沓掛城は本丸が芝生広場として整備されていて周囲に空堀(内堀)が残っています。城址公園としても良く整備されていて、西の諏訪曲輪との間は橋で行き来することが出来ます。南の二の丸は東側が駐車場になっており大手門跡を経て本丸と繋がっています。かつてはここに丸馬出があったようです。大規模な内堀跡は西側が紫陽花、東側が菖蒲/燕子花の畑として有効に活用されているようです。
沓掛城の始まりは14世紀ごろに近藤宗光が初代城主としてこの地に居住したことに始まります。後の近藤氏は今川義元に従い、桶狭間の合戦の2日前には義元が沓掛城に着陣したと「信長広記」には記されているようです。義元戦死の2日後、永禄3年(1560)5月21日には9代目城主の近藤九十郎景春が戦死したそうです。
後の城主、川口久助は関ヶ原の合戦の際に西軍に味方し、敗戦後は流罪とされ城は廃城になったそうです。
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