なるみじょう

鳴海城

愛知県名古屋市

別名 : 根古屋城
旧国名 : 尾張

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現状 天神社
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しんちゃん

城主 岡部元信はひとくせふたくせ有りそう。人生これ戦いなり。駿河武士の鑑 (2019/04/07 訪問)

桶狭間の合戦のさい、今川側の岡部元信が城主を務めていた城です。
この岡部さん なかなか濃い人で大河「どうする家康」でも人情味のある今川方の武将として
ちらっと出ていましたね。
主君 今川義元の首級と引き換えに城を開城し、御首を輿にのせ
ゆうゆうと退去したまでは良かったのですが、そのあと武将としての悪い癖が出て
刈谷城を攻めて水野信近を討ち取ったりしてるうちに首の腐敗が進んでしまって
やむをえず西尾の東向寺に御首を葬っていったらしいです。
実直な人物ですが、いささか不器用なところがありますね。
主郭は現状 公園になっているようですが写真を取り損ねました。
天神社に城跡の説明と城址碑が立っています。


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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:鳴海城 (2022/08/03 訪問)

善照寺砦跡の砦公園から10分弱歩き、天神社の由来説明板付近(35.081249、136.951363)に着きました。その後、鳴海城跡公園に向かいました。

鳴海砦は室町時代の応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれたそうです。
歴史上、自分が知っているのは桶狭間で今川義元本体が敗北した後も信長に抵抗し続けた岡部元信が、主君・義元の首級と引き換えに城を明け渡した話です。
岡部元信は鳴海城を明け渡し駿府へ帰還する途中、刈谷城を落とした剛の者で、今川没落後は武田信玄/勝頼に仕え、天正9年(1581年)の高天神城の戦いにおいて戦死しました。享年70歳近かったそうです。

そういえば、岡部元信は「信長の野望」のゲームでも政治力は低かったけど統率や武勇は高かったと記憶しています。(ここ10年くらい?ゲームをしていないので、評価は不明)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丹下砦を徒歩で目指します。

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にのまる

6/12城目 (2022/05/20 訪問)

星崎城からひと駅2分なので電車に乗るほどでもないなと思い歩いたら意外と遠かったです。
ここからラストまでの桶狭間2城5砦は歩いて実感することが目的なので、鳴海城跡公園への最後の上り坂はきつくもありうれしくもありでした。
天神社の城碑を確認し、丹下砦へ向かいました。

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今川氏の重要拠点 (2022/05/06 訪問)

鳴海城は、いつ寝返るのか分からない外様の山口氏から今川氏の重臣である岡部元信に城主が変更され、今川氏の重要拠点となりました。
これに対し、織田信長は、1559年頃に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築きました。
1560年に、桶狭間の戦いが始まって、今川軍は鳴海城に付けられた三砦の排除を残すのみとなり作戦は順調でした。
しかしながら、今川本陣を織田本隊が強襲して、総大将今川義元が討ち取られ今川軍は総崩れとなってしまった。
それでもまだ鳴海城は無傷でした。
そこで、織田信長との交渉の結果、岡部元信は今川義元の首級と引き換えに城を明け渡すと云う条件を呑み、遂に鳴海城は織田信長の手に落ちました。
その後、佐久間信盛、信栄父子が城主を勤めて、天正末期に廃城と成りました。
因みに、鳴海城は別名根古屋城と云います。
城の規模は、一定しておりませんが、丘陵の西に立つ東西に長い城郭であったようです。
現在城のある場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から天神社のある東の小さな高台あたりと推察されます。
天神社の境内に碑が立っています。
それほどはっきりとした遺構は残っていないが、公園の近辺に土塁状の地形が存在致します。



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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 安原宗範
築城年 応永元年(1394)
主な城主 安原氏、山口氏、岡部氏、佐久間氏
廃城年 天正年間(1573〜1592)?
遺構 曲輪、横堀
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県名古屋市緑区鳴海町字根古屋
問い合わせ先 名古屋市緑区役所まちづくり推進室
問い合わせ先電話番号 052-625-3876