くつかけじょう

沓掛城

愛知県豊明市

別名 : 沓懸城
旧国名 : 尾張

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石碑と説明板
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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:沓掛城 (2025/05/16 訪問)

二村台七丁目バス停から徒歩15分くらいで、沓掛城址公園入口(35.069562、137.021652)に着きました。

14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、1560年(永禄3年)桶狭間合戦では前日に今川義元が入城し、織田攻撃の準備をした城と伝えられています。
「桶狭間の戦い」後には織田信長より勲功一番と称された簗田政綱の居城となりました。
慶長年間(1596-1615)に廃城になったようです。

沓掛城址公園として綺麗に整備されており、本丸を囲む空堀と土塁の遺構が素晴らしい。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=28030歩、歩行距離=19.6Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、前後駅から電車で豊橋駅に向かい、コインロッカーから荷物を取り出した後、大垣駅に向かいました。

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T-Shionoya

沓掛城で朝散歩 (2025/04/05 訪問)

桜が咲く朝に訪れた愛知県豊明市の沓掛城。

中世の東海道が通るポイントで、なだらかな二村山(標高約70mの丘陵)の東麓に位置。
尾張と三河の国境にあたり、人や物資の往来も監視していたでしょうか。
江戸期の古城絵図に描かれた丸馬出も気になる城。

築城時期は諸説あるようだが、一説では14世紀からの近藤氏の居城。
1560年の桶狭間の際、城主近藤景春は今川方につき討死。決戦の前日に今川義元が軍議を開いた城と伝わります。
桶狭間の後は、信長に今川義元の居場所を知らせたともいわれる簗田政綱などが城主となり、関ケ原の戦いの後に廃城とのこと。

現在は、三の丸などは宅地化されているが、本丸とその周辺は沓掛城址公園として整備された地域の憩の場。

1年前の桜の時期は駐車場が満車だったため、今年は朝に訪問し、公園内とその周辺を散策。
本丸を取り囲む堀と南側に設置された土橋はキレイなもの。
諏訪曲輪は他より1段高く、守り神が祀られた以外に見張り台の役割も担ったような印象。
公園外では、僅かな面影はあるものの、城郭遺構はほぼ皆無。

1時間少々滞在し、朝に紅茶とスコーンを頂いた気分になれた、私の城郭巡りの201城目でした。

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朝田 辰兵衛

「今川焼(feat.よしもと)」売り出さないかな… (2025/03/21 訪問)

熱烈今川義元ファンを逆なでするような「今川焼(feat.よしもと)」をここで売ってたら面白いゾ。片面はお侍ちゃんの似顔絵。もう片面は今川家の家紋。「面白い恋人」を発売するノリで…。
ちょっと前の「今川焼」「大判焼」談義で出せればよかったなぁ。

しんちゃんさんがイラストを描きそうな予感…。

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ぴーかる

沓掛城 (2024/05/11 訪問)

【沓掛城】
<駐車場他>沓掛城址公園駐車場 北に8台、南に2台分あり。公園にトイレと自販機あり。
<交通手段>車

<見所>堀
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅3城目。現地説明板によると沓掛城は14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、室町時代を通して近藤氏が城主としていました。9代目の近藤景春は今川方に属し桶狭間の戦い直前には今川義元はこの城に入城し軍評定を行い出立します。その後、桶狭間にて今川義元が討死すると城主の近藤景春は沓掛城に戻りますが織田勢の攻撃を受け落城、討死します。織田方の城となってからは簗田政綱に城を与えられ⇒織田信照⇒川口宗勝は関ケ原の戦いで西軍に付いたため、戦後城は接収され廃城となりました。
 現地は主郭部分が明瞭に残っており、主郭と主郭を囲む堀と北西部にある土塁と曲輪が見られます。現地説明板にある古城絵図には二の丸内部に馬出しが描かれていますが、現在はその遺構は見られません。堀が深くなかなか見応えありました。

<満足度>◆◆◇

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 藤原義行
築城年 応永年間(1394〜1428)
主な城主 藤原氏、近藤氏、梁田氏、織田氏、川口氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(沓掛城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県豊明市沓掛町東本郷
問い合わせ先 豊明市生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0562-92-8317