あおちじょう

青地城

滋賀県草津市

別名 : 部田城
旧国名 : 近江

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中郭と南郭間の堀切
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イオ

見応えある遺構をお手軽に (2025/05/04 訪問)

青地氏代々の居城で、築城時期は鎌倉期とも室町期ともいわれます。青地氏は六角氏の有力家臣として郡奉行を務めましたが、織田信長の近江侵攻では信長に従い、本能寺の変の後は明智光秀に与したとの疑惑により青地城を追われ、廃城となりました。

小槻神社の駐車場から登城開始。青地城は南北に続く丘陵に三つの曲輪が連なる縄張で、小槻神社から北に少し行ったところから右手の丘陵に取り付くと、中郭と南郭間の堀切に至ります。幅も高さもある巨大な堀切で、思わず声が出てしまいました。堀切の東端では丘陵の東麓を流れる小川を水堀としています。堀切を南側によじ登ったところが南郭です。北側が一段高く、南半分を土塁がめぐっています。

堀切に戻って今度は中郭へ。中郭は東~南~西の三方を分厚く高い土塁で囲んでいて、青地城の石碑や青地城主(青地氏)の墓所がありました。中郭の北には主郭があったようですが、小学校の敷地になっていて遺構はなさそうです(立ち入りもできませんが)。主郭の北から北東にかけては城池と呼ばれる二つのため池を堀代わりにしていたようで、北側の城池はおおむね遺っていますが、北東側の城池は埋め立てられて小学校の駐車場になっています。二つの城池の間の土橋は現在も小学校への道として活用されていて、門の手前に青地城跡の説明板が掲示されていました。

城跡の半分以上は失われているものの、見応えのある堀切や土塁を30分あまりでお手軽に見て回れるのは魅力ですね。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):青地城 (2024/10/09 訪問)

最終日の今日は本日中に自宅に戻る為、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
草津駅バス停から帝産湖南交通バスを利用して、志津小学校前バス停へ向かいました。
志津小学校前バス停から、草津市立志津小学校の北側にある池の説明板付近(35.004061、135.977125)➡小槻神社(35.001334、135.976832)の順番で廻りました。

青地城の築城は古く、鎌倉時代まで遡り、もともと在地の土豪だった小槻氏を祖に持ち、後に近江守護職の佐々木氏一族・馬淵氏の養子となって青地氏を名乗った青地左衛門尉忠綱が築城・城主となったと考えられているそうです。
ただ築城の時期に関しては諸説あるようですが、青地氏は佐々木七騎の一人として強大な力を持っていたともいわれています。
織田信長によって主君の佐々木氏が滅ぼされた後、青地氏は信長側につき戦国の世を生き延びていったようですが、青地城は1573年(天正元年)頃には廃城になったと考えられているそうです。
信長亡き後は、豊臣秀吉方につき、前田利家、豊臣秀次の家臣に入りますが、この秀次が切腹させられた後は、歴史の表舞台からは身を引いたそうです。

志津小学校と小槻神社の間に土塁、堀などの遺構が残っています
志津小学校の北側の池も堀跡なんでしょうね。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=金ケ森城を目指す為、志津小学校前バス停から帝産湖南交通バス➡JRを乗り継ぎ、守山駅へ向かいました。

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しんちゃん

昨日のジョー(不完全燃焼) (2024/02/11 訪問)

青地城は志津小学校や小槻神社のあたりが城址とされています。城址北側の神明宮から志津小学校、小槻神社と訪問し、神社背後の丘陵も散策させていただきました。小槻神社の北側が堀跡と見られますが、城址碑を確認していないので、遺構をいくつか見落としているみたいですね。こんなときは‥てへぺろってやつです。できるだけレビューは見ておいた方がよいですね。

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todo94

近江の城めぐり② (2024/03/09 訪問)

石山寺からの転戦です。小槻神社に駐車させていただきましたが、その横に見事な空堀と土塁が続いていました。先に進んで土塁を乗り越えたところに城址碑がありました。周囲を一通り回ってみましたが、説明板は志津小学校校門前にありました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 青地忠綱
築城年 鎌倉時代前期
主な城主 青地氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 滋賀県草津市青地町
問い合わせ先 草津市教育委員会事務局文化財保護課調査・保護グループ
問い合わせ先電話番号 077-561-2324