建造物は何も残っていないが、四方を立派な高石垣と水堀に囲まれた美しい城址
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2026/01/25 16:10
20211223八代城(熊本県八代市) (2021/12/23 訪問)
建造物は何も残っていないが、四方を立派な高石垣と水堀に囲まれた美しい城址
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2025/11/22 15:03
(2/2)八代城と松井興長 (2024/11/14 訪問)
八代城の続き(2/2)です。
1632年加藤家改易後は、豊前小倉藩主の「細川忠興」が肥後へ入りますが、その時に家督と熊本城は子の「忠利」に譲り、忠興はこの八代城に入って隠居します。忠興死後は、筆頭家老の「松井興長」が城代として八代城へ入ります。そしてこの頃に、本丸御殿を含めた城全体がほぼ完成したようです。
松井興長と言えば🤔?・・・そうです! あの巌流島で決闘をした宮本武蔵が、小次郎の弟子たちから襲われる所を、鉄砲隊で護衛し自らの領地で匿った・・あの人物です! 興長は忠興の四男立孝を本丸に入れ、自らは忠興が隠居所としていた北ノ丸に入ります。興長死後の北ノ丸は松井神社となり、興長は今もここで祀られているそうです(写真⑥)。
松井神社の西隣には、興長の孫(三代)直之が建てた「松濱軒(松井文庫)」が立派な庭園とともに残されていました(写真①-⑤)。そこには、興長が「小次郎を倒した木刀とはどのような物であったのか?」と問うたので、武蔵は「このような物です」と同じものを自ら削って再現し興長へ渡したと伝わる物や、武蔵が興長に宛てた手紙や、武蔵が書いて送った「戦気」の掛軸など、興長と武蔵の親密な関係を示す資料が展示されていました(撮影は禁止)。
続100名城スタンプは松濱軒の向かいにある「お祭りでんでん館」にありました(写真⑦)。また八代市博物館で復元模型を見たかったのですが、休館中(26年3月まで)で見る事ができず残念でした。
帰りは市役所前から、巡回みなバス(今度は左回り)で新八代駅へ戻りました。帰りのバスまでまだ30分あり、目の前の市役所1階ロビーで八代市が生んだスーパースター「八代亜紀」のギャラリー展があっていたのでちょっと覗いてきました(写真⑧)。それを見たら、晴れているにもかかわらず、帰りのバスの中で「雨雨降れ降れもっと降れ~♪、私のいい人連れてこい~♬」と口ずさんでしまい、隣に座っていたおばあちゃんから笑われてしまいました(😩~)。
今夜は新八代駅前に宿泊し、次は新八代駅から(佐敷城)を目指します。
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2025/11/17 10:48
(1/2)八代城と加藤忠広 (2025/11/14 訪問)
続100名城の八代城へ行ってきました。
JR新八代駅(在来線口)から、八代駅経由の巡回みなバス右回り(産交)に乗り「八代宮前」で下車しました。下りると目の前に石垣がドンと見えます。八代宮は本丸御殿があった場所に明治時代に建てられた護国神社です(写真⑧)。ここからまず本丸石垣の上をぐるりと一周し、それから堀の外周を一周しました。広い堀から見えた大天守の石垣と小天守との横矢掛の折れをともなった石垣はとてもきれいで、一周すると堀に囲まれた四角い輪郭式の縄張りである事がよくわかります(写真①②③)。
八代城は1619年地震で倒壊した麦島城に代わり、加藤忠広(清正の子)が一国一城令の後の1620年に家臣の加藤正方に命じて築城した城です。当時は四層五階の大天守と二層三階の小天守、そして8つの櫓が本丸を取り囲んでいたようです。その復元図がありました(写真⑨)。そして、忠広の時代は欄干橋が唯一の出入口(大手門)で、今ある北の参道橋は松井時代に、南の参道橋は明治時代に架けられた橋のようです。
欄干橋を渡り大手門(頬当御門)から入り登城気分を味わいます(写真⑥⑦)。見事な高石垣は、上から撃ち掛けられたらひとたまりもない感じがします。でも加藤忠広は熊本城があったにもかかわらず、なぜこのような巨大な城を築城したのでしょうか? またなぜ、幕府は一国一城令の後にもかかわらず、この築城を許可したのでしょうか? 諸説あり真実はわかりませんが、忠広が島津との国境を固めたかったからという説もあります。しかし九州の関ケ原を最後にこの時まで1601~1619年の間、加藤と島津にはいざこざなど問題は無かったので、城を築く必要も無かったはず🤔? むしろ加藤と島津を警戒していたのは徳川秀忠だったのではないでしょうか? よってこれはあくまで私の推測ですが、秀忠は加藤家の莫大な財力を奪って弱体化させ、かつ島津への抑えとなる城を造りたかったので、忠広を利用して一石二鳥を狙ったのではないかと思いました。
1611年、清正が突然亡くなったため、11才の若さで家督を継いだ忠広は、右も左もわからないまま藩主となります。しかし若年の忠広には、やはり清正恩顧の家臣たちの勝手な振る舞いを抑えきれず、それゆえ自らの乱れた行いも多くなり幕府から信用されなかった・・などと諸説ありますが、ならばとこの築城を通して幕府の信頼を得たかったに相違ありません。しかしこの八代城の堀と石垣、そしてやっと大天守と小天守が完成した1632年、加藤家は突然改易されてしまいます。そして1年後に忠広は亡くなったそうです(一説には自害とか)。やはり利用され捨てられただけなのでしょうか🤔?
市役所の6階に上がり八代城を眺めてみました(写真⑩)。忠広は偉大な父清正の血を引く藩主であったにもかかわらず、幕府や家臣から信用されないまま31才の若さで生涯を閉じ、さぞかし無念であったろうと思いました。
次は、(2/2)八代城と松井興長に続きます。
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| 城地種類 | 輪郭式平城 |
|---|---|
| 築城年代 | 元和5年(1619) |
| 築城者 | 加藤正方 |
| 主要城主 | 加藤氏、細川氏、松井氏 |
| 文化財史跡区分 | 国史跡(八代城跡群) |
| 天守の現況・形態 | 連結式(非現存) |
| 主な関連施設 | 碑、説明板 |
| 主な遺構 | 曲輪、天守台、石垣、堀 |
| 住所 | 熊本県八代市松江城町 |
|---|---|
| 問い合わせ先 | 八代市文化振興課 |
| 問い合わせ先電話番号 | 0965-33-4533 |