鹿野城は元は因幡の国人領主・鹿野氏の居城でしたが、天正8年(1580)羽柴秀吉の鳥取城攻めの際に尼子家の旧臣・亀井茲矩(これのり)が入り城代を務めました。関ヶ原の合戦の際には東軍に付き3万8千石に加増され、鹿野城を近世城郭として改装したとされています。
詰めの城の頂部の郭に天守台を頂き、下の郭には城山神社が鎮座しています。麓の鹿野中学校グラウンド部分が本丸とされ、北側の中学校周辺が二の丸(または出丸)とされ周囲を水堀が囲っています。麓の近世城郭の部分は石垣と水堀の景観が美しく春には桜が咲き誇るそうです。
さぞかし見ごたえがあるだろうと思いますが、やはり中学校の周辺なので寝っころがって花見で一杯というわけにはいかないのでしょうか?
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