牛岐城は現在牛岐城址公園になっていますが、遺構の大半は
開発によって消滅しています。
石垣の一部が牛岐城址館の中に保存されていて、
公園の管理人に頼むと中を見学させてもらえます。
牛岐領には観応2年に足利義詮の家臣安宅氏が入りましたが
南朝方に与したが破れ、阿波守護細川頼之家臣、新開氏が
牛岐に入ったと伝わります。後に長宗我部氏の軍門に下りますが、
このころには牛岐城の記述がみられます。土佐物語にも牛岐城の
記述が見られるようです。長宗我部氏は自らの軍門に下り、従軍していた
武将にも信頼を置かなかったらしく、新開道善入道は丈六寺へおびき出され
謀殺され、今でも血天井が残っています。
一宮城主、一宮成助も翌11月7日に夷山城で弟、一宮主計頭・家臣星合六之進と
共に謀殺されています。道善嫡子式部少輔、道善甥の新開右近、桑野河内守、野田采女正、
河内駿河守も相次いで殺されています。
しかし天正13年、豊臣軍による四国侵攻で長宗我部氏の勢力は牛岐城を追われ土佐へ
退いていきました。
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