清武城は周囲に宅地のある丘陵上に築かれていました。ある程度近くまで車で寄った後、広めのスペースに駐車し、城址には歩いて向かいます。最高部が主郭で、案内の標識もあるので迷うことはありません。道中の民家には立派な土塁も残っています。
主郭の周囲に郭を配し、住宅地や農地などに転用されているようです。それ以外の遺構は民家脇の土塁が残っているようです。
伊東氏48城の中でも重きをなす城で、文安3年(1446)都於群城主となった11代祐尭は四方に勢力を拡大し、日知屋・門川・清武・田野の伊東氏族を吸収し、戦国時代になると日向平定を目指し、土持氏を延岡まで追いやり、島津氏と対峙しました。
文明17年(1485)飫肥の島津攻撃に出陣する子の祐国を見送った後、祐尭は清武城で病死しています。清武城の北の道路わきには伊東祐尭公の墓所があります。
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