀と成り北面は急な高切岸に成って見応えがあります。
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2025/09/12 09:24
【宮本武蔵】(8)姫路城①(妖怪退治と刑部姫) (2025/06/05 訪問)
宮本武蔵の続き(8)です。
勘当され生活に困ったたけぞう(武蔵)は、1598年16才の頃、木下家定(秀吉の妻ねねの兄)が当時城主を務めていた姫路城へ行き、身分を隠して足軽(門番)のアルバイトをします。
当時の姫路城には、黒田官兵衛が普請し豊臣秀吉が築城した三重四階の天守がありました(写真⑤)。その石垣の一部は今でも残っています(写真②③④)。1587年黒田官兵衛は豊前中津へ国替えとなり、秀吉は大坂城を築城して移ると、代わって木下家定に姫路城が与えられます(写真⑥)。しかしこの時、家定はまだ大坂城で秀吉に仕えていたため、家定の三男延俊(後の日出城主)が城代を務めていました。この時に延俊と面識ができたようで、この15年後に武蔵は日出城(ひじじょう)を訪れているようです。
そして門番を始めてから数カ月後、城に妖怪が出るという奇妙なうわさが広まります。よって門番たちは誰も夜番をやりたがりません。でもたけぞう(武蔵)だけは平気で夜番を勤めたそうです。それが延俊の耳に入り、「彼はいったい何者か?」と調べられ、名高い新免流の武芸者である事がばれてしまいます。たけぞう(武蔵)は木下家の客分として取り立てられ、そして妖怪退治をしてくれぬかと頼まれます。わずか16才なのに・・・
たけぞう(武蔵)がある夜、灯ひとつで天守閣に登り、三階の階段に差し掛かった時、すさまじい炎と地震のような音と振動が!・・・ついに妖怪が現れました! ここでたけぞう(武蔵)は太刀に手をかけ斬りかかると妖怪は退散し静けさが戻ったとか。しかし四階に登るとまた同ように妖怪が現れます。しかしまた斬りかかるとまたも退散したようです。そして四階でまた現れるかもしれないと番をしますが現れず、明け方になるとウトウトと寝てしまいました。ふと目をさますと、そこに美しい「刑部姫(おさかべひめ)」が現れ、「あなたのおかげで妖怪は恐れをなして退散しました。褒美としてこの宝剣を与えましょう」、と白木に入った名刀「郷義弘」が残されていたそうです。
この後、関ケ原後の1602年に入った池田輝政は、姫路城を豪壮な天守に建て替えますが、刑部姫は刑部神社となって、天守最上階に守護神として今でも祀られています(写真⑨⑩)。そのおかげか、姫路城は400年の間に火事や落雷もなく、太平洋戦争時の空襲でも天守に爆弾は落ちませんでした。当時の米兵搭乗員の、「水堀が反射しB29のレーダーには湖か池に映ったので、そこに爆弾は落とさなかった」という証言が残されています。これも刑部姫の御加護でしょうか?
妖怪退治が終わり17才になったたけぞう(武蔵)は、父の無二斎が宇喜多から離反し、利神城攻めの時に知り合った黒田官兵衛を頼って中津へ行く事にしたため、自分も同行する事にしたようです。そして黒田配下の東軍として九州の関ケ原へ出陣します。
次は、その(中津城)を訪れ、たけぞうが負傷したという九州の関ケ原へ続きます。
【注】妖怪退治は後世(江戸期)の創作かもしれませんが、いちおうあったという事にさせて頂き話を進めました(笑)、すいません。
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2025/09/11 23:36
もうひとつ,宿題をクリアしました…📓 (2025/07/20 訪問)
この夏,もうひとつ,宿題をクリアしました。赤い城さん,にのまるさんの双方からクイズに出題された岩槻城。赤い城さんからは堀障子,にのまるさんからは八ッ橋が出題されました。
行けたきっかけとなったのは,今年も母の同級会を請け負うこととなり,大宮で開催したこと。前乗りしましたので,これで岩槻駅のコインロッカー問題は解消しました。
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2025/09/11 22:29
2025/09/11 22:21
お城を眺める城下町 (2025/01/31 訪問)
お城の目の前の古民家宿に泊まると大洲城の夜景を独り占めしたような気分になる。大洲は城下からお城がよく見える町でたぶん昔のお城はみんなこんな風に見えていたのだろうと思わせてくれる。お城っていいなあと思う。
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2025/09/11 21:51
老津と大津 (2025/09/07 訪問)
某アプリのリア攻めがしたくて、また来てしまいました。戸田宗光が渥美半島で最初に入った城とされ、豊橋市立家政高等専修学校の周辺が城址になるようです。別名を大津城といい、元々このあたりは大津と言う地名でしたが明治11年に老津村に改名されてしまいました。
元は紫式部の「老津島 島守る神や 諫むらん 波もさはがめ童べの浦」という和歌に由来があるそうですが、紫式部と接点があるのは滋賀県の大津ですね。三河の吉田の地名もなかば強引に豊橋にされてるし、明治政府感じ悪いし、やることが適当過ぎる。
残りの写真は岡崎のもろこしうどんです。時間の都合で岡崎城に寄れなかったので・・ぱっと見 もろこしの量ってこんなもんだっけ、と思いましたが、実は底の方に大量のモロコシが沈んでいます。めちゃくちゃボリュ~ミ~です。でも美味しいし満足です。
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2025/09/11 21:23
2025/09/11 21:05
飛鳥寺・蘇我入鹿首塚 (2013/09/28 訪問)
ちょうど歴史探偵で大化の改新をやっていたので。飛鳥寺は588年に蘇我馬子が創立した日本最初の仏教寺院とされています。本尊の飛鳥大仏(釈迦如来)は605年に推古天皇が詔して鞍作島仏師に造らせた日本最古の仏像だそうな。
最初期の仏像なので、後世のものと異なり引き締まった感じですね。う~ん、逆ライザッ〇(ポカッ)近くには蘇我馬子の首塚がぽつんと立っています。飛鳥寺の西には飛鳥の檜舞台「槻(ケヤキの古名)の木の広場」があり、中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会ったそうです。672年の壬申の乱の際にはこの広場を軍隊が覆い尽くしたとか。
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2025/09/11 19:29
水郡線で城めぐり⑤ 守山城 石垣と空堀が残る (2025/06/17 訪問)
水郡線の正式な終点 安積永盛駅の一つ手前の駅 磐城守山駅から徒歩10分ほどです。
郡山駅西口2番のりばの蓬田行の路線バスで「守山小学校」のバス停で下車するルートもあります。
磐城守山駅から道なりに進み、国道49号線にアンダーパスで入り、学校の先にある接骨院の駐車場の南の路地を進んでいくと、右手側に、二ノ丸・三ノ丸間の空堀と石垣を発見。6月の訪問でしたので、石垣が草に包まれつつありましたが、きれいに残されていました。堀そばの道沿いには説明板も設置されていました。初見で石垣を見逃がしている方が多いようですが、駅側からアクセスすると道沿いなので見つけやすいかもしれません。
本丸跡は、城山八幡宮になっていて、鳥居のそばに守山城跡の標柱があります。本丸の城塁も良好な形で残っていました。
守山城を見学後、水郡線を郡山まで乗り通し、初めて水郡線を全線走破しました。水郡線ユーザーなだけに嬉しさもひとしおでした。
まだまだ水郡線沿線には、お城がたくさんありますので、地元パワーを活かして、攻城した際は、ご紹介していきたいと思います!!
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2025/09/11 19:16
水郡線で城めぐり④ 藤田城(福島県石川町) 地元の力で主郭・二ノ郭の一部を復元!! (2025/06/17 訪問)
今回の城めぐりで、実は一番楽しみにしていたお城です。
城びと未登録ではありますが、素晴らしいお城ですのでご紹介します。
JR水郡線 野木沢駅から藤田城大手口まで徒歩10分ほどです。また路線バスの場合は、福島交通の須賀川-石川間のバスで、野木沢北口のバス停下車。そこから徒歩2分ほどです。
私の場合は、水郡線の列車と路線バスが無い時間帯に当たってしまい、三芦城(磐城石川)から力業の徒歩戦法で1時間かけて向かいました。(歩道は整備されていましたが、かなりハードですので、おすすめはできません。水郡線や路線バスを活用してください。)
野木沢駅側の旧道と国道118号の交差点の所に、説明板と城跡への案内板が設置されています。案内板に従い、進んで行くと大手口跡につきます。(野木沢駅と駅からの旧道沿いにも藤田城の案内があります。)
大手口から主郭までは5分ほどで到着します。
この城の見どころは、復元されている物見櫓(井楼)、城柵、冠木門です。石川町と地元の方が協力し、復元したもののようです。まさか水郡線沿いに、ここまで復元が行われている城があるとは、知らなかったので驚きでした!!(もっと有名になっても良いと思います。)
主郭南側の岩肌の露出と物見櫓の迫力には脱帽です。二ノ郭の冠木門そばに復元建築物の説明板があり、主郭の冠木門を通って主郭跡へ入ると、物見櫓のそばに説明板が設置されています。物見櫓は登ることも可能で、ニノ郭や野木沢駅方面を望むことができました。
主郭跡の北側に進んで行くと、三ノ郭跡があります。こちらには、虎口や土塁の遺構もかなり良好に残っています。
個人的に水郡線沿線で、トップクラスにおすすめのお城ですので、皆さんも機会がありましたら、ぜひ訪れてみてください。
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