神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。
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2024/01/11 21:20
未完の城。 (2019/08/12 訪問)
神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。
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2022/10/14 22:34
田んぼ、神指、直江状 (2022/09/15 訪問)
会津ラストは駅前から電動自転車。のんびりこいで15分ほど。目の前にひたすら広がる収穫直前の田んぼ、田んぼ、田んぼ。その中にポツポツ見える小高い丘。この不自然な光景に思わず足を止めたあなたの城愛は相当なもの。
神指城(方形二輪の輪郭式平城)。と言っても目につくのは本丸土塁と二の丸四隅の土塁のみ。山に近く拡張が困難なうえ、守備にも不利だった若松城を嫌ったとされる直江兼続。北西に約4キロ離れた神指ヶ原に上杉家の大城郭を築こうとしましたが、家康の会津征伐への対応を余儀なくされたため普請は中断。関ヶ原後、上杉景勝が米沢に減知転封されたため、未完のまま終わりました。
面積は若松城の約2倍。川や運河から近く、完成すれば政治のみならず経済の中心としても機能していたはずです。蒲生氏郷亡き後、上杉家が奥羽の押さえとして120万石で会津に移ったのが1598年。一見、秀吉によって創業の地・越後春日山から引き剥がされたようにも見えますが、景勝・兼続主従がこの地を京や大坂、あるいは西の広島(毛利)に並ぶような“都市”にしようとした気概が見え隠れする遺構です。
さて、これを豊臣家への「謀反の準備」と言い張ったのが家康。そしてその指摘を世迷言と一笑に付したのが世に言う「直江状」であります。どちらかと言えば、後者を好意的に描く作品が多いように思います。
でもどうなんでしょう。これだけの大城郭を築いておけば、秀吉没後、情勢が再び乱れた際にキャスティングボードを握れる、というちょっと影が差した考えが、景勝にはなかったとしても、兼続の中に未必の故意に近い状態であったと考えるのが自然ではないでしょうか。田んぼの真ん中でふとそんなことを思うのでした。
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2022/07/09 08:47
2021/11/27 19:53
分類・構造 | 輪郭式平城 |
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築城主 | 上杉景勝 |
築城年 | 慶長5年(1600) |
主な城主 | なし(未完成) |
廃城年 | 慶長6年(1601) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀 |
再建造物 | 碑、説明板 |
住所 | 福島県会津若松市神指町中四合字高瀬 |
問い合わせ先 | 会津若松市観光課 |
問い合わせ先電話番号 | 0242-39-1251 |