こうざしじょう

神指城

福島県会津若松市


旧国名 : 陸奥

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二ノ丸北東土塁
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ぎりょう

景勝会津治世の夢の跡 (2024/05/12 訪問)

久しぶりに兄姉たちと会津若松方面に出掛けました。温泉と観光が目的の家族旅行なのですが、私としては名所訪問の合間に城館跡への立ち寄りを考えていました。一日目の主たる見学地を湯川村の勝常寺(平安初期の開山で重要文化財指定の元講堂と仏像十二体を有する古刹)としていたため、その途中で神指城を訪問しました。
会津盆地の南側中央に位置する神指町にあった上杉景勝時代の城郭跡です。中世の長い期間、会津は葦名氏が治めた場所で、古くから会津黒川城(後の会津若松城)が利用されていました。伊達政宗により葦名氏が滅亡、会津は一時伊達領となるのですが秀吉の奥州仕置きにより蒲生氏郷が、その後の慶長三年(1598)には上杉景勝が120万石で配されます。景勝は黒川城が手狭であったことから、慶長五年三月に、黒川城から北西4kmの神指ヶ原に新城を築き始めます。会津周辺や仙道、越後から八万人もの作業者を動員して本丸、二ノ丸を築きますが、中央の情勢変化により六月には工事は中断、関ヶ原戦後の米沢移封により廃城となったといいます。
かつての城地は圃場整備により見渡す限り田んぼとなり、わずかに残る本丸と二ノ丸の土塁に、会津治世の新たな拠点をと夢見た景勝の思いが偲ばれます。

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しんちゃん

未完の城。 (2019/08/12 訪問)

神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。

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AJ

田んぼ、神指、直江状 (2022/09/15 訪問)

会津ラストは駅前から電動自転車。のんびりこいで15分ほど。目の前にひたすら広がる収穫直前の田んぼ、田んぼ、田んぼ。その中にポツポツ見える小高い丘。この不自然な光景に思わず足を止めたあなたの城愛は相当なもの。

神指城(方形二輪の輪郭式平城)。と言っても目につくのは本丸土塁と二の丸四隅の土塁のみ。山に近く拡張が困難なうえ、守備にも不利だった若松城を嫌ったとされる直江兼続。北西に約4キロ離れた神指ヶ原に上杉家の大城郭を築こうとしましたが、家康の会津征伐への対応を余儀なくされたため普請は中断。関ヶ原後、上杉景勝が米沢に減知転封されたため、未完のまま終わりました。

面積は若松城の約2倍。川や運河から近く、完成すれば政治のみならず経済の中心としても機能していたはずです。蒲生氏郷亡き後、上杉家が奥羽の押さえとして120万石で会津に移ったのが1598年。一見、秀吉によって創業の地・越後春日山から引き剥がされたようにも見えますが、景勝・兼続主従がこの地を京や大坂、あるいは西の広島(毛利)に並ぶような“都市”にしようとした気概が見え隠れする遺構です。

さて、これを豊臣家への「謀反の準備」と言い張ったのが家康。そしてその指摘を世迷言と一笑に付したのが世に言う「直江状」であります。どちらかと言えば、後者を好意的に描く作品が多いように思います。

でもどうなんでしょう。これだけの大城郭を築いておけば、秀吉没後、情勢が再び乱れた際にキャスティングボードを握れる、というちょっと影が差した考えが、景勝にはなかったとしても、兼続の中に未必の故意に近い状態であったと考えるのが自然ではないでしょうか。田んぼの真ん中でふとそんなことを思うのでした。

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響ちゃん

神指城跡 (2022/06/25 訪問)

コインランドリーで靴を乾かしている間に寄ってみたぽい。サンダルなので近くで見学だけっぽぃ

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城郭情報

分類・構造 輪郭式平城
築城主 上杉景勝
築城年 慶長5年(1600)
主な城主 なし(未完成)
廃城年 慶長6年(1601)
遺構 曲輪、土塁、横堀
再建造物 碑、説明板
住所 福島県会津若松市神指町中四合字高瀬
問い合わせ先 会津若松市観光課
問い合わせ先電話番号 0242-39-1251