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トク

到津の森公園(ちょっと寄り道) (2025/01/19 訪問)

西小倉駅前から黒崎行のバスに乗り15分「到津の森公園前」で下車しました。さあここから「引地山城」を目指そうと思いましたが・・・

バスを降りると観覧車などの遊園地がすぐ目の前に見えて、案内図もありました。よく見ると、何やら珍しい動物たちがたくさんいそうな動物園もあります。しかも市営のためか料金も安い! これはちょっとだけ寄り道して行くことにしました。

日曜なので家族連れや多くの小さな子供たちで、とてもにぎわっていました。そして何とビックリ!「レッサーパンダ」がいました。私は見るのは初めてですが、動作が愛らしいですね。他にもキリン・虎・ライオン・ぞうなどなど大変多くの動物がいて、うさぎなどのかわいい小動物と触れ合えるコーナーもありました。時を忘れるほど見入ってしまい、ふと気がつくと1時間程度のつもりが3時間も長居してしまいました。最後にお腹が空いたので、名物「ライオン饅頭」を食べました。美味しかったです。

では本来の目的地へ、ここから歩いて10分の所にある、引地山城跡へ向かいます。
 

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イオ

城下町めぐりと岸和田古城 (2024/10/27 訪問)

(続き)

市営駐車場の東側一段上にある展望ポケットパークからは紀州街道の街並みが見渡せます。ここから紀州街道を端緒に城下町(と岸和田古城)をめぐってみるとしましょう。

紀州街道(岸和田市本町)
紀州街道は松平康重期に整備され、後に紀州徳川家の参勤交代道となり、城下町は街道沿いに発展しました。本町地区は岸和田市の歴史的まちなみ保全地区に指定され、古い街並みが遺っています。街道沿いには一里塚跡や吉田松陰の逗留地なども見られます。また、紀州街道の海側には同じく松平康重期に約800mにわたって整備された惣構の防潮石垣がわずかに遺っています。

蛸地蔵天性寺(岸和田市南町)
中村一氏期に岸和田城が紀州勢に攻められ落城の危機となったとき、大蛸に乗った法師と数千の蛸が現れて城を救ったとする蛸地蔵縁起絵巻と、法師に化身した地蔵菩薩像(鉄砲の傷跡が残る)が伝えられています。

松平康重墓(岸和田市南町)
岸和田城を近世城郭として完成させた松平康重の墓所です。心蓮寺跡とのことですが、柵で囲われた空き地に五輪塔と説明板だけが立っています。

岸和田藩薬園跡(岸和田市岸城町)
江戸後期にはあぶみ郭(馬出郭)に薬園が設けられ、様々な薬用植物が栽培されていました。現在は駐車場になっていて、説明板が立てられているのみです。

岸和田古城(岸和田市野田町)
岸和田古城(城びと未登録)は、南北朝期に南朝方として活動した岸和田氏が拠点とした城館で、戦国期に現在の岸和田城の位置に移って廃城となったと考えられます。三つの曲輪群を水堀で囲んだ平地城館で、近年まで本城が遺っていたようですが、宅地化により現在は本城跡に石碑と説明板が見られるのみです。

…というところで城下をひとめぐり。時間の都合で取りこぼしもありますが(だんじり会館とか?)、近場なのでその辺はまたいずれ。
 

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しんちゃん

刑部氏代々 (2024/09/14 訪問)

刑部城は旧上三川街道沿いに位置し、宇都宮頼業の子孫で上三川城主の横田師綱の次男・良業によって築かれたとされます。良業は刑部氏を称し、宇都宮氏の家臣として活躍しました。
現在も子孫の方が暮らしており、街道のある東側に土塁、堀が残っています。地名にも城にかかわるものが残っており、邸宅のあるあたりが「御城」、あたり一帯の地名が「堀の内」と言うようです。

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しんちゃん

雷電神社 (2024/09/14 訪問)

江曽島城は雷電神社のある微高地に築かれていたようです。個人宅に城址碑がありますが、誰もいないので遠景で・・。

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しんちゃん

平将門 (2024/09/14 訪問)

藤岡城は承平2年(932)に平将門によって築かれた花岡館が前身のようです。天慶3年(940)将門が討たれると廃城になり、寛仁2年(1018)足利成行が中泉城として再興し一族の佐貫太郎重光に守らせました。後に藤岡城と称されますが、豊臣秀吉の小田原攻めにより落城し、廃城になったようです。
本丸跡が三所神社として残され、他は田畑になったようです。

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しんちゃん

風化 (2024/09/14 訪問)

小谷城は久寿元年(1154)に小谷俊景によって築かれたとされています。小さな神明宮の近くに案内板と石碑がありますが、案内板は風化してほとんど読めません。ちょい寄りです。

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天守無しがアツい

稲荷櫓 (2025/01/12 訪問)

(甲府城HP)
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/kofujyou.html

甲府城(天守)を訪れた事は(平成28年に)あるのですが、その時はまだ100名城スタンプの存在を知らず、スタンプ帳も持ってなかったため…まさにやり残しという存在でした。その回収をするために甲府市に来た今回の私🚃

スタンプ設置場所は2つあり、そのうちの1つが稲荷櫓(1枚目)という場所でした。今回はそこに入場…靴を脱ぎスリッパに履き替えて中に入ると…すぐそこにスタンプはありました

スタンプ帳に捺印(2枚目)…今回も試し押しして大丈夫と確認してからの本押しでした。他用あったため、手短に櫓内を見学

(HPからの案内文コピペ)
天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

櫓は二層から成り立っており、1階には(上記コピペとほぼ同じの)説明パネルが何枚もありました。石落とし(床下の隅から石を落として敵兵を妨害する為の設備)も…🪨

その他には鯱鉾の展示がありました(3枚目)。鯱瓦というものがこの城には使われていたそうで、装飾性の高い…金の鯱を施した瓦(展示品)が使用されていた…ゴージャス感ありますね✨

ちなみに甲府城の城主には徳川家光の弟…忠長も。甲府藩主として238000石を拝領するも元服前(当時数え年で12歳あたり)という事で実際入府することはなく、藩の運営は家臣団により行われていたのが実情だそう…

その後彼は猿を殺し過ぎたり酒に酔って罪なき者を次々と手打ち…ご乱行が過ぎて庇いきれなくなり…親父(二代将軍秀忠)に勘当されたり改易(領地没収)されたりし…最期は幕命により切腹(享年29)という自業自得かつ悲劇的な運命を辿った男💀

2階にあるのはジオラマだけでした(4枚目)。これは江戸時代あたりの城郭を再現したものと思われ…この中の本丸部分しか当時の面影を残すものは無い

(4枚目の手前側に見える御殿のような建物は)県庁や駅に取って代わり現在に至るわけです🏢🚉 赤い目印がここ稲荷櫓🏯

ここには天守台こそあれど…天守は無い。それに関する説明が無かった気がするので(城主の変遷はあっても)、存在自体よく分かってないのではないでしょうか?それにこの櫓が天守の代わりを務めてるのかもな…と2階に上って窓から外を見た時に何となく思いました

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【城域1:曲輪群[南ゾーン]】
<見所>土塁
<感想>主郭から南方向に下がっていく曲輪段で、北端の起点部分に主要部との仕切り土塁が横断しています。中心辺りから二又に分かれ、分かれた間の谷を両側から挟み込むように防御しています。二又の南を向いて右手(西側)は曲輪の真ん中に竪土塁が通っていて南端に堀切があります。左手(東側)は3段の連段になっていて周囲が高い崖になっていて、切岸として削った感じもあります。
 また全体的に南ゾーンの東側に谷が通っていて、東ゾーン西側の谷の場所にあたります。この2つの尾根曲輪群が、谷から登って来る敵を両サイドで迎え撃てるような縄張りなっています。凄い構造です。次の投稿は曲輪群[主郭ゾーン]です。

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カズサン

【遠江 堀川城】静岡県浜松市 小和田先生講演「撫切の堀川城」 (2025/01/19 訪問)

 浜松市みをつくし文化センター主催、歴史講座第13弾小和田哲男氏講演会「堀川城の戦い~家康には珍しい皆殺し作戦~」が有り受講しました。
 開催場所:静岡県浜松市浜名区細江町気賀369 みをつくし文化センターホール
 講演講師:静岡大学名誉教授・文学博士 小和田哲男氏
 講演日時:令和7年1月19日(日)13時30分から15時20分

 会場の、みをつくし文化センターホール定員500名会場満席の盛況で高齢者が多く参加されて居り女性の方も多く参加されて居りました。
 堀川城は浜松市浜名区細江町気賀に在り都田川下流で浜名湖に面した浮き城で満潮時周囲は湖水が囲み干潮時周囲は沼地状態で道1本が通る難攻の城だった様です、みをつくし文化センターより南西に500m程の所に伝堀川城址・古戦場の石碑が有り小公園に成って居ます、跡地は都田川下流と浜名湖が接した処、現在都田川堤防、干拓されて田圃に成っており発掘は難しく特定地が良く分かって居ないそうです。

 小和田先生の話は、桶狭間の戦いから始まり、大高城兵糧入れ、今川義元の討死、三河錯乱、家康の今川氏離反、三河統一と進み、遠江も義元の討死で乱れて遠州忩劇状態、遠江の国衆も家康派、今川派、武田派に分かれ乱れていた、永禄11年(1568年)12月15日武田信玄との同盟(信長の同意も有り)に呼応して遠江に侵攻、井伊谷3人衆(近藤鈴木菅沼)の道案も有る。
 当初は井伊谷城、引馬城(浜松城)と順調に進み、掛川城包囲戦へ包囲戦は約6ヶ月掛かり、遠州衆は家康の力に疑心暗鬼?遠州の堀江城大沢氏は今川派、浜名湖の西岸宇津山城も大沢氏出城、堀川城も大沢氏の出城扱い、遠州衆の気持ちが今川か?家康か?揺れていた時期の3月に遠江掛川と三河岡崎の交通要所である気賀辺りで家康の近習衆が一揆勢、堀川城勢の戦いで随分討たれた、又東から今川領を攻める武田信玄から掛川城に籠る今川氏真攻めが長引き督促されいた状態化で有った様で家康のイラつきも有った様子。
 永禄12年3月27日家康は堀川城の撫で切りを命じ悲惨な結果となった。小和田先生は「三河物語」「当代記」「武徳編年集成」の古文書を紐解き解説が有りました。
 結果、108人の城兵が曝し首、現在も気賀の姫街道沿いに獄門畷として石碑が祀られて案内板が有ります。
 2ヶ月後には掛川城(懸川城)開城し今川氏真は家康の説得に応じて氏真奥方の里の北条氏へ海路送られた。

 この後遠江と駿河は家康と信玄の大井川を挟んでの攻防、信玄の死去まで二俣城の攻防、三方ヶ原の合戦と続いていきます。

 1時間半の講義と20分の質疑応答も有り有意義な講演でした、堀川城の戦いの生き残りの方々の情報会も有る様です、十数代続いた家の方の口伝との違いの応答もまた有意義でした、女性の方も多く質問されていました。
 
 写真は昨年11月28日講演チケットを購入時に立寄った堀川城、みをつくし文化センターの写真です。
 

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イオ

石垣めぐり (2024/10/27 訪問)

(続き)

本丸と二の丸をひとめぐりすると、岸和田城の石垣めぐりに出発です。

二の丸から反時計回りに内堀沿いを歩くと、本丸西隅の石垣には折れが設けられて横矢掛りになっています。石垣の裾には犬走り、石垣の上には隅櫓と多聞櫓が再興され、奥には天守も覗いていてなかなか絵になる一角です。本丸南西面の石垣は裾に犬走りが続き、修復または改修があったのか、両端が打込接ぎで中央部分が切込接ぎと石垣の新旧がくっきりとしています。本丸南隅から南東面に入ったところには搦手口と思しき本丸から犬走りへと続く石段と門らしき石垣があり、石段を下りた先には昭和に内堀に架けられていた橋の痕跡も見られます。犬走りは西隅から本丸南側を半周して東隅で終了。東隅の石垣は他の箇所より明るい色の石が混じっていますが、平成の豪雨で崩れた箇所を補修する際に、和泉砂岩より耐久性のある花崗岩を用いたことによるものだそうです。本丸北東面の石垣が突き出たあたりには櫓が建てられていたようですが、現在は土塀が復興されています。

内堀を一周して二の丸に戻ると、今度は市役所裏手に下りて行き、反時計回りに百閒堀沿いを歩きます。二の丸北東面は東端の二の丸多聞(トイレ)下の石垣は模擬でしょうが、中央部分には崩落を防ぐための巻き石垣が設けられています。二の丸北隅の伏見櫓跡を見上げながら北西面をたどり、心技館の建つ西隅から南西面に入ったあたりの出隅の石垣に積み足しの痕が見られます。石垣の修復によるものか二の丸の拡張に伴うもののようです。そして市営駐車場奥の階段を上がり二の丸に戻って百閒堀をひとめぐり。

本丸や二の丸をめぐっても、それなりに見どころはあるものの続100名城としては物足りなさも感じていましたが、犬走りあり新旧石垣の境目あり巻き石垣あり積み足しあり…と、石垣めぐりは大変見応えがありました。さらに、復興建物それ自体にはさほど惹かれないにしても、水堀越しに石垣の上に建っている姿は映えるんですよね。たとえ往時の姿と少々違っていても、復興してもらえるに越したことはないなぁ、とも。

さて、本丸周辺を離れ、最後に城下町(と岸和田古城)をめぐります(続く)。
 

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赤い城

流石です😊

todo94さん、早速のご回答ありがとうございます。

①は正解、丸亀城です。
南側の水堀につながっています。
崩れた石垣は少しずつですが積み戻され始めました。
石垣復旧PR館の方によると、現在は基礎の部分の作業をしているので少しずつ慎重に進めているとのことでした。
写真1枚目、木の横にある足場の奥が作業中の部分です。

②は惜しい😌勝賀城です。
todo94さんの登城時にはまだ藪の中だったかも。
この辺りでは珍しい竪土塁です。
巨石で補強されています。
回答の選択肢に挙がっていたのでニアピン賞ですね🚩

③も正解。黄峰城です。
未登録なので反則かな、とも思ったのですが流石、登城済みでしたか。

後に続いて香川県コンプリートできるよう頑張っていきます!

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しんちゃん

分厚い羊羹みたいな石碑がある。 (2024/09/14 訪問)

横田城は宇都宮氏5代頼綱の子・頼業が横田氏を称して築いたとされています。城址は市街地になっているので、撮影は遠慮します。近くの公園に石碑がありますが、なかなか分厚い、これが羊羹だったらお客さんは嬉しいですな。

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朝田 辰兵衛

自由が丘駅南口のコインロッカーに助けられ… (2024/12/24 訪問)

「自由が丘駅南口のコインロッカーは空いてないだろうなぁ…」と期待ウスでしたが,キャリーバッグの入る特大サイズが1つも埋まっていませんでした。
コインロッカーに助けられ,奥沢城と大平砦を軽快に散策することができました。
奥沢城のある九品仏浄真寺は,カップルが多かったです。その中の1組は,総門付近からはなかなか離れてくれなくて10分待ち。どうやら,見られたがりカップルのようでした。見られることが,そもそもプレイのひとつ…。書き込みは,これぐらいにしときます。

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しんちゃん

志波城古代公園 (2025/01/04 訪問)

志波城は征夷大将軍・坂上田村麻呂が築造した古代城柵で、蝦夷の首長・阿弖流為を降伏させた後の延暦22年(803)に築かれました。
現在は「志波城古代公園」として整備され、二重の塀と、それに付随する門が再現されています。非常に雰囲気がありますが、多賀城と比べると無骨な感じはありますね。雫石川氾濫による水害のため、徳丹城に機能が移され、約10年でその役目を終えたとされています。
復元された外郭南門は二階建てのいかつい建物で、築地塀に60m間隔で取りついている櫓は、周囲を威圧しているかのようです。

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todo94

赤い城さんのクイズの答え (2018/01/28 訪問)

にのまるさんクイズの回答、お恥ずかしい限りです。そして赤い城さんのクイズも難しいです。少し意地悪かもという③が一番自信があります。城びと登録物件ではありませんが、私も攻略しておりましたので。①の土塁の切れ目の向こうに立派な水濠が見えるのですが、香川県の城で水濠と言えば高松城と丸亀城しか思いつきません。土塁がありそうなのは丸亀城だと思うのですが。②はもう第一印象で西長尾城だと思ったのですが勝賀城も捨てがたくて。ファイナルアンサーは以下の通りでお願いします。

  ①丸亀城  ②西長尾城  ③黄峰城

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しんちゃん

復元南門 (2025/01/02 訪問)

多賀城は国の特別史跡である古代城柵で、神亀元年(724)按察使・大野東人によって築造されたと伝わります。中央政権が蝦夷を支配するために築かれ、南の太宰府と並んで東北を支配するための一大拠点であったようです。
中心である、政庁跡は建物跡や築地跡などが整備され、南へ大路を進んでいくと復元された南門と築地塀があり、近くには多賀城碑があります。位置的に復元南門は外郭のもののようです。古代の城柵や国府、国分寺などは建物跡・礎石・柱跡ぐらいしか見る物が無いので、門を再現してあるとビジュアル的に映えますね。

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しんちゃん

丹沢城の支城? (2025/01/04 訪問)

徳丹城は胆沢城の築造後の弘仁3年(812)ごろに征夷将軍・文室綿麻呂によって築かれたとされています。30年以上続いた蝦夷との和平を目的として築かれたと現地案内板には書かれています。前年の10月には蝦夷を攻撃し、多数を殺害・降伏させたので戦後処理と統治を目的に築かれたということでしょうか。正規軍では無く中央政権に協力的な蝦夷の軍が配備されていたと考えられています。こうやって取り込まれていったわけですね。
現在は国道4号が縦断し、主要部や政庁跡は徳田小学校の敷地になっているようですが、見学は可能です。

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駿府城

駿府城VR寄附プロモーション動画 けやきプラザビジョンで放映中!

駿府城天守のVR映像制作プロジェクトを紹介するプロモーション動画が、静岡県最大級の大型LEDビジョンで放映されています!

◆放映期間:令和7年1月31日まで
◆放映場所:けやきプラザ(静岡市葵区伝馬町6-1)

現在、静岡市では駿府城公園やその周辺の歴史散策をもっと楽しめるよう、「駿府城天守の見える化」に向けたVR映像を制作するプロジェクトに取り組んでいます。この動画では、プロジェクトの概要や市長メッセージ、VR・ARイメージ映像を迫力ある大画面でご覧いただけます。さらに動画内のQRコードから寄附募集ページにもアクセス可能です!
歴史ある駿府城の新たな魅力をぜひ感じていただき、プロジェクト実現に向けたご寄附をよろしくお願いいたします。お近くにお越しの際は、ぜひ、けやきプラザビジョンの大迫力映像をお見逃しなく!

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トク

きれいな堀に感謝です (2025/01/19 訪問)

JR西小倉駅で降りて徒歩5分の所にある小倉城へ寄りました。

しかし本日ここでは、何やらマラソン大会(選抜女子駅伝)があるようで、間もなくスタートかテレビカメラもあり、一般者は入れないよう通行規制がなされていました。よって正面から天守を見上げ、急いで写真を撮ってすぐに退散しました。

帰り際にふと堀を覗くと、鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。そう言えば3年前に、「池の水ぜんぶ抜く」の番組のおかげで水堀はきれいになりました。以前は濁って草も多く鯉など全く見えなかったのですが、今では水面がきれいに反射する程で、泳いでいる鯉がよく見えて、逆に鯉の方から人間に寄ってくる程です。あれから今でもきれいに保たれているのにはちょっと感動しました。この泳いでいる鯉たちに代わり、テレビ東京とロンブー淳さんと管理されている小倉城の方々に、感謝申し上げます(笑)。

では、城のすぐ前にある西小倉駅前のバス停からバスに乗り、次の目的地へ向かいます。
 

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イオ

復興ところにより模擬 (2024/10/27 訪問)

南北朝期に南朝方として活動した岸和田氏が拠点とした城館(岸和田古城)を前身とし、戦国期に現在地に拠点を移して築城したと考えられます。その後は細川氏や三好氏のもとで松浦氏の城となり、織田信長の雑賀攻めの後は津田信張、次いで蜂屋頼隆が城主となりました。本能寺の変の後には羽柴秀吉が中村一氏を城主とし、小牧長久手の戦いの際に攻め寄せた紀州勢(根来衆・雑賀衆ら)を撃退しています。翌年の紀州攻めでは秀吉が岸和田城に入って周辺の紀州勢の城を攻略し、紀州平定後には小出秀政が城主となって五重の天守を建てるなど大改修しました。豊臣氏が滅亡すると、松平康重が入って外郭・防潮石垣・城下町・紀州街道を整備し、伏見櫓を移築して近世城郭として完成させました。そして江戸前期に岡部宣勝が入封すると、岡部氏が13代続いて明治を迎えています。

隣接する市役所には仕事で何度か来ていますが、ようやく登城することができました。近くの駐車場から大手櫓門を抜けてまずは本丸へ。櫓門に打ち付けられた鉄板は程よく錆びていて、復興ながら雰囲気があります。門をくぐった正面には岸和田城址碑があり、大正に立てられたものらしく全文漢字でした。本丸には岸和田城庭園として諸葛孔明(三国志)の八陣法をテーマにした「八陣の庭」が広がっています。諸葛孔明と岸和田城に何の関係が? と思わなくもないですが、八陣の庭越しに眺める天守はなかなか見栄えがしますし、天守にしてからが往時の五重を三重で復興したものなんですから、細かいことを言っても仕方ありませんね。

天守に連結された小天守から天守内に入城(大人300円)。続100名城スタンプを押すと天守1階展示室の常設展「岸和田藩と岡部家」を見学しました。駕籠以外は撮影禁止でしたが、岡部家歴代の藩主像に胴具足や陣羽織、所用の品々、描いた書画などが展示されていました。その他、様々な岸和田城図や積善寺城などをめぐった際に目にした「根来出城図」、「明智光秀公肖像画」に目を惹かれました。明智光秀公肖像画の原本は岸和田城から北東約600mの本徳寺に所蔵されていますが、通常非公開なので複製でも見られて良かったです。2階展示室では企画展「久米田寺と称名寺」が開催されていて、最上階には岸和田城のジオラマが展示され、高欄がめぐる展望台からは眼下に八陣の庭を俯瞰し、その先には城下町と大阪湾を見渡すことができます。天守を出ると、復興された多聞櫓と隅櫓に展示されている岸和田城と蛸地蔵絵巻のパネルを見学して、二の丸へ。

二の丸から内堀越しに本丸を眺めると、櫓門~土塀(背後に天守)~多聞櫓~隅櫓と見える全てが復興建物ですが、これはこれで見応えがありますね。かつて二の丸にあった二の丸御殿と伏見櫓は失われて広場になっています。北隅の伏見櫓跡には説明板が立てられているのみです。広場東隅に二の丸多聞と題した櫓風の建物がありますが、復興櫓ではなく模擬櫓のトイレでした。広場西隅にある なまこ塀の建物は心技館。趣のある武道場ですが、耐震性の問題から廃止が決まっているそうです。そして、南隅の観光交流センターでひと休み。展示されている火縄銃や岸和田藩の鉄砲関係の資料を見学して、石垣めぐりに向かいます(続く)。

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