今川義元が大高城に向け出発し、途中桶狭間で討たれてしまった因縁の城。
一度訪問してみた方お城の一つだったので桶狭間古戦場跡の訪問に合わせて行ってきました。
なかなか雰囲気のある良い城跡でした。
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2022/05/17 09:17
2022/05/07 10:42
沓掛の地は交通の要衝であった (2022/05/06 訪問)
沓掛の地は、北方の長久手、岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差する場所にあり、交通の要衝であったと言って良い。
古くから城館があったと云ってもおかしくない地形で有ります。
沓掛城は、1551年に今川義元の傘下に入った。
1560年5月18日に、駿河、遠江、三河の兵約二万五千の大軍を率いた今川義元は、沓掛城に入りました。
この時の城主は、近藤景春であった。
ここで今川義元は軍評定を開いて、大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行ったと云われています。
翌19日に今川義元は、本隊を従え沓掛城を出発しました。
その後、今川義元は大高道を通って桶狭間に入り、運命の桶狭間の戦いに遭遇するのですね。
城主の近藤景春は沓掛城に戻って、刈谷城攻めを行ったりしていたが、5月21日に織田勢によって攻められ落城しました。
その後、織田信照、川口宗勝が城主を勤めていたが、1600年の関ヶ原の戦いに於いて川口宗勝が西軍に参陣し、敗戦後捕らえられて伊達政宗にお預けと成りました。
ここで、沓掛城は廃城と成りました。
規模は、東西288m、南北234mで、本丸、二の丸、諏訪曲輪などで構成され、総堀に囲まれる形式て有りました。
当時としては、比較的規模の大きい城だったと言えます。
天守等の櫓や石垣は当初より存在しておりません。
即ち、典型的土の城なのです。
現在は、本丸、空堀、諏訪曲輪等の遺構が良好な状態で残っております。
沓掛城の古絵図で見てみると、遺構は当時とほとんど変わっておりません。
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2021/12/31 17:14
分類・構造 | 平山城 |
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築城主 | 藤原義行 |
築城年 | 応永年間(1394〜1428) |
主な城主 | 藤原氏、近藤氏、梁田氏、織田氏、川口氏 |
廃城年 | 慶長5年(1600) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
指定文化財 | 県史跡(沓掛城址) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 愛知県豊明市沓掛町東本郷 |
問い合わせ先 | 豊明市生涯学習課 |
問い合わせ先電話番号 | 0562-92-8317 |