がくでんじょう

楽田城

愛知県犬山市


旧国名 : 尾張

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岩崎山砦跡の石碑と説明板
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イオ

小牧長久手の戦いの砦めぐり(岩崎山砦・田中砦・二重堀砦) (2025/06/01 訪問)

(続き)

岩崎山砦(小牧市岩崎)
熊野神社が建つ岩崎山に築かれた砦で、稲葉一鉄・貞道らが4千の兵で守ったとされます。南西麓の岩崎中会館の前に岩崎山砦跡の石碑と説明板が立てられていました。岩崎山の頂部からは小牧山城をすぐ近くに望むことができます。また岩崎山は花崗岩の岩山であるため、名古屋城石垣の石切場になっていて、矢穴のある石も見られました。

田中砦(小牧市東田中)
三ツ山古墳群の三基の古墳を利用して築かれた砦で、堀長政、蒲生氏郷、加藤光泰らが1万3千の兵で守ったとされます。三基の古墳のうち南端の三号墳のみが現存し、北裾に田中砦跡の石碑と説明板が立てられています。往時は岩崎山砦から田中砦を経て二重堀砦まで土塁が築かれていたようですが、現在では痕跡も見られません。

二重堀砦(小牧市二重堀)
小牧山城に最も近い最前線の砦で、日根野弘就らが2千の兵で守ったとされます。二重堀の地名が残る住宅地の一角に日根野備中守弘就砦跡の石碑が立てられていますが、現在地に移設されたものであり、遺構は耕地整理により消滅していて砦の所在地も不明のようです。

さて、この後は小牧山城に攻め込むつもりでしたが、6つの砦めぐりに思いのほか時間を要したため、またの機会に徳川軍の砦と一緒にめぐることにして、金龍紀行の一環として別の機会に行く予定だった清洲城に行先変更。犬山城や青塚砦は昨年に登城済みなので、これで城びとの記事で紹介されていた楽田城周辺の羽柴軍の城や砦は全部行けたよな、と思って帰宅して記事を読み返してみると…小口城を見落としてた~っ! 清洲城より小口城に行くべきでした…やれやれ(この日二度目)。
 

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イオ

小牧長久手の戦いの砦めぐり(内久保砦・久保山砦・小松寺山砦) (2025/06/01 訪問)

犬山城から楽田城に移った羽柴秀吉は、徳川家康が籠る小牧山城と対峙するため、楽田城の周囲に多くの砦を築いています。城びとの記事「秀吉VS.家康 小牧・長久手の戦いを知る」を読んで以来、いつか行ってみたいと思っていましたが、その中に金森長近が守将となった砦もあるようなので、金龍紀行も兼ねて小牧長久手の戦いの砦めぐりです。

内久保砦(犬山市内久保)
三明神社のあたりが砦跡とされ、蜂屋頼隆、金森長近らが3千の兵で守ったとされます。参道に内久保砦ののぼり旗が立てられていましたが、遺構はもとより石碑や説明板も見受けられませんでした。

久保山砦(小牧市久保一色)
外久保砦とも。熊野神社と裏山が砦跡とされ、丹羽長秀が守ったとされます。社殿の左脇に久保山砦の説明板が、左手から裏山に続く道沿いに石碑が立てられています。長久手の戦いの後には秀吉が楽田城から久保山砦に移って全軍を指揮したと伝わることから太閤山とも呼ばれ、頂部には豊臣軍ののぼり旗が翻り、秀吉の本陣風に整備されていました。砦跡の西側斜面には二重の竪堀状の地形が見られますが、久保山砦の遺構でしょうか?

小松寺山砦(小牧市小松寺)
小松寺山一帯に東西2か所の砦が築かれ、三好秀次、丹羽長重(長秀とも)らが守ったとされます。東砦は住宅地となって何の痕跡も見られませんが、西砦は小松寺の数段の削平地が砦跡のようです。本堂東側上段の八所社・熊野社合殿の手前に小松寺山砦の説明板と石碑があり、背後には土塁っぽい地形が見られました。小松寺山砦の遺構…かなぁ?

(続く)
 

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イオ

石碑めぐり (2025/06/01 訪問)

戦国前期に織田久長が築いた城で、織田信清に攻められて犬山城の支城となりましたが、信清が織田信長により犬山城を追われると坂井政尚が入り、政尚が討死した後は梶川高盛が城主となっています。小牧長久手の戦いでは堀秀政が守将を務め、後に羽柴秀吉の本陣となり、戦後に廃城となりました。文献上最も古い殿守(天守)の記述が見られる城としても知られます。

主郭は楽田小学校になっていて遺構はほとんどありませんが、周辺に門跡の石碑がいくつかあるようなので、小学校と図書館の駐車場から折りたたみ自転車で登城開始。門を出たところに楽田城跡の説明板と盛土の上に楽田城址の石碑が立てられています。説明板の周辺図で見るに盛土は主郭西辺の土塁の名残と思われます。

周囲の道は小学校より一段低くなっていて堀跡と考えられます(不自然に曲がっていたりもします)。小学校から北に約100mの須賀神社は周囲より一段高くなっていて、楽田城小城址(須賀神社)の石碑が立てられています。堀をはさんだ出丸でしょうか。小城址から北北東に約200mの駐車場脇には裏門旧跡の石碑が、裏門から西に約400mの石仏群のそばには北之門旧跡の石碑が、北之門から南に約580mの烏杜天神社には南門旧跡の石碑が立てられています。

車に戻って、楽田城周辺の小牧長久手の戦いの砦めぐりに行く前に常福寺に立ち寄りました。楽田城の裏門が移築されていたようですが、キンヤさんによれば撤去されているとのこと。無いなら行っても仕方ないんですが、今も無いことを確認しようと思っていたら…あるやん! 修復が終わって再建されたとかなのかな、と思って帰宅してからキンヤさんの投稿を読み返してみると…二つ目の門?? ひとつ目の山門を移築門と勘違いして大喜び、二つ目の門を確認しようともしていませんでした。やれやれ…。
 

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小城小次郎

小牧長久手と最古の天守 (2024/08/18 訪問)

小牧長久手の戦いの舞台として、またかつては日本最古の天守かと騒がれて知る人ぞ知るお城だが主郭は小学校にまるっと飲み込まれている。でも周囲との高低差が際立ちお城らしさはふんだんに漂っている(と感じた)。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 殿守[2重/1558年築/破却(廃城)]
築城主 織田久長
築城年 永正年間(1504〜1521)
主な城主 織田氏、坂井政尚、梶川高盛、堀氏
遺構 移築門?(常福寺)、土塁
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県犬山市城山