かもうじょう

蒲生城

鹿児島県姶良市

別名 : 竜ヶ城、龍ヶ城、本城
旧国名 : 大隅

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いらっしゃい
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しんちゃん

「がもう」じゃなくて「かもう」 (2025/05/08 訪問)

蒲生城は標高160mの龍ヶ山の丘陵を利用した、周囲8km余りの県内有数の大規模城郭とされています。二の丸近くに駐車場があり、そこまで車で行くことが出来ます。二の丸から北上して行くと馬場跡にいたり、そこから本丸に入ります。本丸は五段の連郭になっていますが、整備されているのは一部で、残りはヤブになっています。最北の段を本丸の主要部として、その北側に土塁が残っています。
本丸と二の丸を仕切る道の周囲は断崖絶壁となっており、かなりの高さがありました。
保安4年(1123)宇佐八幡宮の留守職・藤原教清の子・舜清によって築かれたとされています。その子孫は蒲生姓を称し、18代範清の時に菱刈重豊の支援を得て島津貴久しますが、島津義弘の奮戦で重豊は自刃し、範清は城に火を放って祁答院氏を頼って逃れました。
これで430余年にわたる蒲生氏の支配は終わりを告げ、あとには比志島美濃守が地頭として入りました。

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零汰

その先に行ってみた (2019/12/03 訪問)

以前どこかの教授がこちらの城郭を鹿児島城郭ランキング2位と推している城郭関連本か記事を目にしました。教授が推すのだからきっと見どころのある城郭だろうと県内の名続100との違いも考えながら攻城しました。

周辺の山一帯が城域でとても広いです。整備のされている範囲は駐車場付近の本丸までの限られた場所だけ。本丸東の馬場跡の南側に本丸から続く高い土塁の間にポッカリ空いた堀切(虎口と言うべきか?)が有ったのでその先に行ってみた。案内板でいう蔵ノ城と呼ばれる場所です。駐車場から整備された範囲と蔵ノ城を含めて3.2km・累計高低差190m・2時間20分程の攻城です。なお、整備された範囲は先輩のレポートがあるので省き、倉ノ城と呼ばれる範囲だけの写真となります。

結論から言いますと、整備された入口周辺の遺構とは様子が違い、天然の浸食谷を幾つも利用し石は使われていない土の山城です。鹿児島でよく見られる荒々しくワイルドな堀切や堀切道が施されており遺構はほぼ揃っています。道に迷う事も有りませんが、特徴的で警戒すべきは二股に分かれた堀切道、隼人族の居城でも驚かされた片方が崖に落ちる仕掛け。時には折れ曲がって見えない先は崖だったりと。行かれる方は二股の道に出くわしましたら十分ご注意下さい。

初めの教授のランキングの件、好き嫌いが分かれるのかと、必然的に名続100との違いは万人向けではないだろう、フェイク堀切とか歴史的背景など。私はメジャーマイナー拘らずに浪漫の欠片探し大好きなのでビビリながらもとても楽しめて都合2度行きました。

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todo94

磨崖梵字 (2007/05/12 訪問)

2005年にこのマイナーな城を訪れたのは週刊司馬遼太郎「街道をゆく」肥薩のみちに載っていたから。写真が載っていた磨崖梵字が妙に印象的だったのだ。フィールドアスレチック様の展望台からの眺めがなかなか良い二の丸や整備の手が全く入っておらず立ち入ることのできない本丸に沿って一通り歩いてから磨崖梵字へも足を伸ばした。ところがこちらは2年前とは大分様相を異にしていて雑草が繁茂し立ち入ることがかなり困難な状態に成り果てていた。磨崖梵字は見栄えのするものではないので、このまま埋もれていってしまう危険性がかなりあるように思える。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 蒲生舜清
築城年 保安4年(1123)
主な城主 蒲生氏、比志島国真(島津氏家臣)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、枡形虎口
再建造物 石碑、説明板
住所 鹿児島県姶良市蒲生町久末、迫上他
問い合わせ先 姶良市商工観光課商工観光係
問い合わせ先電話番号 0995-66-3111