会津ラストは駅前から電動自転車。のんびりこいで15分ほど。目の前にひたすら広がる収穫直前の田んぼ、田んぼ、田んぼ。その中にポツポツ見える小高い丘。この不自然な光景に思わず足を止めたあなたの城愛は相当なもの。
神指城(方形二輪の輪郭式平城)。と言っても目につくのは本丸土塁と二の丸四隅の土塁のみ。山に近く拡張が困難なうえ、守備にも不利だった若松城を嫌ったとされる直江兼続。北西に約4キロ離れた神指ヶ原に上杉家の大城郭を築こうとしましたが、家康の会津征伐への対応を余儀なくされたため普請は中断。関ヶ原後、上杉景勝が米沢に減知転封されたため、未完のまま終わりました。
面積は若松城の約2倍。川や運河から近く、完成すれば政治のみならず経済の中心としても機能していたはずです。蒲生氏郷亡き後、上杉家が奥羽の押さえとして120万石で会津に移ったのが1598年。一見、秀吉によって創業の地・越後春日山から引き剥がされたようにも見えますが、景勝・兼続主従がこの地を京や大坂、あるいは西の広島(毛利)に並ぶような“都市”にしようとした気概が見え隠れする遺構です。
さて、これを豊臣家への「謀反の準備」と言い張ったのが家康。そしてその指摘を世迷言と一笑に付したのが世に言う「直江状」であります。どちらかと言えば、後者を好意的に描く作品が多いように思います。
でもどうなんでしょう。これだけの大城郭を築いておけば、秀吉没後、情勢が再び乱れた際にキャスティングボードを握れる、というちょっと影が差した考えが、景勝にはなかったとしても、兼続の中に未必の故意に近い状態であったと考えるのが自然ではないでしょうか。田んぼの真ん中でふとそんなことを思うのでした。
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