とよおかじょう

豊岡城

兵庫県豊岡市

別名 : 亀城、木崎城、城崎城
旧国名 : 但馬

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豊岡陣屋跡(豊岡市立図書館本館)
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イオ

豊岡陣屋(兵庫県豊岡市京町) (2024/09/08 訪問)

豊岡陣屋(城びと未登録)は、江戸前期に丹後国・田辺から入封した京極高盛が豊岡城北麓の居館跡に築いた陣屋で、減封されつつも京極氏のもとで明治まで存続しましたが、廃藩置県により豊岡陣屋跡には豊岡県庁が置かれました。

豊岡城に続いては豊岡陣屋へ。陣屋跡は図書館になっていて、説明板が立てられているくらいで陣屋自体の遺構は見られませんが、図書館南側には藩主京極家の屋敷が遺っています。東側の豪壮な薬医門は旧豊岡県庁の正門(旧久美浜県庁から移築)であり、豊岡陣屋の遺構ではありません。豊岡陣屋の門は市内3か所に移築されていて、長松寺(豊岡市下鶴井)と慈等寺(豊岡市三宅)の山門は確認しましたが、福成寺(豊岡市出石町内町)の表門は未確認です。近いうちに出石城・有子山城とあわせて訪れたいものです。また、Google Mapによれば図書館北西のめぐみ公園にも旧豊岡藩庁門とされる門があります。

豊岡といえば大石内蔵助の妻・りくの出身地としても知られますが、図書館から東に約100mには大石陸女生誕之地の石碑と説明板が立てられています。りくの実家は豊岡藩筆頭家老の石束家であり、藩主の隣に屋敷を構えていることから考えても、やはり赤穂藩筆頭家老の大石家に釣り合う家柄の出身なんだなぁ、と妙に感心してしまいました。りくは内蔵助と離縁して豊岡に戻った後、三男・大三郎の浅野本家仕官に伴って広島に移り、広島の国泰寺に葬られていますが、豊岡の正福寺(豊岡市梶原)には豊岡で早逝した長女・くうと二男・吉千代の墓と並んでりくの遺髪塚が祀られています。6月に泉岳寺で内蔵助と主税のお墓にお参りしているので、こちらでも手を合わせてきました。正福寺の麓には大石りく像と顕彰碑も建てられています。
 

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イオ

整備された公園?? (2024/09/08 訪問)

室町中期に山名持豊が此隅山城の出城として亀山に築いた城崎城を前身とし、羽柴秀吉が但馬国を平定すると宮部継潤が入って城と城下を改修・整備し、名を豊岡と改めました。宮部継潤が鳥取城に移った後は次々と城主が入れ替わり、杵築から入封した杉原氏が三代続くも江戸前期に無嗣断絶により改易され、豊岡城も廃城となりました。

北麓の豊岡市立図書館駐車場から登城開始。亀山(明治に神武山と改名)の頂部に本丸、西下に笠の丸、北下に萩の丸、東下に階段状に曲輪群を配した連郭式山城で、城跡は神武山公園として整備されている…はずなんですが、時季的に草木が生い茂るのはやむを得ないとしても、この夏の間ほとんど草刈りされてないんじゃないかと思えるほどの伸び盛りぶりでした。本丸には天守台や石垣もあったようですが、天守台跡に標柱と説明板が立てられているのみで、いずれも失われています。説明板の絵図によれば、笠の丸の南東下には竪堀があったようですが、藪に沈んでいて全くわかりません。さらには笠の丸から萩の丸へ続く(はずの)遊歩道は倒木で進めませんでした…。東下の階段状の曲輪群は遊歩道から確認できましたが、こちらも藪に覆われてかろうじて曲輪の形状がわかる程度でした。

よく整備された公園だろうからとTシャツにスニーカーの軽装で登城したため、藪には踏み込めず倒木を乗り越えて進むこともできずで往生させられました。いくら公園化されていても、やはり平山城にはそれなりの装いで臨まないといけませんね。
 

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前ちゃん

JR、駅から城巡りスタンプラリー (2024/08/06 訪問)

JRのウエスタの企画「駅から城巡りスタンプラリー」ついでに登城!遺構はなし公園です。

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todo94

神武山公園 (2023/11/25 訪問)

豊岡に泊をとり、朝駆けにて攻城いたしました。豊岡市図書館は陣屋跡で豊岡県庁表門が現存しています。豊岡城は、神武山公園として整備されています。案内図の中の笠の丸にある配水塔はすでに撤去されていて土壇のみが残っています。これは城の遺構ではないと思いますけれども。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 山名持豊
築城年 室町時代
主な改修者 宮部継潤
主な城主 山名氏、宮部氏、木下氏、尾藤氏、福原氏、杉原氏、京極氏
遺構 曲輪
再建造物 碑、説明板
住所 兵庫県豊岡市京町(神武山公園)
問い合わせ先 兵庫県立考古博物館
問い合わせ先電話番号 079-437-5589