延岡駅からバス「まちなか循環内回り」に乗り10分、「九電前・市役所西」(写真⑩)で下車するとそこが延岡城です。帰りは外回りが便利です。続100名城スタンプは二ノ丸管理事務所前にポツンと置かれていました(24時間押印可のようです)。
延岡は奈良・平安時代から800年間、土持氏が治めていましたが、土持氏が豊後大友氏に滅ぼされた後、秀吉の命で入った「高橋元種」(古処山城主:秋月種実の子)が総石垣造りで城を改修します。元種は九州の関ケ原では、東軍に寝返ったため所領は安堵されますが、その後に罪人を匿ったために改易。そして1613年には代わって「有馬直純」が延岡に入ります。直純の父は、あのキリシタン大名で有名な日野江城主「有馬晴信」です。晴信は「岡本大八事件」(賄賂)を起こし1612年に死罪となりますが、子の直純は幼い頃から徳川秀忠に仕えていたため改易は免れました。しかし島原の地に居づらくなったのか、翌1613年に自ら転封を願い出て、延岡15万石に移ります。そしてその生涯は苦渋の決断の連続でした。
不祥事で父を失っただけでなく、関ケ原後は小西行長の姪である妻と離縁し、自らはキリスト教を棄教します。しかし子らはどうしても棄教しないため、徳川から有馬家を守るため、仕方なく子らを惨殺してしまいます。そして1637年には幕府の命で延岡から島原の乱に出陣、そこでキリシタンである旧家臣や旧領民らと戦い、そして彼らをも惨殺してしまいました。有馬家を守るためとはいえ、いったいどんな気持ちだったのでしょうか? しかしその結果、有馬家は安泰となり三代70年間続く事ができました。
天守台に登ると延岡市街がとてもよく見渡せ、確かに五ヶ瀬川と大瀬川を天然の堀としているのがよく分かりました。そして西には高千穂の峰、東には日向灘まで見渡せ、その景色はとてもきれいでした(写真⑧⑨)。有馬時代の絵図には、この天守台に三重の望楼型の天守が描かれていたそうですが、発掘調査では瓦などは出土されなかったとか🤔?(写真⑦)。果たしてここに天守は本当にあったのでしょうか? これも興味深い話です。
私は高橋元種が築いたとされる「千人殺しの石垣」をじっと見つめてみました(写真④)。19mの高さの石垣は、この隅部(写真⑤)を外せば千人殺せる程の高石垣だと言われ、この名がついたようです。しかし私はこの石垣を見ていると、妻と離縁し、父をも見放し、子や旧家臣や旧領民らをも惨殺してしまった直純は、どんな思いでこの石垣を見つめていたのだろうか? 何故かそんな事をふと考えてしまいました🤔・・・
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