こうざしじょう

神指城

福島県会津若松市


旧国名 : 陸奥

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北東隅櫓台と夕日
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夕日と神指城 (2025/06/18 訪問)

 JR七日町駅から徒歩45分ほど。若松―坂下間の路線バス「神指黒川」のバス停から徒歩20分です。
 越後から会津に移った上杉景勝が、会津若松城に代わる居城として慶長5年から重臣 直江兼続に普請を命じて築き始めた未完の城です。
 徳川家康の会津征伐で、築城は中止。その後、家康が関ケ原の戦いで勝利すると、上杉氏は会津から米沢へ減封処分となり、完成することなく廃城となりました。
 現在は、二の丸の土塁と本丸の土塁が残されていますが、多くが田んぼや私有地となっています。本丸跡の野球グラウンドそばの道路沿いに説明板が設置されています。大ケヤキがある二の丸の北東隅櫓台は、説明板と土塁上に東屋が設置されています。土塁上の東屋に行こうとしましたが、スズメバチが近くを飛んでいたので、東屋には行かず早めに退散しました。
 また神指城周辺は幕末の会津戦争の史跡も残されています。バス通りの国道252号線は旧越後街道で、交通の要衝であったこともあり、新政府軍と会津藩の戦闘が起きていたようです。二の丸南西の土塁遺構のそばの如来堂は、新選組殉難地となっています。明治元年(1868)年9月4日に如来堂に立てこもっていた新選組を新政府軍が攻撃し、新選組の多くが討死にした場所のようです。最寄りのバス停の「神指黒川」の近くには、中野竹子殉節之地があり、石像が立っています。

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幻の城 (2024/09/26 訪問)

 上杉景勝が築城を開始しましたが、徳川家康に上杉征伐の口実を与え、家康の会津征伐が間近に迫ったことから工事は中止となった幻の城です。鶴ヶ城の立地が山に近いことを危惧し、周囲が開けていて大川の水を利用できる神指原の地に築城をしようとしたと伝わっています。面積は鶴ヶ城の約2倍。完成すれば巨大城郭が出現するはずでした。土塁が所々残っています。今回は説明板と土塁が残る高瀬の大木(ケヤキ)へ行って来ました。地元の方の話では本丸は立入禁止になっているとのことでした。

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ぎりょう

景勝会津治世の夢の跡 (2024/05/12 訪問)

久しぶりに兄姉たちと会津若松方面に出掛けました。温泉と観光が目的の家族旅行なのですが、私としては名所訪問の合間に城館跡への立ち寄りを考えていました。一日目の主たる見学地を湯川村の勝常寺(平安初期の開山で重要文化財指定の元講堂と仏像十二体を有する古刹)としていたため、その途中で神指城を訪問しました。
会津盆地の南側中央に位置する神指町にあった上杉景勝時代の城郭跡です。中世の長い期間、会津は葦名氏が治めた場所で、古くから会津黒川城(後の会津若松城)が利用されていました。伊達政宗により葦名氏が滅亡、会津は一時伊達領となるのですが秀吉の奥州仕置きにより蒲生氏郷が、その後の慶長三年(1598)には上杉景勝が120万石で配されます。景勝は黒川城が手狭であったことから、慶長五年三月に、黒川城から北西4kmの神指ヶ原に新城を築き始めます。会津周辺や仙道、越後から八万人もの作業者を動員して本丸、二ノ丸を築きますが、中央の情勢変化により六月には工事は中断、関ヶ原戦後の米沢移封により廃城となったといいます。
かつての城地は圃場整備により見渡す限り田んぼとなり、わずかに残る本丸と二ノ丸の土塁に、会津治世の新たな拠点をと夢見た景勝の思いが偲ばれます。

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しんちゃん

未完の城。 (2019/08/12 訪問)

神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。

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城郭情報

分類・構造 輪郭式平城
築城主 上杉景勝
築城年 慶長5年(1600)
主な城主 なし(未完成)
廃城年 慶長6年(1601)
遺構 曲輪、土塁、横堀
再建造物 碑、説明板
住所 福島県会津若松市神指町中四合字高瀬
問い合わせ先 会津若松市観光課
問い合わせ先電話番号 0242-39-1251