おおばじょう

大庭城

神奈川県藤沢市


旧国名 : 相模

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三浦の晃ちゃん

休憩所に資料あり (2024/07/28 訪問)

公園全体が城趾です。
駐車場から、すぐのところに、休憩所があり、資料があります。

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イタさん

市民憩いの城址公園 (2024/06/22 訪問)

散歩する人、据え付けの遊具で遊ぶ親子、芝生広場で遊ぶ人たちが多い。桜、バラ、藤など季節の花が楽しめるようだ。

藤沢市関連のHPに、平安時代、付近を領有した大庭氏が築いたものと伝えられ、太田道灌(どうかん)が修築し、15世紀末から16世紀初頭には、道灌の主たる扇谷上杉定正・朝良の父子が相継いで居城したが、永正9(1512)年北条早雲の攻略するところとなり、廃城したものと言われる。この城を北条軍が攻撃し、この付近が戦場になったという記録はないが、城址の右端にある舟地蔵には大庭城にからんだ伝説が伝えられている。掘立柱建物址の表示板に、大庭状は台地上を東西に横断する三本の空堀により、一の郭から四の郭に分かれています。東斜面には腰郭、西斜面には二重の空堀と帯状の腰郭が残っています、と記載あり。

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しんちゃん

古くは源頼朝の強敵・大庭景親の居城 (2019/01/01 訪問)

大庭城は石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親の父・大庭景宗によって築かれたとされています。戦国期は小田原北条氏の城とされ戦国期の城にふさわしい改変がなされています。現在は城址公園として整備されていて南に向かって窄まる△形状をしており南の郭が主郭と見られ掘立柱建物の跡が残っています。主郭の北は空堀で区切られ、北に向かって二郭・三郭・四郭と続きます。

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天守無しがアツい

開発により失われた堀 (2023/01/08 訪問)

神奈川県藤沢市に、大庭城址公園という施設があります。そこにはかつて、「大庭城」という城が存在。室町時代の話です。

正確な築上時期は分かっていませんが、扇谷上杉氏(藤原北家の一人、藤原重房が上杉氏を名乗ったのが始まり。つまり藤原氏の子孫でしょう)により、1467-73年に築城された?という説があります

東と西に川が流れ、台地の上にある天然の要害として数十年間機能していましたが、1512年に北条早雲により攻め落とされ、その後、廃城になったそうです

もっとも当時の城には(大阪城や名古屋城のような)天守閣はなく、土塁に館があるだけの簡素な造り…だったそうです。大きな天守閣を設けるようになったのは江戸時代近くになってから

当時の城(室町中期)は大名の権威を示すためのものではなく、(まだ群雄割拠の戦の絶えない時代ということが背景)、敵の侵入を防ぐという目的のほうが強かったわけ。この大庭城も、小高い丘の上にあり、山城のうちに入るでしょう🏯

現在、ここは「大庭城址公園」として無料公開されていますが、当時の面影を残すものは、掘立柱建物群に堀、土塁…とそれほど多くなく、しかも地味なものだけ

添付画像は掘立柱建物群(跡) ちなみにこの柱の跡ですが、これは後年石材の柱を埋めたもので、しかもこの位置にあったのではなく、本当は別の位置だったそうです

「何故かと尋ねたら、「ただ何となく…」と返答された」と郷土歴史課の講師が語っていました。「それでいいのか?歴史研究家( ̄□ ̄;)!!」と私は思いましたね…‌

私はこの城跡についての講演会を見学したことがあり、その時は郷土歴史課の職員により大庭城の歴史と、三回の発掘調査が解説されていました

一回目の調査は1968-71年におこなわれ、当時この地域(湘南ライフタウン)は開発前。道路も民家もほとんどない状態だったそうです(現在とは街並みがかなり異なる)

その際、土塁などを発掘したのですが、致命的なミスを関係者は犯していた。それは報告書を提出していなかったこと。それを市役所に提出さえしていれば、道路を造る際、その遺跡を外れたルートで開発してくれた

でも提出しなかったから、遺跡の事は配慮されずに開発された。その結果、昔は堀のあった場所は現在は道路の下。しかも建設の際に削られてしまった…と職員は語っていました

それを聞いた瞬間、「あ~あ(報告書出し忘れた発掘担当者、何やってんだよ)😩」と溜め息混じりに、私は呟きました…。大庭城址は同じ神奈川県の城でも小田原城と比較すると知名度は低い

けど、当時の人間のミスにより、貴重な歴史的遺跡が破壊されたことに変わりはないのです。当時の日本はベビーブーム。人口増加に伴い、宅地開発のための場所確保が必要となり、ここ大庭城址周辺(湘南ライフタウン)もその対象になった

それ自体は仕方のないことと言えばそうです。でも発掘の結果を記した報告書を提出さえしていれば、遺跡からずれたルートで開発をしてくれた。でも担当者の怠慢により、それがなされず部分的にではありますが、失われてしまった…のです

先述した「ただ何となく異なる場所に再現された堀立柱」にせよ、今回の「道路の下に埋もれた遺跡」にせよ、発掘に携わる人間としてあるまじき行動…だと私は思いますね‌

その講演会の終了後、アンケートを提出した際、私はこう書いておきました。「報告書が提出されなかったことで、遺跡が失われたことは残念に思う」「もし、その道路の下に埋もれてしまった遺跡が、現在どの辺にあるのかも知りたいので、それを巡るツアーも開催してほしい」と🚶‍♀️

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 大庭氏
築城年 平安時代後期
主な改修者 太田道灌
主な城主 大庭氏
廃城年 永正9年(1512)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 神奈川県藤沢市大庭
問い合わせ先 藤沢市教育委員会教育総務部教育文化センター
問い合わせ先電話番号 0466-81-4777